日本語は論理的ではないし、文法的でもない――森有正「現実嵌入」再考

1976年にパリで客死した森有正は哲学者であったが、自らの哲学についてはまとまった著作を残していない。完結していれば主著となったかもしれない『経験と思想』も尻切れとんぼだ。いくつか印象深い概念を提示し、繰り返し語っている。でも内容はどれも似たり寄ったりで、めぼしい展開がない。そのせいか、提示された概念には特有のわかりにくさ、曖昧さがつきまとっている。

結局森さんは、自分の哲学を周辺の部分しかのべないで終わってしまった、と思うんです。むしろある種の文学的な受けとられ方をして愛読者を持ったことで、本当の思想的影響を与えることが少なかった、とさえいえるのじゃないですか。森さんにいちばん期待していたことが果せないで終わった。だから森哲学というのは、周辺から窺う以外にないんです。たとえば「経験」なら「経験」というのは、現実に哲学の歴史の上で出て来るすべての「経験」概念と違う独特のものです。自分の思索の過程でふみ固められて行った概念ですから、それこそ森さんの定義であって、森哲学が体系的に提出されなきゃ本当はわからないんです。
丸山真男森有正氏の思い出」)

森有正に関しては、以前からひとつ気にかかっていることがあり、それについてまず書いておきたい。ほかにも同じようなことをいう人がいたかと思うが、典型的な例として言語学者川本茂雄の言葉を掲げることにする。論文集『言語と構造』に収められた「わたしの辿った道」というエッセイで、川本は、「森有正氏が日本語には文法がないとか、日本語は非論理的であるとか言われた」と書いている。しかし、森有正は、「日本語は非論理的である」とはいってないのではないか。

森有正は、ときどき無性に読み返したくなる。それで実際、読み返すのだが、「日本語には文法がない」に類する表現がいくつも認められる一方で、「日本語は非論理的である」というような言葉には、どうしたわけか、一度も出くわしたことがないのだ。もちろん、全部隅から隅まで読んでいるわけではないし、見落としている可能性もある。だが少なくとも、川本が司会を務め、森と中村雄二郎が加わった鼎談(「ことばの世界」、川本茂雄編『座談会ことば』所収)においては、「日本語は非論理的である」という発言は、森の口からは最後まで発せられていない。

しかし、では、森が「日本語は非論理的である」というようなことをまったく思っていなかったかといえば、そうではない。たとえば上記の鼎談でも、「日本語が非文法的である」という森自身の発言と、「日本語は非論理的であるか否か」という問題が、主に中村雄二郎によって、いっしょくたに俎上にのせられても、そのことに関して森は、ひとことも異議を唱えていない。また、次に引くように、「文法的」「論理的」という言葉を、あたかも同義語であるかのごとく使っている条りも存在する。

フランスの大学生に日本語を教えることは非常に困難である。(中略)私は、一番大きい困難は、日本語は、文法的言語、すなわちそれ自体の中に自己を組織する原理をもっている言語ではない、という事実にあると考えている。もちろん現実との関連において、完全に論理的に組織されている言語は存在しないのであるから、これは相対的なことであるかも知れないが、日本語では、その非文法的である度合が甚だしいのである。
(『経験と思想』、強調引用者)

さらに、金谷武洋『日本語に主語はいらない』によれば、森がフランス語で書いた『日本語教科書(leçon de japonais)』には、もっとはっきり、「(日本語は)論理的、文法的見地から見てとても取り扱いにくい(très peu maniable du point de vue logique et grammatical)」という記述があるという。

むしろ森は「日本語は非論理的である」と考えていた。そう認めていいだろう。けれど、この言葉を、森を批判する人たちのように、短絡的に、「日本語という言語をもってしては論理的な話ができない」とか、「日本語は言語として論理的な思考に向いていない」とか、そういう意味合いで受け取るのは、よろしくない。森はそういう意味合いでは「日本語は非論理的である」といっていない。

森によれば、フランスの中学校では、フランス語の授業で、文法的分析(analyse grammaticale)と論理的分析(analyse logique)というものが教えられる。前者「文法的分析」においては、

一つの文章の各語を品詞の区分に整理し、それが文中でどういう形態をもち、どういう機能を果たしているかを明らかにする。こうして各文章を構成している「語」が、文法的に完全に説明できる。次に「論理的分析」は、文章を単位にして行う分析であり、もっとも重要なものである。(中略)文章を単位とする分析とは、文章の構成、つまり単文章、複文章、後者においては主文章と従属文章、更にその従属の種類を区別する、「原因」、「理由」、「前提」、「手段」、「目的」、「情況」など(*1)。
(「『ことば』について」、『遠ざかるノートル・ダム』所収、強調は原文では傍点)

ところが、日本の国語教育を考えてみると、「文法の本をみれば、文の分析は行われているが、(中略)それは説明的一方で構成的ではない」。換言すれば、「語」のレベルにおける文法的説明はなされているが、「文章の構成」が扱われていない。それはなぜか。それは、

各語が純粋にことばとしての「語」になっていない「現実の嵌入」が多い文において、完全な分析を行うことはむつかしいことであるし、ましてそれが構成的になることは不可能である。
(同前)

まずわかるのは、森が「論理的」という言葉で問題としているものが、「文」のレベルに存するということである。日本語の文は、フランス語の文のようには、「論理的分析」を受け付けない。個々の語を取り上げて、その語の品詞が何であり、どのような形態や機能を持つのかを個別に説明することはできるが、複数の語からなる文が、文として、どのような構成をとっているのか、節と節がどのような関係にあるのか、そしてその節が文の構成上どのような機能を果たしているのか、それを分析し切ることはできない。なぜかといえば、日本語の場合、文の中に語とは異なる要素、「現実」が「嵌入」しており、この「嵌入」した「現実」が直接、周囲の語との間に統語的な関係を結んでしまっているからである。つまり森は、日本語の発話においては、「現実」が文の構成要素になってしまっているため、もっぱら語と語が相互に関係するものとしては「文」の分析が不可能であると指摘しているのである。だから、日本語には「論理的分析」を施すことができない。日本語に関する森の、「論理的」な次元での否定は、このように「文」の水準において現れるのである。このことに注意しなければならないだろう。

では、「現実」の「嵌入」していない「文」、純然たる語のみからなる「文」、すなわち「論理的分析」に耐えうる「文」とは、森にとって、どのようなものなのか。それは、フランスの中学生が、先生に教えられて、論理的に分析することができるようになるというフランス語の文がどういうものであるかを見れば、おのずから明らかである。フランス語の文は、原則的に、主語と述語から構成されている。つまり、論理学的な「命題」の形をとっている。

一つの命題には、主語と賓辞があり、それが繋辞によって関係づけられて結合されている。その各項は、完全に表明された概念あるいは表象で、その関係を肯定したり、否定したりする。その作用にも色々様態がある。しかし何にしても、この命題の形をとることは、主語が三人称として客体化され、それに対して主体が判断を下すということになる。判断には肯定、否定、条件などがあるが、それらの可能性の間から主体は選ぶことが出来る。こうしてあるもの、あるいは事柄に関して命題が建てられる。あるいは観念が確保され、その観念相互の間の論理的な関係も次第に明らかにされて、一つの思想が形成されて来る。
(『経験と思想』)

自分は「命題」という言葉を「論理学で定義されるような厳密な意味」で使っているわけではないと、森は何のためか予防線を張っているが、この命題概念は、伝統的な西欧論理学のそれそのものであるといっていいだろう。

ただその際必要なことは、そういう操作は、凡て言葉が命題を構成することによって行われるのであるが、その言葉は、それ自体の中に意味を荷なう概念であって、その言葉の中に「現実嵌入」が絶対に起ってはならないのである。
(同前)

つまり、森は、「現実嵌入」が頻繁に起きている言語、すなわち日本語においては、「思想」の単位としての「命題」が構成されないといっているわけだ。結局のところ、森が「日本語は非論理的」といったとすれば、その主意は、言説の構成単位としてある言表が、日本語では、論理学でいう「命題」をきちんと写すような形になっていない、すなわち「主語+繋辞+述語」という形を厳密になぞっていない、ということなのである。日本語では論理学が扱えないとか、論理的な議論はできないとか、そんな話ではない。ついでにいえば、「西欧(語)には西欧(語)の、日本(語)には日本(語)の論理がある」といった、よくある森有正批判も、だから批判になっておらず、無効である。「論理的じゃないのは言葉の使い方が悪いせいだ。言葉そのものに責任はない」(*2)という指摘もまた、これが森有正を批判することを目的にいわれたものであれば、やはり的外れであるとしかいえない。

見たように、「日本語は論理的ではない」という森の考えは、言葉の、局限された面にかかわる。そしてこの事実は、日本語の非文法性をめぐる発言にもそのまま当てはまる。森は無限定に「日本語に文法はない」といったわけではない。正確には「実用的規範文法が存在していない」(『経験と思想』、強調は原文では傍点、次も同じ)といっているのだ。もちろん日本語にも文法の教科書は存在する。しかし、「それは日本語の機能を帰納的に整理したものではあっても、そこから逆に日本文を再構成することは全く不可能なのである」。つまり、森がいいたいのは、それを学べばそれだけで日本語の文を正しくアウトプットすることができるようになる、そういう文法が用意されていないということである。そして森がこの不備の責任を文法学者や文法書に負わせないのは、非論理性を使い手の責任に負わせないのと同様である。

こういう風に国文法が日本文を書くのに役に立たないというのは、それでは文法書の欠陥なのであろうか。私はそうは思わない。私は、それは、日本語というものが文法的な言語ではないからだと思う。
(「『ことば』について」、『旅の空の下で』所収、前出の同名エッセイとは別)

日本語に「実用的規範文法が存在していない」のは、日本語が「文法的な言語ではないからだ」(したがって、森の「日本語に文法がない」発言と「日本語は文法的言語ではない」発言は、区別が必要だ)。念のためいえば、森は、フランス語であれば、文法を学んだだけで自由自在に文章がつづれるようになるといっているわけではない(*3)。森が問題としているのは、ここでもやはり「文の構成」なのである。日本語文法の教科書によっては、「日本文を再構成することは全く不可能なのである」。なぜそうなのか。それは、日本語では、「ものが文章の一部になってしまっている」(「ことばの世界」)からである。「換言すれば、『現実』が『言葉』の一部になる、ということ」(『経験と思想』)があるからである。ようするに「日本語を非文法的言語にしている一番大きい理由」(同)は、またもや「現実嵌入」にあるということだ。

すでに引用したが、よく批判にさられる(*4)「日本語は、文法的言語、すなわちそれ自体の中に自己を組織する原理をもっている言語ではない」という指摘も、この「現実嵌入」という事態を指している。つまり、言葉が言葉だけで独立的に組織されておらず、「現実」というものが、文に不可欠な構成要素となってしまっているということであり、森は、たとえばシンタクスの存在を否定しているわけではない。そのことは、先述の鼎談において、川本茂雄の問いに応じる形で明言している(*5)(だから、森有正批判の文脈で、「文法のない言語など存在しない」という言語学的常識を持ち出すのは早とちりだ)。

「現実嵌入」が問題である。日本語の非論理性のみならず、日本語の非文法性の主因でもあるとされるこの「現実嵌入」とは、しかし、実際のところ、なんであるのか。言葉に「現実」が「嵌入」するとは、具体的には、どういうことを指しているのか。

森がその実例として挙げるのは、まず第一に「これ」という言葉の性状である。日本語の「これ」は、「指示代名詞」と呼ばれているが、じつは「すこしも代名詞ではない」。

「これ」は話し手の近くにあるものを、直接に指しているので、何か他の名詞、すでに文中に現われた、あるいは少なくとも文中に含意された名詞に代わるものではない。「これは本だ」と言う場合、「これ」は現にそこにある本そのものである。だから、その本が極めてはっきりしていれば、「これは」というのを省いても一向差し支えがない。現実にそこにある本と「本である」という言葉とで一つの文章になっている。
(『経験と思想』)

「代名詞」は、「名詞に代わる」から「代名詞」なのである。ところが、「これ」は、そうではない。「近くにあるものを、直接に指している」だけだ。つまり森は、日本語の「これ」は、もっぱら直示の指示詞として機能しており、本来の代名詞ではありえず、照応の機能は持たないといっているのである。

この見方に関しては、座談会「ことばの世界」で、川本茂雄が、フランス語にも「vous, moi, ça」など、日本語の「これ」と同じように直示的な働きしか持たない代名詞があるではないかといい、また逆に、人の発言に対して「やあ、それは問題だよ」という場合の「それ」は、「今言った君の思想とか考え」を表している、つまり「含意された名詞」(*6)に照応しているではないかといっている。

森は、その場においては川本に答えていないが、『遠ざかるノートル・ダム』所収の「『ことば』について」に、こういう記述がある。日本語の「これ」に当たる言葉として、フランス語には、「ceci」「cela」などがある。これらの語は、「これ」と同様、たしかに直示の作用を持つが、やはり代名詞である以上、照応の機能をちゃんと持っている。というよりも、「ceciの本来の機能は先行の文章における位置的に(時間的に)近いものを指し、celaはより遠いものを指す」ことにあるのだ。他方、日本語の「これ」「あれ」といった言葉も、フランス語の指示代名詞と同じく照応として使われることがあると認めてもいいが、しかし、これは「むしろ漢字の影響であり、つまり中国語でのことであって、日本語本来の機能ではないように思われる」。

フランス語の人称代名詞については、川本の指摘する通り、一人称・二人称が照応として用いられず、もっぱら直示的に使われるのに対し、三人称は原則(*7)照応的であるという違いが見られる。これに関しては、たとえばバンヴェニストなども、一人称・二人称の代名詞を、話し手と聞き手を直示するという点で、ceをはじめとする指示詞一般と関係づける一方、ひたすら統辞論的な「経済の要求」に応じた代理機能、すなわち照応機能を担う三人称代名詞については、前二者と根本的に性質が異なるのであるから、むしろ「非=人称」(人称ではないもの)とみなすべきだとし、両者の違いを強調している(「代名詞の性質」、『一般言語学の諸問題』所収)。

バンヴェニストの考えは、フランス語の側において、照応せずに直示する代名詞の存在を際立たせているという点で、川本に有利に働く意見であると思われるが、これとはまた違う見方もあって、たとえば森のエッセイにもしばしば登場するポール=ロワイヤル文法には、次のような一節がある。

同じ話の中で同じ事物を話さねばならないことがしばしばあるが、同じ名詞をその都度繰り返すのが煩わしくもあるので、人々はこれらの名詞に代換する幾つかの語をつくった。これを、かようなわけで、代名詞(Pronoms)と名付けた。
まず第一に、人々は自ら自分の姓名を名のることはしばしば無用で気の進まぬことであると考えた。そこで、話者の名前の代わりとして第一人称の代名詞Ego, moy, je(私)が取り入れられた。
話し相手の名前を言わなくとも済むように、相手を第二人称の代名詞と呼ばれるtoy, tu(君)、vous(あなた)なる語によって示すのがよいと考えた。
そして、話題にのぼっている他の人々、他の事物の名前を繰り返さずに済むように第三人称の代名詞ille, illa, illud(あれ)、il, elle(彼、彼女)、luyなどが作られた。

人称代名詞はどれも等しく、もともとは「名前の代わり」として作られた。直示でしかないように思える一人称の「je」、二人称の「vous」も、じつは照応している。「含意された」話し手の名前、聞き手の名前に照応しているのである(*8)。だからこその「代名詞」だ。このような考え方は、森有正的な考え方といえるだろう。

しかし、いずれにせよ、日本語にも照応があり、フランス語にも直示があるという事実は覆らないのではないか。ダイクシスはありふれた言語現象であり、これを「現実嵌入」と呼ぶのであれば、恐らくどんな言語にもあるだろう(無論確かめたわけではない)。

また、仮に日本語において比較的多くの言葉が直示的にふるまっている、場面や文脈への依存性が高い、というようなことがいえたとして、このようにいえたことをもって、「現実」が言語の中に「嵌入」しているというのは、少々いいすぎではないのかという気が、どうしてもする。森は「『これは本だ』と言う場合、『これ』は現にそこにある本そのものである」というが、「これ」は、現実の世界にある「本」を指示しているだけで、あくまで言葉のままであり、「本そのもの」ではないだろう。「本そのもの」は言語の外部にとどまっている。だからこそ「指示」することができるのであって、「嵌入」など起きていない。

森はさらに続けて、「その本が極めてはっきりしていれば『これは』というのを省いても一向差支えがない。現実にそこにある本と『本である』という言葉とで一つの文章になっている。」といっている。これはつまり、「現実にそこにある」物理的な本と、「本である」という言葉とで、主語と述語を備えた一つの文が構成されるということをいっているのだろう。けれど、現実の本など算入しなくとも、日本語では「本である」だけでもうすでに「文」であると認めていいのである。わざわざ現実の本を持ち出して、「文」の中に引きずり込む必要はない。「現実嵌入」は、命題と同型の文を完全な文とみなすことによって成立する特殊な考え方であるが、そのようにみなす必要も義務もないのだ。だから、ダイクシスの側面からの森の説明は、あまり説得的ではない。

とはいえ、「現実嵌入」説は、このこと――指示の問題――だけを根拠とするものではない。森は日本語の助動詞の働きを取り上げている。助動詞とは、森によれば「陳述全体に話し手のその陳述に対する主観的限定を加えるもの」であり、「例えば『これは本です』と言えば、意味から言えば、『これは本である』、『これは本だ』と全然同じであるが、この二者に比較してより丁寧に言うという態度を示している」(『経験と思想』)。

「これは本です」「これは本である」「これは本だ」という三つの文は、意味(命題)としてみればどれも同じだが、それぞれモダリティが異なっている。このことをまず確認した上で、森は次のように指摘する。「陳述全体に話し手のその陳述に対する主観的限定を加えるもの」であるからには「本質的に一人称的である」はずのモダリティが、日本語の場合、どうもそうなっていない。といって、「二人称や三人称では無論ない。また非人称と言うのもおかしい」(同前)。

私は、これもまた日本語における「現実嵌入」の顕著な例であって、話し手と話し相手との、その場合の「二項関係」の中に、社会的階層が現れているものであると考える。それでは、話の内容、例えば「これは本[である]」という内容とは次元の違う別のものかと言うと、そうではなく、この場合、この助動詞は両者の関係を示すと共に、話の内容を肯定し、断定し、確言するという意味合を含んでいる。しかしこの意味合は、話し手が独立に賦与するものではなく、あくまで話し相手を意識の中に置き、それとの共在の上で下す意味合なのである。
(『経験と思想』)

発話主体が、ある陳述行為を遂行する。その際、陳述の外部としての発話主体が、モダリティという形で陳述の内部に――もちろん比喩的な意味で――入り込む。したがって、モダリティを通じて、言語の外部が言語の内部に組み込まれるといっていいが、しかし、これはもちろん、日本語に特有のことではない。

フランス語の文、たとえば「C'est un livre.」を日本語に訳すとき、「これは本です」「これは本である」「これは本だ」等、文末表現の選択が不可避である。そこから逆に見ると、「C'est un livre.」という文は、裸の命題として投げ出されているように見える。しかし、たとえフランス語の文であっても、命題がむきだしのまま置かれているわけではない。モダリティは、陳述に抜き差しならない形で組み込まれている。「C'est un livre.」でいえば、この文は「直接法」というムードに包まれてある。論理学的な言語運用では、実践上その事実が無視されるだけなのだ。そしてこのように実践上、命題外要素を無視し、文と命題を同一視できるのは、日本語の運用でも同じだろう。

右引用部で森のいっていることは、こういうことではない。その眼目は、モダリティを決める発話主体のあり方が、フランス語と日本語とで異なっているということにある。森は、発話主体が話し手の一人称としてあるフランス語と違い、日本語では話し手と聞き手との「二項関係」が主体となっているというのである。

二項関係」とは、森思想のキーワードのひとつで、簡単にいうと、日本人の主体は、西欧のように個人という形では成立しておらず、二人の人間が作り上げる関係としてあるということをいう概念である。この二者の関係は、二人で一人とでもいうような「親密性」と、社会的地位において両者が対等でないという「垂直性」を特徴とする。また、二項の関係が主体ということは、結局、「私」が無い、「無私」である、ということに等しく、日本人の主体は「我」としてない。それは「汝の汝」としてある。日本語の助動詞は、こうした「二項関係」に連合する「社会的階層」を反映している。そして、この助動詞が日本語の言表を言表としてまとめあげる上で不可欠な要素であるのなら、日本語では、上下関係から自立した個人が命題という形で客観的に判断を下すという構えをとれない。森はいう。「こういう次第であるのは、思想というものに対して殆んど致命的であるように思われる」(『経験と思想』、強調は原文では傍点)。

しかし、もしこのような「社会的階層」の反映を「現実嵌入」と呼ぶのであれば、「現実嵌入」はフランス語でも起きている。フランス語の話者は、二人称代名詞を主語に立てる場合、Vousを使うかTuを使うか、必ず選択しなければならない。相手と自分との関係性を発話において確定しなければならないということである(*9)。ロラン・バルトは、こうした立場の選択を強制する言語の性格を「ファシスト的」と呼んでいた。

フランス語の二人称の選択は、日本語の文末表現と違い、すべての文に関係するものではない。しかし、何らかの社会的関係性は、フランス語でも、たとえば語彙の選択や語り口において、常に付着していると考えられる。中立的な語り、「零度のエクリチュール」が不可能であることは、いまや常識に属しているとさえいえる。

けれど「社会的階層」の問題は、「二項関係」の一側面にすぎないのである。この点にこだわりすぎることは、森の問題意識を見誤ることになるだろう。「汝の汝」が「経験」や「思想」の主体となっている。これが真の問題である。「現実嵌入」は、もはやどうでもいい。一人称が占めるべき主体の座を、「二人称にとっての二人称」が占めている。視点が反転しているということだ。このような視点の反転を可能とする条件としては、他者の実在性への、無条件の、絶対の信頼がなければならないだろう。つまり、非独我論的な世界が、森有正的な主体の成り立つ条件である。そしてこれは、「独我論というものがわからない」人間を育てる土壌でもあるだろう(*10)。「汝の汝」の場、ここには、人称論にとどまらない、主体の編成に関する知の、手つかずの領域が広がっているのではないか。


註:

*1:森は「文章」と「文」と「節」を区別してない。「単文章」「複文章」は今でいう「単文」「複文」を、「主文章」「従属文章」は「主節」「従属節」を指している。「文章の構成」は「文の構成」である。

*2:これは志賀直哉批判でもよく使われる論法である。「志賀直哉の日本語廃止論をめぐって - 翻訳論その他」を参照。

*3:むしろ森は逆の発言をしている。たとえば、「必要上短い文章を一つ書いてみても、フランス人に徹底的に直されてしまうのです」(「パリの生活の一断面」)。

*4武田徹日本語とジャーナリズム – 晶文社スクラップブック」第5回「論理的なのか、非文法的なのか――本多勝一の日本語論<前編>」(<後編>は、まだ掲載されていないようだ)や、奥津敬一郎「言語における普遍と特殊-うなぎ文の世界-」(pdfファイルに直リンク)を参照のこと。

*5:川本:(……)いくら日本語の文法がないといっても。そこである程度の語の配列というふうなものは定っておりまして、そういう定まりを文法事実ということにいたしましょう。(……)先生のおっしゃるのは、文法事実がないということではありますまいね。
森:そういうことは絶対に言ってません。
(「ことばの世界」)

*6:フランス語の人称代名詞は、原則的に既出の名詞を指す。「il」であれば男性名詞、「elle」であれば女性名詞を受けるのだが、とくに会話の際など、照応先の名詞が(後方にも)現れず、人称代名詞が単独で使われることも多い。これは、話し手と聞き手の間で、当該代名詞の指示する名詞が何であるか、文脈・情況の働きにより共通了解ができている場合に可能となる。森のいう「含意された名詞」とは、こういう意味であると考えられる(ただし「人称代名詞が直示的に使われるケース」とする文法書もある)。この条件を逆手にとって、共通了解ができているとまではいえない名詞を敢えていわず、代名詞を用いることで、親密な感じを演出することができるのは、日本語の助詞「は」を初出の名詞を受けるのに使用することによって、読者を物語に引き込むことができるのと同じといえるかもしれない。

下の動画はエリック・ロメール監督作品「夏物語」の冒頭に近い部分だが、海から上がってきたガスパール(男)にマルゴ(女)が声をかけるシーンがある。マルゴは、ガスパールに向かって、いきなり「Elle était bonne ?」(Elleはどうだった?)と言葉をかけるが、ガスパールは人称代名詞の「Elle」が一瞬わからず(あるいはわからないふりをして)、「L'eau ?」(水のこと?)と聞き直してから、「Un peu froide.」(ちょっと冷たいかな)と答えている(6:40あたり)。マルゴは、前の日出会ったばかりのガスパールとの間合いを、この言い方で詰めようとしているのである。

*7:三人称複数の「ils」は、不定代名詞的に「連中」「あいつら」という意味合いでよく使われるので。

*8:では実際に、一人称を指すのに人称代名詞を使わず、自分の名前を使って語ることがあるのか。ある。たとえば正式な外交文書では、文書の発出主体を「nous」等の一人称で表さず、機関の名称と三人称代名詞で表す。また、目の前にいる相手を「vous」ではなく三人称で表現するケースも存在しており、召使が主人を指して使う場合の「Monsieur」「Madame」等がそれにあたる。実例としては、ジャン・ジュネの戯曲『女中たち』に出てくる「Que Madame m'excuse」という台詞を挙げることができる。岩波文庫の日本語訳では、これを「奥様、お赦し下さい」と訳し、「奥様」を呼格のようにしているが、原文のMadameは主格である。無理に原文の格をはっきりさせる形で訳すと、「奥様が私をお赦し下さることを願います」(説明的な訳である)。いずれにせよ、日本語では、イレギュラーな形であることが伝わりにくい。渡辺守章の訳注(10)に詳しい説明があるので参照のこと。

*9アラン・クルーズ『言語における意味』(片岡宏仁訳)によれば、社会的な関係性を共示するこの種の二人称代名詞を「TV代名詞」というようだ。

*10:個人からなる社会、森有正のいう「アンゴワッス(angoisse)」を基調とする社会においては、独我論を否定する人間はいても、独我論がわからないという人間はいないはずだ。