難解さとは別の仕方で


山崎ナオコーラの小説の、物語性の薄さ、弱さ、物足りなさ。とにかく、それが淡いことには定評がある。大きな事件が起こらない。時間は右から左に、きびきびと流れていく。なにも起こらないわけではない。もめごとやごたごたはある。けれど、こうした些細な出来事は、なにも起こらないという逆の意味での事件の芽をあらかじめつぶすことで、むしろ物語の淡さを際立たせるように作用する。でも、物語性の希薄な小説は、べつだんめずらしくないのだ。

「桂美容室別室」の店長、桂孝蔵(かつらこうぞう)は、他人の髪の毛を懸命にカットしているが、自分自身はカツラをかぶっている。あまりにもはっきりとカツラだとわかるカツラなので、「美容師なのに『カツラ』」というのを売りにして商売をしているのではないか? と客たちは思う。そこでいろいろ聞いてみたいところなのだが、カツラのことはなかなか本人には質問出来ないのが世の常だ。
山崎ナオコーラ『カツラ美容室別室』)

この書き出しは、読み手を当惑させる。この当惑が、うまいほうに転がれば、「楽譜のような小説」という田中和生の評(新潮2008年3月号)になるし、まずいほうに転がれば、「これって、つかみ? それとも笑うとこ? 全然、乗れないんですけど」という山田詠美の評(第138回芥川賞選評)になる。

田中も山田も、この書き出しの言葉の持つ特質を、正確につかんでいる。

この書き出しは「乗れない」。ここで山崎は、読み手が小説に「乗る」ために必要ななにかを殺しているのだ。なにかとはなにか。答えは「意味」だ。この一節には意味がない。

ここで意味を殺す山崎のやり方は、ちょっと類例が思い浮かばないほど徹底している。といっても、この文章は、「意味不明な文章」ではない。読めばわかるとおり、意味のわからない箇所など、どこにもない。問題はその先で、この明快な言葉の集合に、「だからどうしたのだ?」(加藤典洋)と問いかけても、沈黙しかかえってこないのだ。ようするに、「わかりやすい。でも何もいっていない」(ロラン・バルト)。この沈黙を前にして、真摯な読み手は、いやおうなしに、かつて吉本隆明が立っていた場所に立たされることになる。

わたしは、ある種の古典詩歌の作品が、単純な叙景や、叙情にもかかわらず、感銘をあたえるのはなぜか、ということにひっかかっていた。つまり、意味をたどってみれば、ほとんど〈ここに美しい花が咲いています〉というような、単純なことしか云われていないのに、どうして感銘を与えるのか、ということが疑問でならなかった。
三浦つとむ『日本語はどういう言語か』解説)

たとえば、同じように「無意味」を志向しているかに見える現代の作家に中原昌也がいるが、その作品を構成する言葉は、たんに「無意味」なわけではない。表情がある。ニヤニヤしているのだ。二葉亭四迷訳「あひびき」を源流に持ち、小島信夫の初期短編を経由して、中原作品に注いだ「詰屈聱牙」の伝統は、中原の言葉では、ナンセンスという立派な意味をまとっている。

山田詠美は、こうした「無意味(ナンセンス)」という意味づけさえ拒絶する山崎の無愛想な文章を前にして、明らかに苛立っている。「だからどうしたのだ?」といっているのだ。もう一人、田中和生は、一編を「楽譜」にたとえ、その演奏、すなわち解釈作業を読者一般の手に委ねる。この比喩は、「開かれた作品」という概念の記憶をよみがえらせるが、「開かれた作品」が「どうとでも読める」という意味的豊穣さの隠喩であるのと違い、意味作用を押さえ込む形に並べられた右引用部の言葉に限っていえば、むしろひどく閉ざされた感じがする。

山田は正直で、田中は賢明だ。でも、いっていることは、ただひとつ、この一節には、意味がない、そういうことなのである。

こうした「意味の意味」の起動をスマートに押さえ込む山崎の感性の根にあるものはなにか、考えてみる。保坂和志との対談で、野矢茂樹が、こんなことをいっている(文学界2000年1月号)。

ひとつ、「面白い」っていう言葉で引っかかることがあるんですよ。食事の後で、「ああ、おいしかった」というのはごくふつうですけど、「ああ、面白かった」と言ったら変ですよね。あるいは、ごくふつうのセックスが終わった後に、「ああ、面白かった」と言うと、なんか不真面目というか、不謹慎な感じがする。

このあと野矢は、「面白い」という言葉が、読後の感想として、どこかそぐわない小説がある、というふうに話をもっていくのだが、いま、あるひとつの場面を『長い終わりが始まる』から引用するのは、この作品がその小説だというためではない。「自分の未来に興味がない」一種の刹那主義者として造形されているヒロイン小笠原は、大学のマンドリン・サークルに所属している。小笠原は、同じサークルで指揮者を務める男子学生、田中のことが大好きだ。でも田中は、小笠原のことが、さして好きではない。別に彼女がいる。そんな田中を、小笠原は自分の部屋に誘い、セックスする。気持ちよく腰を振る田中の下で、小笠原は「痛い、痛い、避妊したい」と思っている。ひとり絶頂に達し、膣外射精した田中が、小笠原の腹の上に「出ちゃった」精液をティッシュでぬぐう。

(田中はティッシュを)三枚ぐらい、引っ張り出して、小笠原の腹を拭いた。
「繁みの上に……」
などと言いながら、毛の上に飛び散っているらしいものも拭いてくれている。お返ししよう、と小笠原は思い、田中のを拭いてあげた。なんと言ったらいいのか分からなかったため、とりあえず、
「面白かったね」
と小笠原はにっこりしてみた。

小笠原は、セックスという行為の位置づけ、ないしカテゴリーが、どうやら判断できていない。この場面で彼女は、「不真面目」あるいは「不謹慎」であろうとしたわけではない。むしろ逆だろう。それなのに「面白かったね」といってしまう小笠原に致命的なまでに欠けているものは、でも、それをたんに社会性と呼ぶだけでは不足だ。小笠原には、人間として生きていく上で不可欠の、大事ななにかが欠けている。こうした致命的な欠落に由来する、意図と言動のギャップに、読み手の心が揺さぶられるのだ。ここには、上質のせつなさがあるが、この上質のせつなさの源泉にあるのが、「面白かったね」という絶妙な言葉を選び出す、山崎の論理的感性であることは、まちがいないだろう。

山崎の文章は、たしかに読みやすい。けれど、それは、たとえば、文章のゆるさ、とは徹底して無縁であることが、これによって確認される。語の選択における厳格さ、的確さが、山崎の文章と、意味に対して鷹揚な、ゆるい文章との間に、根本的な差異を置く。つまり山崎の文章は、きついのだ。

そしてこの論理的厳格性は、『カツラ美容室別室』の書き出しにおける意味の停止とも無関係ではない。意味の窒息をもくろむ山崎は、針の穴を通すような正確さで言葉を、きちきちに並べていく。ここで意味は、将棋でいう「詰み」の状態にある。論理的に追い詰められ、身動きを封じられた意味は、「意味の意味」に成り、逃げ出すことができない。

この、『カツラ美容室別室』の、きわめつけのくだりが示すものをひとことでいえば、小説家山崎ナオコーラの異常性ということになる。

小説家は、ふつうだれでも、その言葉に、色や匂いや重みや厚み、すなわち存在感を与えるように書いている。換言すれば、その価値をつり上げる方向で、言葉をつむいでいく。この傾向は、言葉の存在感を強めたいという意識が極端なまでに高まった場合、しばしば「難解」と形容される、もう一方の異常さに至ることがあるが、それにしても、それを「難解」という限り、読み手はそこに解釈の余地を認めているわけである。そしてそれはその言葉が、意味への志向を手放していないからに違いない。たとえば「難解」な小説を書く小説家として知られる大江健三郎は、ロシアフォルマリズムの「異化」概念に、文学の言葉がわかりにくいことの理論的基盤を見出しているが、そもそもこのフォルマリズムの唱導する「知覚をむずかしくし、長びかせる難渋な形式」(ヴィクトル・シクロフスキー)が、そのような形式それ自体を最終的な目的としているわけではなく、やはり究極的には内容を狙うものであったことは否定できない事実だ。つまり、読みにくい小説は、そうであることによって、言葉の価値を高める一方、言葉が意味を持つこと、言葉のつらなりの先にそれを総合する意味が来ることに寛容なのである。でも山崎は違う。

山崎ナオコーラのやり方は、言葉をむずかしくしたり、読みにくくしたりすることによって、その価値を直接的に高めるのではなく、言葉の意味を押さえ込むことによって、間接的に価値の側面を浮き上がらせるという、前代未聞のやり方なのだ。だから、山崎の言葉の価値は、ほぼ日常の言葉の水準に保たれたままだ。ただし、そこから「意味」が抜かれている。したがって、山崎の言葉は、日常会話の言葉のように「わかりやすい。でも何もいっていない」。このような操作を施された言葉は、文学の言葉としては、頼りなく、ふわふわしている。けれど、その端々に、不穏さや悪辣さの影がさしている。理由は明らかだ。山崎の平穏な言葉の水底から、幽かに、窒息する意味の悲痛なうめきが聞こえてくるせいだ。そして、ここに、山崎作品の「読みやすさ」の本性が現れている。

とはいうものの、意味をひねりつぶす山崎ナオコーラが、言葉の価値のダイレクトな引き上げを、まったくやっていないというわけではない。「言語に意識的な」小説家たちがよくやるような、あからさまな言葉への加重はもちろんやらないが、その価値を引き上げることは、ひかえめながらやっている。

山崎の価値論的な操作で顕著なのは、吉本隆明の言葉でいう「転換」の多用である。この「転換」というタームを、吉本は定義していない。『言語にとって美とはなにか』の「短歌的喩」について述べられた箇所から、具体例を二つとってみる。

眠られぬ母のためわが誦む童話母寝入りし後王子死す岡井隆)(強調は吉本、原文では傍線、次も同じ)

児を持たぬ夫の胸廊子を二人抱かむ広さありて夕焼(新井貞子)

いずれも強調部とそれより前の部分の間に脱臼があると感じられるが、この脱臼を吉本は「転換」と呼び、こういっている。「これらの作品のできばえは転換がどれだけとなりえているかに、おおきく左右されている」(強調吉本。以下同じ)。つまり、吉本は、喩になっている転換と、喩になっていない転換とを区別し、前者のほうが後者よりも価値が高いと考えている。右の例では、岡井の歌で「王子死す」は「意味的な喩」になっている。ここで「意味的な喩」とは、痴呆症の母親の眠りと童話の中の王子の死がメタフォリカルに重なっているということだと考えられるが、これに対し、新井の歌で「夕焼」は、「転換の役目をはたしているがの役をしていない」。したがって、吉本の考えによれば、岡井の歌のほうが価値が高いものとなる。

こうした考えが出てくるのは、吉本が、価値を決める四つの要素の中で、喩が「いちばん高度」であると考えているからである。

こうした価値の序列化が疑わしいと感じられるのは、「喩的な本質」を持たないように見える山崎ナオコーラの「転換」が、そのへんの比喩とは比べ物にならないほど大きな快楽を提供してくれるからに違いない。

引用するのは「膨張する話」の末尾で、高校三年生の「オレ」が、同級生の海藤あさみとデートした帰り、駅のプラットホームに立ち、その日の出来事を反芻しているシーンである。

海藤さんのこと。仕草が、面白かった。
頷き方、指のさし方まで、知性と優しさと生きる喜びがあるようで。
オレたちは、一体いつまで仲が良いのだろう。大人になっても、ずっと仲が良い、なんていうことは、ありえないよ、たぶん。
プラットホームの外には、どこまでも宇宙が広がっている。
ビルの右上に、下半分が欠けている月が出ている。白い。さらに目を右に動かすと、輝く黄色い星が、ひとつある。光に強弱がある。またたく理由がわからない。
目の運動のために、月、星、と交互に視点を動かす。月、星、月、星、月、星、目は暗闇をさまよい、明るい点を見つける。
受験勉強の、やり方がわからない。
また暗闇の生活が始まる。ガケップチを手さぐりで進むんだ。年が若いと、死にそうになる。
(強調引用者)

強調部の箇所で文章が屈折しているが、とりわけ二番目の「受験勉強の、やり方がわからない」という言葉の唐突さ、鋭さは、「またたく理由がわからない」の述部が先駆となっているにせよ、やはりハッとさせるものがある。

似たような脱臼感は、『論理と感性は相反しない』では、作品を構成する個々の掌編の並べ方のレベルで、『人のセックスを笑うな』では、題名と本文との間で味わうことができる。さらには、この『人のセックスを笑うな』中の、

寂しいから誰かに触りたいなんて、ばかだ。相手を大切な人に思い、しっかり人間関係を築きながら、愛撫(あいぶ)はゆっくり優しく丁寧に、且(か)つ、エッチに、相手の反応を細かく見ながらやるべき。

だとか、『カツラ美容室別室』の終わりのへんに出てくる、

男女の間にも友情は湧く。湧かないと思っている人は友情をきれいなものだと思い過ぎている。友情というのは、親密感とやきもちとエロと依存心をミキサーにかけて作るものだ。ドロリとしていて当然だ。恋愛っぽさや、面倒さを乗り越えて、友情は続く。走り出した友情は止まらない。

だとかの箴言じみた段落は、それがどれだけ作品の内容に寄り添っているように見えたとしても、じつは純粋に「転換」を導入しているだけではないのか。それらしくメッセージを装っているだけではないのか。これを読解に組み込んだ場合、意味の意味が停止するトラップになるのではないか。

と、そんな気がするのである。

さて、これまで、山崎ナオコーラのロジックは、すこし見えにくかった。それは、これまで、彼女が、文章のあちこちで意味的なものへの嫌悪をむき出しにしながらも、意味、主題、物語を希釈するだけで、それを完全に廃棄することはなかったからである。『浮世でランチ』『長い終わりが始まる』「手」といった、加藤典洋のいう換喩的ないし主題追究的な読みを許す、素朴に「面白い」作品を山崎が持つゆえんである。とりわけ『長い終わり』は、山崎の論理学が意味論的に使用された場合、どんな高みに届くかを示す格好の例になっている。もちろん、こうした意味論的読解の許容は、無償ではないのであって、山崎は、ほぼ同じ時期、同じ出版社から、脱臼に命をかけたような、純粋価値志向の小説、『論理と感性は相反しない』を出している。この作品は、あとがきのようなものが二つあったり、作者みたいな人物を立てながら微妙に内容のズレた二つの挿話を持っていたり、川端康成ふうの韜晦をなぞっていて、興味深いが、それが韜晦ととられる可能性がある限り、やはり解釈と意味を起動させてしまいかねない。だから、アンビシャスであることはたしかだが、前代未聞とまではいえないというのがほんとうだ。山崎のロジックの鋭角は、依然として隠されている。鋭角の輪郭がいよいよはっきりしてきたのは、短編集『男と点と線』に含まれる諸作品からであるが、しかし、「スカートのすそをふんで歩く女」のオチのつけ方や、表題作「男と点と線」のウェルメイドな作りには、うっすら主題の気配がただよっており、それゆえ、この鋭角も、まだほんものではないといわざるをえない。したがって、鋭角の現前は、現時点での最新作まで持ち越されることになる。すなわち山崎ナオコーラが、その論理学(ロジック)を窮め、意味を殺し、「わかりやすい。でも何もいっていない」の金字塔を日本の小説史に打ち立てたといえる作品は、『ここに消えない会話がある』である。

今、ケータイへ、大学時代に同じゼミだった先輩の椿(つばき)さんから、「久しぶり、ひまなときにごはん食べない?」とメールが届いた。あとで返信しよう。

これでひとつの段落を構成している。あるいは、こんなくだり。

「佐々木くん、おはよう」
別所は佐々木の肩に手を置きながら、隣りに腰かける。
「おはようございます。別所さん」
佐々木が挨拶する。
「別所さん、おはようございます」
と広田も言う。
「別所さん、おはよう」
と岸も言った。
別所は二十六歳で、先に来ていた三人よりも、ひとつ年上である。

ほぼ全編この調子であるが、このような言葉の羅列に、はたして「読みやすい」という形容をかぶせることができるだろうか。リーダビリティという概念は、このそら恐ろしい文章の前で、音を立てて崩れ去るのではないか。読みやすさを、読みがいのなさにまで突き詰めたこの作品で、山崎の書くことの意識は、読むことの息の根をとめたのだ。


La logique de Yamazaki Naocola

Ceci est un extrait (révisé et remanié) d'un essai écrit en 2009 et paru dans la revue littéraire mensuelle Gunzo, novembre 2009.

YAMAZAKI Naocola est une femme écrivain japonaise contemporaine, qui a publié à ce jour une vingtaine d'ouvrages de fiction et d'essais depuis la parution de son premier livre « Ne te moque pas de la sexualité des autres ! » (2004), nouvelle adaptée au cinéma en 2008 par IGUCHI Nami. Ses œuvres se caractérisent par une grande simplicité et une extrême lisibilité, ce qui est assez rare dans le genre : dans le milieu littéraire japonais d'après-guerre, on se fait une haute idée de la complexité et densité, sinon de l'imagination romanesque, etc. Mais le style de l'écrivaine est tout à fait différent, il évoque davantage celui du haïku compris autrement par un Occidental: « Tout en étant intelligible, le haïku ne veut rien dire » (Roland Barthes). Impossible de commenter, interpréter. On est obligé de se taire devant Yamazaki, quoi.