二葉亭の「逐語訳」の「影響力」をめぐって

二葉亭四迷といえば逐語訳であるけれど、「余が翻訳の標準」を素直に読めば、語数やコンマ、ピリオドを原文と同じくするという、「あひゞき」初訳で試みられた厳しい逐語訳の方法が、彼にとって最善のやり方ではなかったことがわかる。もし自分に筆力が備わっていれば、ジュコーフスキー式の、「形は全く別にして、唯だ原作に含まれたる詩想を発揮する」ような、そういうやり方をとったであろう。そんなふうに書いてある。

この随筆によれば、二葉亭の翻訳観の移り変わりは、三つの局面に大別することができる。まず来るのは、「原文にコンマが三つ、ピリオドが一つあれば、訳文にも亦ピリオドが一つコンマが三つという風に」というような、よくある素朴な考え方。次には、「徒らにコンマやピリオド、又は其の他の形にばかり拘泥してゐてはいけない。先づ根本たる詩想をよく呑み込んで、然る後、詩形を崩さずに翻訳する」というふうな「詩想」への留意。そして最後、「形は全く別にして、唯だ原作に含まれたる詩想を発揮する」という「ジユコフスキー一流のやり方」。ただし、この最後の翻訳法は、筆力の欠如ゆえ「断行し得なかつた」。

ようするに「詰屈聱牙」は、まったく不本意なものであったということだ。二葉亭は、ギクシャクした逐語訳によって日本語を拡大しようだとか、改造しようだとか、鍛えなおそうだとか、そんなことはちっとも考えてもいなかったし、めざしてもいなかった。翻訳において彼がめざしていたのは、徹頭徹尾、原文への忠実、原文との等価であった。当初、峻厳な逐語性に拘泥したのは、単純素朴に、そのような翻訳によってこそ「文調」の忠実が確保されると考えたからにすぎない。だがそれは上手くいかなかった。やり方が間違っていた。その反省が、彼の翻訳観をジュコーフスキー流の翻訳、いわゆる「意訳」を最上と考える方向に押し出していったのだ。「心身を原作者の儘にして、忠実に其の詩想を移す」。そのためには、「形は全く別にして、唯だ原作に含まれたる詩想を発揮する方がよい」。こうした忠実観の変遷、翻訳観の深まりの記録が「余が翻訳の標準」なのである。

だから「一字一句と雖も、大切にせなければならぬ」という言葉は、逐語訳のマニフェストではない。テクストへの信仰は、それが翻訳という行為それ自体の否定や拒絶に行きつかない場合、むしろ正しい意味での「意訳」を強いる。この場合の「意訳」は「domesticating」ではない。「こなれた日本語」や「日本語らしさ」が狙われているわけではないからだ。忠実であることの追求の果てに到達された境地で、形は捨てられたのだ。翻っていえば、「あひゞき」初訳の「詰屈聱牙」と、その「清新さ」と、その「影響力」の結びつきは、あくまで「偶然的な結果」だった。そういうことがいえるのである。

しかし、たとえそれが偶然の産物であったにせよ、二葉亭の翻訳はたしかに影響力を持った。その事実の行く末、この「意図せざる結果」の帰趨、それは二つの面にわたっている。

「あひゞき」初訳が「詰屈聱牙」であったことの効果として、まず第一に指摘できるのは、この翻訳作品が、以後の日本文学の基調を決めたということだ。

「あひゞき」は、発表直後、ただちに好評をもって迎えられたわけではない。けれど、国木田独歩田山花袋島崎藤村ら、後に自然主義文学の主流をなす作家たちの目を驚かすだけのことはした。彼らの回想を読むと、「在来の日本語の文脈への妥協的復帰」(中村光夫二葉亭四迷伝』)と評される改訳のほうではなく、生硬な初訳のほうから受けた鮮烈な印象を語っている。田山花袋の言葉。「あの細かい天然の描写、私等は解らずなりにもかうした新しい文章があるかと思うて胸を躍らした」(「二葉亭四迷君」)。つまり日本の近代文学は、その揺籃期、逐語訳的な晦渋さ、生煮えの歯ごたえに魅力を感じる人間たちによって養われた。いい方を変えれば、日本の文学的感性は、「詰屈聱牙」という礎の上に築かれているということになるだろう。この意味は小さくない。

自然主義の文学から「破滅型」と称されるタイプの私小説が出てくるという指摘は多い。でも、後者が前者から受け継いだのは、「告白」等の主要なモチーフだけではない。というよりも、継承はむしろ文体の上で果たされたというべきだ。川村二郎は、「あひゞき」の終わりに出てくる「ア、秋だ!」という訳文を、「修辞の巧緻を旨として言葉を選んでいたのでは、到底思い至らない奇跡的な瞬間の一句」と誉めている。「粗野で新鮮な言葉の力が、粗野のままに、いわば、聖化されている」(『日本語の世界15 翻訳の日本語』)。これに「似た瞬間の唐突な顕現」が「自然派の後裔と呼んでしかるべきある種の私小説系の作品に、たとえば葛西善造や嘉村磯多の一節」にも見られると指摘する川村は、「私小説の二律背反」(『芸術と実生活』)の平野謙が、「無理想無解決」(自然派)から「滅びの文学」(破滅型私小説)へという主題次元でとらえた継承の本質を、文章の感触のうちに捕まえていて鋭い。こうした「詰屈聱牙」の系譜は、戦後派文学から大江健三郎石原慎太郎を経て、笙野頼子多和田葉子あたりまで、平気で伸ばすことが許されるだろう。中原昌也もたぶんその眷属だ。

もちろん近代日本文学の主系統には、平野謙が同じ論文で取り出したもう一方のライン、白樺派から心境小説に向かうラインがある。こちらもまた、これを平明さという文体的特徴の一視角から見た場合、安岡章太郎吉行淳之介をはじめとする第三の新人から、長嶋有川上弘美といった九十年代以降の作家たちに至るまで、途絶えることなく続いているといえる。これに山崎ナオコーラを加えてもいい。

けれど、このような文体の対照、なめらかな文章とぎくしゃくした文章の併存、そしてもしかすると相克は、どこの国の文章世界でも広く見受けられるものと思える。

平野は指摘している。

私小説的文学精神がいわゆる心境小説という言葉で作家の身うちに意識されはじめたとき、それはひろく近代リアリズムの日本的開花を意味するものとして、さまざまな文学流派をこえたモラル・バックボーンたる実質をにないはじめたのである。
(「私小説の二律背反」)

ここでいわれているのは、私小説が文壇の主流となるためには、批評家や評論家たちによる外側からの規定ではなくて、小説家の側からの自己規定が――それも「心境小説」という言葉の獲得によって――必要であったということだ。「心境小説」という言葉は自分が作った。小説家の久米正雄が「『私』小説と『心境』小説と」でそう書いている。そして久米は、「私小説」の「私小説」性の本尊に、この「心境小説」の姿を見ている。平野は、引用部の指摘を行った後おもむろに先に見た私小説と心境小説の相違を語り始めるが、彼が後者「心境小説」を文芸の諸流派を横断する統一的な心的態度の表現であると考えたこと、そしてまた、平野にそのことを語らせた久米正雄俳人由来の「心境」という言葉を選択したことの意味は、よく考えてみなければならない。「心境小説」は、理想的な心的態度として、自然派から白樺派まで、奇跡派から新思潮派まで、一切を宰領し、上位概念として、文体上の二極、私小説と心境小説を包摂しているのである。

では次に、二葉亭の翻訳の持った二つ目の効果について。それはなにか。いうまでもない、「あひゞき」一篇が、いわゆる言文一致体を生み出す大きな原動力となったということである。

言文一致の功績が、言と文との一致という不可能事の達成にあるのではなく、旧文体が強いる定型的な措辞修辞からの離脱と、その帰結として、相当程度自由で透明な散文の日本語における実現にあったことは、これまでたくさんの指摘がある。信仰の素朴な形がもたらした「あひゞき」初訳のぎこちなく歩む文章は、原文への注視と追従によって、「意図せざる結果」としてではあれ、文体上の桎梏を食いちぎることに成功している。この点に照らしていえば、できあがった訳文の不細工は、凝り固まった既成文体からの脱却の代償である。以後しばらく、日本の書き言葉は、いっそうの透明性と柔軟性を求め、原初に与えられた過剰な「詰屈聱牙」をできる限り取り除く方向へと進むことになる。

この進み行きは、だいたいそのまま二葉亭自身の文体変化の歩みに重ね合わせることができるだろう。『浮雲』第一篇(明治二〇年)の戯作調は、「あひゞき」翻訳(明治二一年)の「詰屈聱牙」を経て、『浮雲』第三篇(明治二二年)のほぼ完成形に近い「言文一致体」において、ほとんど姿を消すのだ。この第三篇の文章については、「たるみ」(内田魯庵)だとか「気抜け」(正宗白鳥)だとか、否定的な評言があるけれど、こうした印象は、もしかすると、死後の評価の時点において、その文体がすっかり普及してしまったことによる新味の欠如、あるいは読みやすさの反面としての平板さ、退屈さを意味しているのかもしれないのである。いずれにせよ、言文一致体が形づくられていく際、日本語と外国語との間に、持続的な接触や交渉、往還のあったことは、まぎれもない事実だ。そもそも二葉亭は、「浮雲」の原稿に先立って、まずツルゲーネフ「父と子」の訳文を坪内逍遥に見せている。

さて、この事実から、なにを取り出すべきだろう。

なによりも、こういうことを取り出すべきだと思う。

言葉は現実に動かされない。言葉を動かすことができるのは言葉だけだ。

この考えがどんな常識からの逸脱であるか知るには、江藤淳の論考「リアリズムの源流」を見るのがいい。江藤には、現代日本文学の理論的思考の祖形を作り出したといえる『作家は行動する』があるけれど、この江藤最初期の著作から想像力論の構図を受け継いだ同論考には、言葉と現実が取り結ぶ関係で、文学者にとってあらまほしき像が、いくぶん猛々しい筆致で描かれている。

もっとも、この論考で江藤が主張していることは、とてもシンプルで、それはとびきり短い、次のような命題に置きかえられる。

新しい言葉は新しい現実から生まれる。

「名づけようのない新しい現実」に直面した作家は、それになんとしても名前を与えようと、古びた言葉を粉砕し、新たな言葉を作り上げようとする。つまり江藤は、従来の言葉では語り得ないまったく新しい現実を認識してしまった人間、さもなくば危機的な状況に追い詰められた主体の、その内面における表現意欲の亢進が、直接的に既成文体の枷を取り外し、自由に対象をとらえなおす新しい文体を生み出すといっている。だから、理論は言葉を動かさない。江藤はそう考える。「逍遥も二葉亭も、たしかにリアリズムの理論をもたらした先駆者であった。しかし彼らは決して、その後日本の近代文学のなかで生きつづけるような文章をもたらしはしなかった」。

この言葉、前半部、正しいことをいっている。でも後半部に嘘がある。

二葉亭の小説『浮雲』は、その第一篇において、もしかすると第二篇においても、戯作調が尾を引いている。それはたしかである。だが、見たように、明治二二年の第三篇において、まだ「で」止めなど少々目に付くにせよ、こうした旧文体の余勢のだいぶ鎮まっていることもまた、だれの目にも明らかだろう。そして、この第三篇の前年に翻訳「あひゞき」のあったこと、ならびに、この「あひゞき」の訳文中に「その後日本の近代文学のなかで生きつづけるような文章」があったこと、これらもまた、だれも否定できない歴史的事実なのである。

理論は言葉を動かさなかった。しかし、明治期に出来した未曾有の世相や、変革や、崩壊は、それらもまた、それらだけでは、新しい言葉を生み出すことができなかった。「眼に見た事を忠実に書く」(高浜虚子)ことを可能とした言葉、伝統の型から外れた新しい言葉の湧出には、「翻訳」と呼ばれる経験、外部の言葉による涵養が必要だったのだ。江藤淳は、そのエッセイから――意図的なのかどうかは知らないけれど――二葉亭の「あひゞき」を除外することで、ようやく「リアリズムの源流」を、文学者の内面に探り当てることに成功したのだ。

しかし、現実の新しさ、現実の衝撃は、それだけでは、言葉を動かすことができない。あるいは言葉の革命は、他なる言葉との接触によって、それも偶然の結果としてのみ果たされる。二葉亭の生硬な翻訳の持った「影響力」が告げているのは、そのことである。

ところで、柄谷行人は「翻訳者の四迷」で次のように書いている。

ルターが『聖書』をドイツの俗語で翻訳したこと、そして、それが標準的なドイツ語になったことはよく知られている。(中略)ドイツ語だけではない。近代のナショナルな言語はすべて翻訳を通して形成されているのである。しかし、大切なのは、なぜルターの翻訳がドイツ語を形成してしまうほどの強い影響力をもったのかということである。ベンヤミンは、ルターの『聖書』がもった影響力を、やはり、それが逐語的な翻訳であったことに見出している。

この柄谷の言葉は、二重の意味で間違っている。ルターの聖書翻訳には、ルター自身が語る通り、たしかに逐語訳の部分が存在する。しかし、ベンヤミンがルターの翻訳に注目したのは、それが「ドイツ語を形成してしまうほどの強い影響力をもった」からではない。かつ、ルターの翻訳が「ドイツ語を形成してしまうほどの強い影響力をもった」のは、それが逐語訳であったからではない。

聖書の翻訳は、ルター以前にも、ラテン語からの重訳としては、『メンテル聖書』等いくつか存在した。そしてこれらの翻訳でこそ、ラテン語の語法・語順に合わせた、いわゆる逐語訳方式が採用されていたのである。ルターはこうした逐語訳者たちを『翻訳についての手紙』の中で「ろば」、すなわち「あほう」呼ばわりし、「家にいる母親、道端の子供、市場の人々」が話すように訳さなければならないといっている。

そもそもルターは、聖書をだれにでも理解可能なものにしょうと考えていたのであり、だからこそ俗語、すなわちドイツ語、それも北部の人にも南部の人にも通じる東中部方言のドイツ語に翻訳したのである。

ルターの聖書は爆発的に売れ、版を重ねた。一方、ルター以前の逐語訳の聖書は、そんなふうに広く読まれることはなかった。

ここでひとつの事実に気付く。二葉亭とルターの翻訳は、その「影響力」の発揮の仕方おいて、きれいな対照を見せている。ヘリングラートの言葉を借りていえば、前者二葉亭の訳文では「生硬な結合」が、後者ルターの訳文では「円滑な結合」が、言語的形成力を発揮した。

いや、慌ててはいけない。

ルターの訳文には、先に指摘したように、「言葉から離れるよりむしろ、ドイツ語を破壊する方を選んだ」部分、すなわち文字への密着を志向した部分がある。

アントワーヌ・ベルマンは、『他者という試練』で、この事実――ルター訳聖書における相反する二つの翻訳様態の共存――について、次のような見方をしている。

「意味」か「文字」か、ラテン語ヘブライ語か。そのいずれか一方だけの選択を退けること。それは方法論的な揺れを意味するのではない。そうではなく、翻訳の根本的アポリアに対する知覚、歴史的に与えられたある瞬間において実行可能なもの、実行すべきものについての直感なのである。

穿っている。でも穿ち過ぎてはいない。ルターの直感とはなにか。ベルマンはそれを、「微妙な差異」という言葉のもとに明るみに出す。完全に「意味」に就くのでも、完全に「文字」に就くのでもなく、「意味」に満ちた多数の言葉の連なりに、「意味」を欠いた未加工の「文字」そのものを、ほんの少し練り込むこと。それによる異物感、それによる違和感、それによる適度な歯ごたえ。こうした「微妙な差異」にこそ、「影響力」の源泉があるはずだ。歴史の大きな曲がり角で、ルターの直感は、こんなふうに働いた。

ベルマンの正確な指摘は、よく考えれば当たり前のことだといえるかもしないけれど、だれもよく考えなかったので、だれもいわなかった。逐語訳が影響力を持つ。こういう不正確な言葉がのさばっているのは、そのせいだろう。

さて、いまや、こういう問いがわいてくるのを止めることができない。二葉亭の翻訳は「逐語訳」だった。そういわれている。しかし、それは「影響力」を持ったのだ。だとすれば、それは本当に「逐語訳」といえるものであったのか、どうか。

この問いに対しては、じつは、すでに何人かの炯眼な論者たちが答えを出している。そのうちの一人、『翻訳はいかにすべきか』の柳瀬尚紀は、二葉亭の訳した「あひゞき」と、その二つの新しい翻訳、すなわち一九五八年の岩波文庫版、一九六二年の筑摩世界文学体系版の訳文を突き合わせた上で、こういうことを指摘している。ひとつ。物語の地の文において、現代語訳で「彼」や「彼女」が見られるところ、二葉亭の訳文では、これらが見えない。さらにひとつ。現代語訳の少女アクリーナの科白において頻出する、呼びかけ語としての相手の男の名前「ヴィクトル・アレクサンドルイチ」が、二葉亭訳では消えている場合が少なくない。たとえば現代語訳で、

「ええ、大分待ってよ、ヴィクトル・アレクサンドルイチ」(岩波文庫版)
「ええ、だいぶ、ヴィクトル・アレクサンドルィチ」(筑摩世界文学体系版)

とあるところ、二葉亭の初訳では、

「どんなに待ッたでせう」

とあるきりだ。

とりわけ、こうした科白の訳文に関しては、籾内裕子『日本近代文学と『猟人日記』』にも、「さほど原文に忠実でない部分が多い」、「人情本や落語速記本がベースになっている」という指摘がある。

さらに、籾内のこの研究書によれば、「『あひゞき』においては、コンマより数をあわせることがたやすいピリオドでさえ、決して原文と一致はしていない」。

もうじゅうぶんだろう。初訳版の「あひゞき」には、意訳的な側面がある。それは単純に逐語訳と呼べるものではなかった。ということは、「あひゞき」においても、やはり「微妙な差異」が機能していたのだ。そしてこの「微妙な差異」が、ベンヤミン的な逐語訳が貫徹されていれば持つはずのない「影響力」を、二葉亭の翻訳に付与していたのである。



※以上の文章は「言葉は現実に動じない」(2011年10月発行「トラデュイール」第3号)の一部を再構成したものです。