独我論批判――永井均とそれ以外


妻のジュード・ロウVHSコレクションに『AI』があって観た。ジュード・ロウ演じるジゴロ・ジョーはセックス・ロボットだ。動きが少々ぎこちないけれど、見た目は人間と変わらない。当然、心もあるように見える。けれど、殺人の濡れ衣を着せられていた彼がラスト近く、強力な磁石みたいなもので警察のヘリに回収される寸前、主人公の子供型ロボットに向かって、こう口にする。「Goodbye David… I am…I was.」恐らく、この瞬間はじめて、ロボットであるジゴロ・ジョーに「I」であることの深い自覚、自己意識、つまり心が芽生えたのだろう。ということは、それまではそんなもの、みじんもなかったのである。

この世で心を持っているのは自分だけで、他の人間はみんな人間らしく作られたロボットなのではないか。渡辺恒夫『輪廻転生を考える』によれば、子供のころ、このタイプの疑惑にとらわれたことのある人が少なくないようだ。でも大人になるまでこれを引きずるケースはそう多くないともある。理由は明白な気がする。

他人はロボットという考え方は、典型的な独我論のあらわれのひとつであると見られているが、この独我論独我論として重大な欠陥を抱えている。「自分しかいないっていうけれど、そのロボットは誰が作ったの?」そう問わずにいられないのだ。SFに分類されるフィクション(例えば藤子不二雄「どことなくなんとなく」)のなかには、最後の場面でこの問いに答えを出しているものがあるけれども、読むとすごくしらける。それは読み手がはじめ心に抱いていた謎めいた気分や期待感を、その答えが見事に裏切っているからだろう。

すなわち問題は解決したが、そうして解決された問題は、当初の問題とじつは関係ない。当初の問題を問う者において、この問題は、はなから問題ではない。あるいは、当初の問題を丹精込めて問い続ける過程で、問題としてはすでに解消――解決ではなく――されているものにすぎない。

永井均は、ロボット型の独我論を「残骸としての独我論」と呼び、まともに取り扱うことを退けている。と同時に、このような「にせの問題」の端緒には、しかしだれも否定できない「端的な事実」があるはずであり、「ロボットの疑惑」は、問いに先立つこの「端的な事実」に仰天した主体が、そこから言葉を紡ぎだそうとする間際、不可避的に躓いてしまったものだと考えている。

ここで永井は、二つの条件について語っている。ひとつは、「ロボットの疑惑」を誤って生み出してしまうこともある存在論的条件、もうひとつは、驚きの伝達をなんとしても妨げようとする言語的条件である。

論考「独在性と他者」によれば、「残骸としての独我論」は、大きく二つに分けられる。「認識論的独我論」と「存在論独我論」だ。前者は、「他人の心は読めない」という、語の定義上あたりまえの事実に過大にこだわってしまったことに起因する懐疑論で、すでに挙げた「ロボットの疑惑」がその典型である。後者「存在論独我論」は、前者と逆に、「他人の心は読める」と言い張るもので、「たとえば、人はある意味では他人の心的体験を体験することができると主張する諸主観共在(癒合)論的立場や、体験はできなくとも(体験の表出基準の公共性などによって)確定的に知ることができるとする基準論的立場が、そこにはもはや他者が存在しないという理由によって、ときに独我論的とされる」。

後者に関し、まず思い出されるのは、柄谷行人が80年代後半から90年代前半にかけて批判的に取り上げた「独我論」である。「私が独我論とよぶのは、けっして私独りしかないという考え方ではない。私にいえることは万人にいえると考えるような考え方こそが、独我論なのである」(『探究I』)。また、「私の思いは、私の行動をとおして絶えず表出されていて他人にもつつぬけなのであるが、ただ単に相手が自分に関心をもたず、注意を向けていないだけ、あるいは相手がそれほど自分に時間を割いてくれないだけなのである」(河野哲也『〈心〉はからだの外にある』)といった考え方も、存在論独我論の範疇*1に括ることができるだろう。

しかし、かねがね思っていることなのだが、「残骸としての独我論」には、もう一種類あるのではないか。例えば佐々木中『切りとれ、あの祈る手を』に次のようなくだりがある。

私は全く独我論というのがわからないんですね。自分が死んだあとも世界は続く。私なんかには全く関係なくね。でも、自分が死んだあともまったく無関係に、自分の死など顧みることもなく何事もなく世界が続くということが、単にそれだけのことが、どうしても耐えられない人がいる。自分が死んだあとに、世界が黄金時代を迎えるかもしれないということがね。どうしても自分が生きている時代に歴史の終わりが来てくれないと困る人がいる訳ですよ。

注意して読んでもらいたい。前段「自分が死んだあとも世界は続く。私なんかには全く関係なくね」という言葉によって否定される独我論と、その直後「でも」を挟んで言われる「自分が死んだあともまったく無関係に、自分の死など顧みることもなく何事もなく世界が続くということが、単にそれだけのことが、どうしても耐えられない人」の抱く思考は、似ているかもしれないが異なる。佐々木中がこれをも「独我論」と称しているのだとすれば、前者と後者の「独我論」は、呼称が同じなだけで、中身は正反対だ。自分が死ねば世界も終わるという前者の独我論に対し、後者においては、自分が死んだあとも世界がそのまま存続することが前提となっているのだから。

「自分だけが死ぬのは嫌だ、他の奴はみんな楽しそうに生きていて俺と俺たちだけ死ぬのは嫌だ、世界全体を巻き添えにしてみんな一緒に死にたい」。現実の世界が独我論的にできていないことを認めたうえで、「『自分の死とこの世界全体の絶対的な死を、つまり世界の滅亡を一致させたい』という欲望」を抱くこのタイプの「独我論」者として佐々木が挙げるのは、団体ではオウムやナチス、個人ではジョルジョ・アガンベン、アレクサンドル・コジェーブといった「終末論」者たちである。しかし保坂和志に言わせれば、自己の余命を知った人間は、だれもがこのタイプの「独我論」、すなわち「欲望論的独我論」にとらわれる恐れがある。

突然、自分自身の死が近いことを告げられたら、自分の死とともに世界が消滅することを誰だって一瞬は願うはずだ。それが自分の存在しない世界の受け入れがたさの何よりの証明ではないか。自分が存在しないのだったら世界なんか存在してほしくない。
保坂和志『世界を肯定する哲学』)

けれども、

死を告げられたときに「世界の消滅を願う」のは限られた時間のことであって、みんなそこから立ち直って、残された時間の使い方を見つける。世界の消滅をいつまでも本気で考えることが正当化される根拠はない。
(同前)

保坂の二つの言葉は、このタイプの独我論のみならず、いわゆる独我論がなぜ毛嫌いされるのか考える上で有用である。

いわゆる独我論は、実在するのは自分だけであり、自分以外のなにもかも、すなわち他者や外界は、自分の心の中にしか存在しないのではないかという考え方だ。「ロボットの疑惑」は、独我論として中途半端で、入れ物としての世界の実在は否定していない。けれど、その根には、いわゆる独我論と共通の、認識論的な懐疑がある。確実に「ある」といえるのは自分の心だけであり、それ以外の全部――他人や事物、客観的世界の存在――は、疑おうと思えば、いくらでも疑える。

しかし、なぜ疑うのか?

やはり保坂和志の、『カフカ式練習帳』という小説の終わりの方に、次のような一節がある。

「だって死んだら終わりだよ。自分が死んだあとに世界があるなんて、どうして考えられるの?」
と言うあなたは、今こうして外で私と会っているそのあいだ、自分の家が消えてなくなりもせずに存在していると考えている。私と別れれば今あなたの視界から何キロも離れた自分の家に帰ってゆく。あなたの家はあなたがいなくなっても消えないとあなたは思っている。それは何故だ。そんな人が「自分が死んだら世界もなくなる」と考えるのは矛盾*2だと感じないか。

先に名前を挙げた、認識論的独我論に批判的な態度をとる河野哲也も、似たような趣旨のことを書いている。

もしも現実に独我論的に考えて行動する者がいるとすれば、それは精神医学で言うところの「有情感喪失(desanimation)」という統合失調症の症状を呈していることになるだろう。(中略)こうした病理的な体験をしている「本物の」独我論者の数は、もちろん多くはない。私たちの多くは、独我論的な観念や懐疑をときどき思いつくだけであり、実生活で統合失調症という病気に陥っているわけではない。独我論を唱える哲学者も、日常生活では普通の仕方で他人に接して、社会生活を営んでいるであろう。
河野哲也『〈心〉はからだの外にある』)

独我論者は独我論を生きていない。口先だけだ。ためにする議論だ。独我論独我論者の生との間に開いたこのギャップに、批判者たちは厳しい目を向ける。そして、このギャップを埋めるものとして彼らが持ち出してくるのが、独我論者が独我論を唱えることのうちに潜む、真の動機だ。それは例えば、こんなふうに言い表される。「独我論の根底にある欲求とは(中略)『個であること』の希求、共同体(=類的存在)からの独立の願望ではないだろうか」(同前)。

しかし、このような独立志向それ自体に問題があるというわけではないようだ。独我論が批判されるのは、こうした独我論者の欲求・希求・願望が、人倫上の問題を引き起こし、社会の安定・安心に害をなすおそれがあるとみなされているからだ。河野哲也は、「自分をあらゆる意味で例外的存在と捉える独我論」の原因にひとつにデカルト流の「哲学的主観主義」があるとした上で、これが「『なぜ人を殺してはいけないのか』という問いに答えられない心理主義の陥穽へと直接に通じてはいないだろうか」といっている。

心理主義は、悪とは相手にとっての悪であることを忘れさせ、悪とは自分の心のなかの出来事であり、善悪を判断する基準も自分で与えられるという倒錯した考えを生んでしまう。また、心理主義は、殺人の禁止が自他の行為の相互性から生じてきた取り決めであることが理解できない。そして、自分の経験だけを論じる主観主義の哲学にとっても、死は身体である他人にだけ生じる事態であり、心である自分は死ぬことがないのである。哲学的主観主義と心理主義的な道徳観の欠点は、どこかで通底している*3
(同前)

心理主義」とは、人間の身体性や社会関係よりも個人の内面を重視する立場のことをそう呼ぶようだが、河野によれば、この立場では「道徳や倫理の最終的根拠」である「生きた人間が死体になってしまう場面」が閑却されてしまう。したがってそれは、道徳や倫理をないがしろにした、危険で反社会的な思想に歯止めをかけることができないというのであろう*4

諸悪の根源としての独我論、その根底にある邪な欲望。この話が本当であれば、独我論が広く毛嫌いされるのは当然である。

いわゆる独我論の根底に、このような個人的な願望や欲望の存在を嗅ぎ付けることによる説明の仕方は、強い説得力を持つ。それはなぜだろうか。すぐに考えられるのは、いわゆる独我論が、主張として、ある一線を越えてしまっているということだ。

現状「他人に本当に心があるかどうかわからない(確認できない)」というのは、だれにとっても揺るぎない事実であるが、でもこれはあくまで「わからない」のであって、「他人に心がない」と断定してしまえば、もう行き過ぎだろう。平穏に社会生活を営む人々は、多くの場合「他人に心がある」と思っている(本当に?)。しかし、考えてみれば、これも主張という形をとれば、現状やっぱり行き過ぎていることにならないか。「他人に心がある」と言い切るのも、その無根拠であることにおいて、「他人に心がない」とさして変わらないのではないか。

こういう余計な懐疑を引き起こすことも、独我論が嫌われる理由のひとつだといえるかもしれない。実際、「独我論を主張する人間だって実在論的に日々を送っているじゃないか」という批判の仕方は、がたがた言わずお前も大勢に従えといっているだけで、独我論の根本的な批判になっていない。というよりも、実在論者には、独我論者を根本的に批判することはできない。なぜなら、実在論独我論は、結論の向きは逆だが、思考の形としては完全に同型だからだ。


「他人に心があるかどうかはわからない……ある!」--> 実在論
「他人に心があるかどうかはわからない……ない!」--> 独我論


「わからない」と「ある/ない」との間にある空隙に、お好みの虚構が充填される。保坂和志は「私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける。/しかし、この簡潔な事実を実感する努力を人はいままで怠ってきたのではないか」(『世界を肯定する哲学』)と言っているが、この言葉の前提となっている考え方(この言葉それ自体はどうでもいい)は正しい。つまり世界がある、ありつづける、という「実感」は、「努力」して保持しなければ揺らぐことがある。実在論もまた虚構なのだ。

しかし虚構であれ何であれ、「自分とは無関係に世界がある」「他人にも自分と同じように心がある」と「実感」している人間が社会で多数を占めていることは事実だろう(というよりも、実在論者が多数を占めていなければ「社会」は形成されない?)。だから、独我論者が自分の帰属する社会の多数派の「実感」を反転させた考え方をわざわざ持ち出すことの動機として、願望や欲望といった強めの心理を想定するのは、とてもわかりやすい。そしてこのわかりやすさが「欲望論的独我論」の素地になっている。

いわゆる独我論に対する、以上見てきたような道徳や倫理の側からの批判と、永井均によるそれが大きく違っている点は、独我論的言説に対するそのスタンスにある。欲望論的な批判者が、独我論者の言葉を真に受け、その言葉の裏に邪悪な心性を忖度するのに対し、永井均は、独我論者の主張に、いわば「言葉の誤用」を見出している。

残骸としての独我論の主張者たちは、しかし本当は、他人の心理現象が認識不可能だとか意味不明だとか、そんなことが言いたかったのではないはずなのだ。彼らは、自己と他者の非対称性のうちにある根本的な問題を感じたはずなのだが、その問題感覚を複数の主体が並立する通常の世界像の中に強引に位置づけ、その中で通用する言葉で表現しようとしたとき、問題そのものの変質が起こったのである。残骸としての独我論の主張者たちがそれを問題にしようとして挫折した当のものを、独在性と呼ぶことにしよう。
永井均「独在性と他者」)

いわゆる独我論の行き過ぎを、その手前に引き戻して問い直すことが企てられている。独我論の行き過ぎとはすわなち実在論の行き過ぎでもある。実在論独我論、「実感」や「懐疑」に先立つ「端的な事実」に立ち戻り、そこからやり直すというのが永井流「独在論」の基本的姿勢といえるだろう。

まったく虚心坦懐に、事態をあるがままに捉えることができるならば、独我論ないしはそれに類する世界の捉えかたは、端的な事実そのものの素直な受容であって、哲学者の作り出した屁理屈でも深遠な形而上学でもない。なぜなら、私とは他に同じ種類のものが存在しないまったく独自な存在者であり、すべての他のものはただその私に立ち現れるにすぎない(そしてこのことは、今かりに「私」と名づけられたきわめて特異な存在者が、反省的な「私」意識を持つかどうかには関係なく言える*5)からである。
(同前)

上で永井は「まったく虚心坦懐に、事態をあるがままに捉えることができるならば」と条件を付けている。実際、「実在論」を「実感」の域にまで高めた人には、これができないようだ。すでに見た通り、河野哲也は「自分をあらゆる意味で例外的存在と捉える独我論」と書いていた。この「あらゆる意味で」が曲者なのだ。余分な意味が含まれている。しばしば独我論者に向けて投げ付けられる「傲慢」「うぬぼれ」「思い上がり」といった言葉は、この「あらゆる意味で」の産物だろう。しかし、「端的な事実」としての「比類なさ」は、ただひとつの意味において、そうであるにすぎないのだ。自分から世界が開かれている。自分が世界の起点となっている。この単独の意味において、「私」は比類なき存在である*6

これは主張としての独我論とは無関係の事実だ。だれであっても自分とそれ以外の人間を一望におさめる視点に立つことはできない。想像的・間接的には可能だが、現実的・直接的には不可能である。ということは、だれであっても自分は世界から超越している(したがって、「自分」は肉体でも精神でもないし、本当を言えば人間でさえない)。このニュートラルな超越性の感覚を、「世界は自分の産物だ」「世界は自分の所有物だ」「世界は自分の思いのままだ」というような全能者の自覚と取り違えたとき、行き過ぎが始まる。独我論の根底にあるのは、比類なき個でありたいという欲望などではなく、なぜかすでに比類なき個であってしまっていること、その「端的な事実」に対する驚きである。独我論者は、欲望しているのではなく、確認しているだけなのだ。

この「比類なさ」がもたらす驚きは、永井によって次のように分析される。

過去・現在・未来の無数の人間のうち、この人間が、そしてこの人間だけが、私であり、他はそうではない、という事実の持つ〈偶然性〉と、それら無数の人間のどれも私ではない(私は存在しない)こともできたはずなのに、実際にはそうなっていない、という事実の持つ〈奇跡性〉
(同前)

しかしじつは、この言葉は、現実世界のだれにでも備わるような「私」についてではなく、それとは異なる、ある特別な存在様式をとる「〈私〉」について言われたものだ。永井均は、「端的な事実」の次元における前者「私」の持つ性質を「単独性*7」と呼んだうえで「《私》」と表記、後者「〈私〉」の「独在性」と区別している。ところが恐るべきことに、この「独在性は不可避的に単独性に読み換えられるのである」。いまここでそうしたように。

〈私〉が永井均であることは〈偶然〉であり、それゆえそうでないことが〈可能〉であるという主張は、《私》が何某であることは《偶然》であり、それゆえそうでないことが《可能》であるというように、読み換えられる。
(同前)

さて、これについて、どう考えればいいか。

森岡正博は、1993年に書かれた「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味−「独在性」哲学批判序説」において、永井均の「〈私〉」という表記法を批判し、それに代わる「独在的存在者」という呼称を提案している。

「私」という概念は、「私ではないもの=他者」という概念とセットになって成立する。「他者」を予想しないような「私」は、あり得ない。ところが、独在性のレヴェルとは、「他」なるものが原理的に存在し得ないようなレヴェルのことである。独在的存在者とは、存在の唯一無二性を究極まで突き詰めたときに発見されるもののことであるから、独在的存在者に関しては、「他の独在的存在者」などというものは理論的に存在しない。その独在的存在者を指し示すときに、「他者」を予想することを宿命付けられた「私」という単語を使うのは、完全におかしい。

しかし、永井均は、「存在の唯一無二性を究極まで突き詰め」るということをその哲学の起点に置いているだろうか。置いていない。永井は、言葉に先立つ「端的な事実」への驚きから出発している。その驚きは、ひとまず「存在の唯一無二性」をめぐる問いとして言語化された。しかし、このように言語化されたとたん、当の「存在の唯一無二性」が否定されてしまう。つまり、「私」と同様の存在態様(=奇跡)をとる「他者」が思考の場に呼び込まれてしまう。この「他者」を否定しようと、あらためて比類なきものを措定しても、やはり突き詰めの過程で同じことが起きる。この「他者」の否定と肯定の螺旋状プロセスそれ自体が「〈私〉」という表記の仕方*8に込められているはずだ。だから1993年の森岡正博の考え方、「世界の中で唯一ひとりだけ特殊なあり方をしている唯一無二の存在のことを、究極まで突き詰めて考えたときに発見されるもののことを、永井は〈私〉ということばで呼んだ」というのは、違うのではないか。

そしてこの点に、独在論と独我論の、それこそ端的な違いがある。独在論は、独我論のように他者を排除するものではなく、むしろその実在性を構造的に取り込んで(しまって)いるのだ。

無論、独在論の「他者」は、独我論がその実在性を否定し、実在論がその実在性を肯定する「他者」、すなわち客観的世界における「他者」ではない。独在論者の「世界」は、「〈私〉の世界」である。ここで属格「の」の機能は、「〈私〉」と「世界」とを超越性のレベルで関係づけている。換言すれば、「〈私〉」と「世界」は、記号的な、全面的な切断と密着の関係にある(「記号論独我論」と呼びたい)。であるのなら、「他者」すなわち別の「〈私〉」とは、別の「世界」すなわち「可能世界」のことを意味することになるだろう。

〈私〉が(特定の人間との結合において)存在しているというこの現実を取り消すことはできない。だが、それがそもそも存在しなかったり、別の人間(であれ何であれ)に実現していた仮想現実を思い描くことはできる。しかし、後者の想像可能性には、かなり難しい問題が含まれているように思われる。〈私〉が別の人間に付与されるという「想像」において、偶々〈私〉にともなう何かを共にその人間に付与してしまうことを避けることは不可能なのではあるまいか。〈私〉は、想像上の移行において同一性を維持できるような実体ではない。だが、それは可能性の限界ではなく想像力の限界であろう。その想像不可能なことを「思考」するとき、私はこの世界とは別の世界を、ここからのみではなく、そこからのみ開けているような、一つの別の世界を思考することになる。
(永井「独在性と他者」)

ここで永井が「〈私〉」をめぐる可能性に関して語っていることは、下のような表にまとめることができる。


―――――〈私〉が別の人間に実現すること―――〈私〉がそもそも存在しないこと
想像可能性―――――――×――――――――――――――
思考可能性―――――――――――――――――――――〇?


「〈私〉がそもそも存在しないこと」についての「思考可能性」欄で「〇?」としたのは、文脈から言えば「〇」であるはずだが、そのことが明示的に語られていないからである。しかし、「〇」を付した「想像可能性」についても、問題はないだろうか。これにも、「かなり難しい問題が含まれている」のではないか。「独在性と他者」と日付の近い、対話形式の著作『翔太と猫のインサイトの夏休み』に、やはり「想像可能性」と「思考可能性」をめぐる次のようなやりとりがある。見ておこう(最初の発言が「翔太」、次の発言が「猫のインサイト」)。

「(……)ぼくはね、どう考えてみてもね、自分がいない状態っていうのを考えることができないんだよ。ぼくの思考の中で、ぼくが無い状態を考えようとするとね、どうしてもぼくがいるんだ。翔太が死んだ状態なら考えられるよ。でも、そういうことを考えても、翔太の葬式を見ているぼくがいるんだよ。そういう視点そのものが無い状態を考えるなんて、どうしたって考えられないんだ。ぼくが考える無はどうしても存在している無になっちゃうんだよ。」
「存在している無っていうのは、なかなかうまい言い方だな。その話は、時間や空間がない世界を思い描くことができないって話に似てるね? 自分が消滅した状態を自分が思い描くっていうことは、本質的に不可能なんだ。でも、自分の消滅するってことの意味を、自分が考えるってことはできるさ。」
「思い描くことと考えることは違うの?」
「違うさ。ぼくらは五三角形と五四角形の違いを、思い描くことはできないだろ? でも、考えることはかんたんにできるんだ。ぼくらはね、思い描くことができないことを、考えることができるのさ。(……)」
(強調は原文では傍点)

「自分」を前述の「〈私〉」に、「思い描く」を「想像」に、「考える」を「思考」に当てはめてみる。すると、「自分が消滅した状態を自分が思い描くっていうことは、本質的に不可能なんだ。でも、自分の消滅するってことの意味を、自分が考えるってことはできるさ。」という猫のインサイトの言葉は、こう読み替えることができるだろう。「〈私〉が(そもそも)存在しないこと」は「想像」できないが「思考」できる。つまり、


―――――〈私〉が別の人間に実現すること―――〈私〉がそもそも存在しないこと
想像可能性―――――――×――――――――――――――×
思考可能性―――――――――――――――――――――


という表が完成する。永井均においては、「〈私〉が別の人間に実現すること」の思考可能性が「〈私〉」の偶然性の驚きの成立に寄与し、「〈私〉がそもそも存在しないこと」の思考可能性が「〈私〉」の奇跡性の驚きの成立に寄与している。この絡み合った二つの驚きが永井均の哲学の出発点であった。

しかし、「〈私〉がそもそも存在しないこと」は、本当に思考可能だろうか。すなわち、〈私〉という視点を欠いた可能世界は可能だろうか。もちろん可能である。それは「私の世界」だ。しかし、〈私〉は「私」ではない。つまり、「〈私〉がそもそも存在しないこと」の思考可能性についての思考において、〈私〉から「私」への読み換えが生じているのではないか。〈私〉が〈世界〉と記号的に密着し、「〈私〉の世界」として存在(「存在」に抹消記号を付すこと)する限りにおいて、「〈私〉がそもそも存在しないこと」の思考可能性は、可能世界が存在しないという可能性に帰着するのではないか。これは矛盾だろう。

「五三角形と五四角形の違い」は、世界の内容(存在者)についての思考である。しかし、〈私〉をめぐる思考は、世界の形式(存在)についての思考なのだ。

考え直そう。「〈私〉がそもそも存在しないこと」は、本当に思考可能だろうか。もちろん可能である。なぜなら、〈私〉は現実世界の内側には、「そもそも存在しない」からだ。では、〈私〉を欠いた「私の世界」――無数の可能世界――は思考可能だろうか。もちろん可能である。というよりも、この可能性において消えるもの、すなわち、消える可能性において現にあるもの、それこそが〈私〉なのだ。では、この〈私〉――消すことができることによって消すことができないもの――は、どうすれば消すことができるか。あるいは、どうして消すことができようか。それが次の問題だ。


(Critique du solipsisme : NAGAI Hitoshi)

NAGAI Hitoshi (1951-), philosophe japonais, dont le travail porte en particulier sur la question métaphysique de « moi ». Il a crée la notion de Dokuzai-sei (unicité ontologique) pour critiquer et dépasser le solipsisme classique, sinon dé-montrer un vrai solipsisme. Ses œuvres principales : La philosophie pour les Enfants (1996), Le Moi, le Dieu et le Présent – la philosophie de l'Ouverture (2004), Erreur de diagnostic de Wittgenstein – creuser le Cahier bleu (2012), etc.


※関連するエントリ:父が息子に語る「運命の乗り換え」 - 翻訳論その他

*1:永井均は、「残骸としての独我論」の分類で、「認識論的」/「存在論的」の対立軸に加え、「体験に関する」/「規範に関する」という軸も用意している。これに基づくと、柄谷行人の批判する独我論は「規範に関する存在論独我論」、河野哲也の主張する独我論は「体験に関する存在論独我論」に分類できる。

*2:これは矛盾ではない。独我論者において、「自分」と「家」の関係(外的関係)は、「自分」と「世界」の関係(内的関係)と、まるっきり違う。二つの「自分」は存在論的地位が異なる。

*3:河野はその「生態学的立場の自己論の原則」として「私は死ぬ」を掲げている。しかし、独我論者であっても将来「私は死ぬ」と考えることはできるし、河野のような立場をとる者にとってさえ、自己が自己の死を体験できないという事実(文法的真理?)は揺るがないだろう。つまり他人の死は確認できるが、自己の死は確認できない。「私は死ぬ」は、すでに客観的世界像を受け入れているからこそ言えるものにすぎず、このモットーが客観的世界の存立を保証するわけではないだろう。

*4:佐々木中アガンベンら「独我論」者に対して、こういう言葉をかけている。「まあ彼らがナチスオウム真理教のごとき惨禍を起こさないことだけを願いますよ」(『切りとれ、あの祈る手を』)

*5:したがって、この「私」は、「自己意識」とは別次元に属する。

*6:また、この意味において、他人に心があるとかないとか、世界が私の表象であるとかないとか、そういうことは問題とならない。

*7:この概念そのものは、入不二基義が提示したものらしい。

*8:永井によれば、「〈私〉という表記は、本来、語の指示作用に関する意味論的な主張のような何かをあらわしているのではない」(「他者」)。つまりこの表記は、「私」という言葉が有する意味論的機能(概念)と語用論的機能(指示)の双方を否定するために導入されている。事態を指して、デリダであれば、こういうだろう。「〈私〉」は「語でも概念でもない」。なお、「この宇宙の中にひとりだけ特殊な形で存在することの意味−「独在性」哲学批判序説」が掲載されている森岡正博のウェブサイト「LIFESTUDIES.ORG/JP」から、「『わたし』がいっぱい」という文章にリンクが張られていて、読んだが、中原紀生氏による「『独在性の〈私〉』から他者性を排除してしまうこと」への批判は、的を射たものだと思う。