日本語の不自由さ

といふタイトルの小林秀雄のエッセイがある。萩原朔太郎の同名の文章について批判的に論じたものだが、なかにずいぶん気になる一節が見える。ちよつと引用してみたい。

原文の意味はとつくにわかつてゐるが、それがなかなか思ふ様に日本語の文章にならないといふ場合がある。その場合、意味はとつくに解つてゐると思ふ時、僕等は既に決して原文通りに考へてゐない。迅速な翻訳の粗描を作つてゐるのだ。
小林秀雄「日本語の不自由さ」)

どうだらうか。意表をついてはゐないだらうか。意味がわかつてゐるのに日本語にならない。それはまさに自分が「原文通りに考へて」ゐるからだ。日本語といふものにたやすく置き換へることのできない原文そのものを捉へてゐるからだ。ふつうはさう考へる。といふよりも、考へたくなる。そこを、彼、小林秀雄は、ぐつ、とこらへてゐる。禁欲的なのである。このくだりをつかまへて、小林秀雄の語学力の限界だとか、時代の制約だとか、的外れなことをいふ人がゐれば(まさかゐないとは思ふけれど)、考へ直したはうがいゝ。

なかなか日本語にならないものを、どうにかこうにか、訳文といふ形には、した。けれど、この訳文が、もとの言葉、原文といふものに含まれてゐた観念や概念や映像や情報、暗示や皮肉やあてこすり、色や形、重さや軽さ、匂ひや響きやあれやこれや、そんなもののをことごとく、そのまゝのかたちで、十全に反映してゐるかといへば、そんなはずはない。さうであるといふ人がゐれば、言葉といふものがわかつてゐないのだ。

などといふ。

それで、翻訳とは誤訳の謂ひである、とか、翻訳者は裡切り者、とか、気の利いたことを口にする大家もあるみたいだけれど、かういふ気の利かせ方は、ちよつとでも翻訳をかじつた人間ならば、だれでもする。まあ、「つい、うつかり」の類ゐだらう。

たぶん、右みたいなことをいふ人たちは、自分が「原文通り」に届いてゐると思つてゐる。だから、「百や二百の誤訳はあたりまへ」なんて、平気でいつてのける。平気なのは、それがたんなる自尊心の発露であるからだ。それでラディカルなつもりなら、ちやんちやらをかしい。誤訳なんて、ありえないのだ。そんなことは、いえないのだ。小林秀雄の思考は、さういふところにわたしたちを運んでいく。どちらがラディカルか。

いや、ラディカルさを競ふなんていふことは、どうでもいゝ。別の角度から考へてみたい。小林は、いつたい何を禁欲してゐるのだらうか。「自分は外国語ができる」と考へることだらうか。森有正といふ人が、いつてゐる。「言葉というものは、ある程度頭がよくてよく勉強する人には、非常に自信めいたものを与える」。「つまり、自分が一番できるように思う」。 そしてそれは「自国語と他国語とは、自分にとって本質的に違うものだということに気がつかないところから起こって来ている」。だとすれば、小林は、こんなうぬぼれを禁欲してゐるわけではないだらう。

聖書が言ふやうに、「初めに言葉があつた」のである。初めに意味があつたのではない。意味も知らぬ言葉をしやべるのは、子供だけだ、と大人は呑気に考へてゐる。だが、もし私達が、よく意味を知つてゐる言葉だけで、お互に話さうと決心したら、世界中の人々が黙つてしまふであらう。知る前にしやべるといふことが、人間が言葉といふものを体得する根底の方法ならば、人間が少くとも実生活の上では、この方法を、死ぬまで繰返へさざるを得ない。
小林秀雄「言葉の力」)

つまり、小林秀雄が禁欲してゐるのは、意味が言葉に先立つてある、といふ考へ方である。この禁欲に触れて、わたしたちは、意味を知つてゐるといふことが、どれほど特殊なことであるか思ひ知らされる。これは、人がなかなか認めたがらない事実であるのかもしれない。けれど、意味とは、ある特殊な場面において、人間の意識にのぼる局地的な存在者にすぎないのである。そして、意味を媒介としてゐる限り、だれも言葉そのものに触れることはできない。なぜかといへば、意味とは、つねに別の言葉であるからだ。言葉を睨み、辞書を引き、そうかうするうちに、意味がわかる、わかつてしまふ、さういふ不自然な体験のなかで、人は、すでに当の言葉から離れ、別の言葉に触れてゐる。意味を媒介として触れざるを得ない外国語の「原文通り」が迷妄であることは、明らかではないか。

意味とは、つねに別の言葉である。たゞひたすら言葉がある。はじめに引用した部分で、小林秀雄は、このことを明察してゐる。意味がわかる、そのとき既に翻訳は果たされてゐる、とは、意味を把握することと翻訳することが同一の行為である、といふことだ。これを煎じ詰めていへば、意味とは訳文である、といふことになる。この訳文を小林は、「迅速な翻訳の粗描」といつてゐる。それが心の内にあるか、紙の上にあるかは大きな問題ではない。

別の方からも、同じことがいえるだらう。たとへば、言葉の意味がわからない時、辞書を引く。そのとき、わたしたちが、意味のわからない言葉の傍らに見出すものは、新たな言葉である。この言葉を、不思議な色眼鏡で見ると、やうやく「意味」といふ、これもまた不思議な抽象になるのだが、この具体を抽象に変換する眼鏡の効果は、かなり執拗で、わたしたちは、容易にそれをのがれることができない。けれど、よく考へてみれば、意味がわかることと、意味を眼前にとらへることとは、同じではない。

ある特殊な場面、そのめざましい例が、外国語の翻訳であるといふことは、もはやいふまでもないだらう。けれど、この特殊性は普遍化できるのではないだらうか。翻訳は、あまねく行き渡つてゐるのではないだらうか。だから、外国語の意味は、翻訳された日本語である、といふだけでは足りない。自分の言葉である、といはなければならない。意味とは、つねに別の言葉である。そして、別の言葉とは、つねに自分の言葉である。翻訳することと、文章を書くことは、本質的に等しい行為だ。翻訳の創造性なんていふ寝言とは無関係にさうなのである。

自分の言葉といふものがありえるのか、といふ疑問はもつともだ。けれど、この疑問は、言葉の社会性といふものに対する勘違ひから起こつてゐる。言葉は社会的である。けれど、この社会性は、どこまでも私的である。わたしたちは、私的ではない社会性に私的に到達することはできないのであつて、言葉の社会性は、いはゞ想像的な社会性である。わかりやすくいひなほせば、各自が勝手に社会的だと思つてゐるのが言葉だ。けれど、さうではなくして社会性に到達することなど望み得ないのだから、この私的な社会性から、「私的な」といふ形容をとつても、まつたく問題ないわけだ。ふだん、だれもがさうしてゐるやうに。このことは、独我論を突き詰めると実在論に合致する、といふことにちよつと似てゐるかもしれない。

その自分の言葉が日本語であれば、それが不自由であると考へることは、あたりまへの話だ。だから萩原朔太郎は、自分の言葉の不自由さを嘆いたにすぎない。小林秀雄はそこを半分だけ突いた。半分だけといふのは、不自由であると嘆くこと、それ自体を批判してゐるわけではないからだ。むしろ嘆くことは必要である。書かうと思へば、いくらでも書ける。いはうと思へば、何でもいえる。この弛緩した自由に、自由をもたらす日本語の根に、濫觴に、ひそむ、とてつもない、不自由さ。


※7年ほど前に自分のウェブサイトに掲載した文章を再掲したものです。旧字は新字にあらためました。