二人称小説とは何か――藤野可織『爪と目』とミシェル・ビュトール『心変わり』(追記あり)

※ネタバレ注意。以下の文章には藤野可織『爪と目』とミシェル・ビュトール『心変わり』の核心に触れた記述があります。


二人称小説のことが気になりだしたのは、文藝春秋九月号で藤野可織芥川賞受賞作『爪と目』とその選評を読んだからだ。これを読んで、二人称小説ってなんだっけ?と思ってしまったのだ。

選考委員のうち島田雅彦奥泉光がこの作品を「二人称小説」と呼んでいる。宮本輝の「最近珍しい二人称で書かれていて」というのも趣旨は同じだろう。けれど『爪と目』は、ふつうに考えて二人称小説ではない。なぜなら語り手が「わたし」なのだから。けれど二人称小説と言ってしまいたい気持ちもわかる。というのも、この「わたし」の具合がふつうの一人称小説とはだいぶ違っていて、この点差し引けば、むしろふつうの(?)二人称小説に近いような気がするからだ。

『爪と目』には、ほかにもひとつ、目を引く点がある。書き出しの言葉が、へんにむずかしい。

はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって父は「きみとは結婚できない」と言った。

作家の松浦寿輝は、『爪と目』を「一人称小説」と断定した上で、この書き出しの「不透明感」を称賛している。問題を取り違えている書評者もいるようだが、これはさしあたり「あなた」の導入とは関係ない。松浦は次の通り事態を正確にとらえている。

難しい言葉など一つも使われていないのに、中身がすっと頭に入ってこない奇妙なセンテンスではないか。いったい誰と誰が「関係を持った」のか。「父」というのは誰の父なのか。「あなた」と「きみ」は同じ人を指しているのか違うのか。
朝日新聞2013年3月27日付文芸時評

「難しい言葉など一つも使われていないのに、中身がすっと頭に入ってこない奇妙なセンテンス」ということで思い出すのは、幸田文の小説『流れる』の、やはり冒頭部に現れる次の一文である。

このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。

この「一見やさしそうなこの文章が、じつはかなりむずかしい」ものであり、日本語を覚えて間もない外国人など、これに躓くことがある。そのことを教えてくれたのは、『日本語の作法』の多田道太郎だった。多田はこの本で、文中省略されている要素を丸括弧にくくり、次のように明示している。

(私のさがし求める家は)このうちに相違ないが、(私が)どこからはいっていいか、(その家には)勝手口がなかった。

けれど、この親切な多田の補完にも誤りがあるとも言えて、こういう点に日本語のむずかしさがあらためて露出している。これについては以前書いたので、ここでは繰り返さない(声を水に流す――朝吹真理子『流跡』の話法について(前編) - 翻訳論その他)。

藤野可織『爪と目』の冒頭部の「不透明感」も、この『流れる』と同様、主格の隠蔽とそれによる複数の可能性の分岐によって生じたものだ。「はじめてあなたと関係を持った日」まで読めば、多田道太郎の言う「かくされた文法」の働きで、ふつう次のように主格が補われるはずである。

(わたしが)はじめてあなたと関係を持った日、

次の「帰り際」に含まれる動詞「帰る」の主格も、その流れを素直に受けて「わたし」と読まれることになるだろう。すなわち「(わたしの)帰り際」。また「父」という名詞も、「父親」ではないのだから、ふつう「(わたしの)父」であると判断される。ところが、その「(わたしの)父」が「『きみとは結婚できない』と言った」。まっさらな状態でこの小説を読み始めた日本語のネイティブスピーカーが躓くのは、ここだ。

この「きみ」とはだれか。ここまで日本人の読み手は、「あなたと関係を持った」の「関係」が、「(わたしとあなたの)関係」であると読んできた。「(わたしの)父」が「わたし」に向けて「きみとは結婚できない」と語るはずはない。だとすると「きみ」は、これが新たな登場人物でないとすれば、ここまで「あなた」と呼ばれてきた人間を指すとしか考えられないだろう。であるならば、「(わたしの)父」は、「わたし」が「はじめて」「関係を持った」相手に対し、「きみとは結婚できない」と語れるほど深い「関係」を、すでに持っていたということになる。しかも、「(わたしの)父」がそう言ったのは、「わたし」が、自分の父親とすでに関係を持つ相手と「はじめて」「関係を持った日」だということになる。だとすると「(わたしの)父」は、「わたし」がその相手と「はじめて」「関係を持った日」、その「関係」の現場に居合わせ、「関係」行為を遂げた「わたし」が帰り支度を始めた頃おもむろに、親子の双方と関係したことになる相手に向かって、「きみとは結婚できない」と言い放ったということになる。嫉妬のためか。というか、なぜこの父親は自分の子供(男なのか女なのか)が「関係」行為を果たした現場に居合わせているのか。ストーカーなのか。それとも、ある種のプレイなのか。

ようするに、「(わたしが)はじめてあなたと関係を持った日」という主格の補い方を間違えていたわけだ。本当は、「(父が)はじめてあなたと関係を持った日」でなければならない。だからこの文は、素直に書けば、次のようになるだろう。

父は、はじめてあなたと関係を持った日、帰り際になって「きみとは結婚できない」と言った。

この文とオリジナルの文がちがうのは、「父は」の位置だけだ。あとはだいたい、おなじだ。ところが、このわずかな違いにより、『爪と目』の冒頭文は、日本語の自然な生理と日本人の自然な感性を逆なでしている。だが日本語の文法に違反しているわけではない。つまり、ここで言葉は、日本語の「ラングを欺く(tricher la langue)」(ロラン・バルト)ことに成功している。「きわめて意識的に醸成されたこの不透明感がすばらしい」と松浦寿輝が言うのは、こういう意味においてだろう。

もっとも、この不透明感は、主語の表示が義務化されている言語への翻訳において消える。だから、この作品は、日本語のラングの内側で、日本語それ自体を相手取ろうとしている。そのことがわかる。そのことが作品の冒頭に据えられた不透明な文によって宣言されているのだ。そして『爪と目』が、ふつうに考えて一人称小説であるはずなのに、ふつうの二人称小説であるように見えるのも、こうした言語的挑戦と無関係ではない。

しかし、では、「ふつうの二人称小説」とはなにか。「あなた」――「お前」でも「きみ」でもいいが――の頻出する小説は、おおむね次のように分類できる。

  1. 「あなた」が話し相手として呼び出されているもの。つまり、語り手の「わたし」が「あなた」に話しかけるという体裁の小説。この「あなた」は、いわゆる登場人物としては、作中に現れない。たとえばゲーテの『若きウェルテルの悩み』等の書簡体小説を想起してもらえばいい。このタイプをひとまずここで「呼格的二人称小説」と名付けよう。
  2. もう一つは、「あなた」が記述対象として呼び出されているもの。つまり、「あなた」が主要な作中人物の一人として動き回り、考え込む。こちらの小説で特徴的なのは、語り手が作中に顔を出さないことである。あるいは「神の視点」がとられる。二人称の「あなた」という言葉が、まるで三人称のような扱いを受ける。だから、二人称であることを別にすれば、いわゆる「三人称小説」とあまり違わない。代表的な例としては、ミシェル・ビュトール『心変わり』、ジェイ・マキナニー『ブライトライツ・ビッグシティ』、イタロ・カルヴィーノ『冬の夜ひとりの旅人が』の三作品を挙げることができる。命名するとすれば、「主格的二人称小説」とでもなるだろう。

ただし、この区別は常にはっきりつけられるわけではない。たとえば、二人称主語の平叙文(英語やフランス語を念頭に置いている)は、平叙文であっても、命令的ふるまいを見せる場合があり、そうなると純粋な記述とはいえなくなるからだ。

また、両タイプとも、「あなた」を作品の向こう側にではなく、こちら側に位置づけることがある。すなわち、当の小説を読んでいるその人、〈読者〉として設定することがある。この場合、作品にはいやおうなくメタフィクショナルな手触りが生じることになるだろう。

いずれにせよ、ここで「ふつうの二人称小説」として考えたいのは、後者「主格的二人称小説」のほうだ。

というのも、前者「呼格的二人称小説」は、「あなた」と呼びかけることで「語り」という発話の構えを際立たせているだけで、その本質は一人称の語りにすぎないからである。聞き手の存在を強調することは、その反対側に語り手の「わたし」がいることも同時に強調することになのだから、むしろ一人称性は強くなるともいえる。「あなた」がいて「わたし」がいるというわけだ。

一方、「主格的二人称小説」の場合、「あなた」がいるのに「わたし」がいないという点が人称論的に特異であり、この特異性が逆に「ふつうの」という形容の妥当性を高めてくれるのではないかという期待がある。

で、藤野可織『爪と目』の「あなた」のありようは、この典型的な二人称小説、「主格的二人称小説」の「あなた」とそっくりなのである。だから「二人称小説」と呼ばれるのも無理はない。「あなた」は、作中人物の一人として、始終「あなたは……した」「あなたは……だった」「あなたは……と思った」という具合に記述されていくのだ。その一方で、この作品には、「陽奈(ひな)」という名前を持った具体的な存在としての語り手「わたし」も出てくる。「一人称小説」という呼称は、この語り手の実在性に支えられている。

『爪と目』について考える前に、「あなた」について記述するタイプの小説、すなわち「主格的二人称小説」のことを、もう少し考えておきたい。代表的な作品として、すでに三つ挙げた。

そのうち『ブライトライツ・ビッグシティ』は、「主格的二人称小説」として破綻がなく、その意味では端正にできていると言えるかもしれないが、じつはそれ以外、見るべきところがない。

カルヴィーノの『冬の夜ひとりの旅人が』も、比較的複雑な構造だが、整理すればそうでもない。この作品では二つのパートが交互に現れる。一方のパートは、語り手が、「読者」である「あなた」に呼びかけつつ、その行動を記述するという形をとっている。他方のパートは、この「読者=あなた」が読む複数の小説作品の断片からなっている。これら作中作は、いずれもメタフィクション的要素を備えていて、その中には読者としての「あなた」に呼びかけるタイプの「呼格的二人称小説」も含まれている。けれど、これは作中作であるから、呼びかけは現実世界の読者には届かない。だから基本構造をとれば、「主格的二人称小説」とみなすことが可能だ。

ミシェル・ビュトール『心変わり』は、妻子のいるパリから不倫相手のいるローマへと向かう列車内での「あなた」の心的動揺を軸とした長編小説で、「二人称小説」といえばだれもが真っ先に挙げる有名な作品である。訳者の清水徹が、この作品における二人称の使用について、二つの点から説明を加えているので、見てみよう。ひとつはこういうものだ。

「わたし」や「彼」の場合とちがって、作者の背後にいる発語者から主人公が「きみ」と措定されて語られてゆく叙述を読んでゆくとき、読者は「きみ」という主人公が読者の眼前で考え、行動するのを見てゆくと同時に、ほとんどそれ以上に、読者はまるでページの向こう側から自分が「きみ」と呼びかけられているような感じがしてしまう。
岩波文庫版『心変わり』解説)

これを清水徹は「催眠術の手法」や「裁判における論告の口調」になぞらえている(ビュトール自身は『即興演奏』で「予審判事や推理小説における探偵」の語り方を参考にしたと言っている)。この見方によれば、『心変わり』の「きみ」は、メタフィクショナルな「呼格的二人称小説」の成立に寄与しているということになる。

熊倉千之は、この清水の見立てに対し、前回も取り上げた『日本人の表現力と個性』で、「この訳文では、私はなかなか作者の術中にはまらない」と書いている。熊倉は「この訳文では」と限定しているけれど、原文で読んでもきっと同じだろう。読者は最初から小説を読もうと思って読んでいるのだ――自分宛ての請求書ではなく。いくら「きみは……きみは……」と繰り返されても、それだけで催眠術にかかる読者がいるとは思えない(ただし、催眠術はかかりやすい人と、かかりにくい人がいるようなので、断定はできれないけれど)。小説を読んでいるという心理的なバリアを超えて、「あなた」がこの「わたし」に届くには、「あなた」の反復とは別種の工夫がいるはずだ。

もちろん、清水徹も、『心変わり』の二人称の狙いがこうしたこれ――「きみ」と読者の同化――に尽きると言っているわけではない。『フィガロ・リテレール』に掲載された、作者自身の言葉を引いている。ビュトールは語る。

物語がある人物の視点から語られることがぜひとも必要でした。その人物がある事態をしだいに意識してゆく過程が主題となるのですから、その人物は《わたし》と語ってはなりません。その作中人物そのひとの下部にある内的独白、一人称と三人称の中間の形式にある内的独白が、わたしに必要だった。この《きみ》という呼称のおかげで、わたしには、その人物の置かれている位置と、その自分の内部で言語が生まれてくるときの仕方のふたつを描くことが可能となるのです。
(強調引用者)

強調した個所に注意が必要だ。「一人称と三人称の中間の形式にある内的独白」。「一人称と三人称の中間の形式」とは、つまり二人称のことである。であるのなら、この言葉は結局「二人称の内的独白」を意味していることになるが――。

「二人称の内的独白」?

デイヴィッド・ロッジの説明を聞こう。「小説において意識を描く際に主要な技法が二つある。一つは内的独白で、これは談話構造の文法的主語が『私』であり、我々は、登場人物が自分の頭の中で生まれる意識をそのまま言葉にしているのを、いわば脇で聞いている格好になる」(『小説の技巧』、強調引用者)。ロッジの挙げるもう一つの技法は「自由間接話法」なのだが、それはさておき、読まれる通り、「内的独白」の主語はふつう「私」なのである。つまり一人称だ。けれど、ビュトールは「二人称の内的独白」と言っている。これはどういうことだろう。考えざるを得ないだろう。

「内的独白」とは、声に出さない独白(モノローグ)のことであり、ようするに「ひとりごと」の一種である。西欧語の「ひとりごと」については、言語学者鈴木孝夫が、『教養としての言語学』の中で、次のような興味深い指摘をしている。

ヨーロッパ語におけるひとりごとの研究を通して、私が到達した結論の一つは、ひとりごとには二つのタイプがあるということである。具体的に言うと、話者が自分自身を一人称で表現するひとりごとと、自分自身を二人称として対象化して捉えるひとりごとの二つである。

鈴木は、主に小説作品から用例を収集したようだ。二人称のひとりごとの実例として鈴木が挙げるのは、例えば次のようなもの。

“Jerry, remember you're not a baby any longer. You're nine now, you know.”
<ジェリィ、おまえはもう赤ちゃんじゃないってこと忘れるなよ。いいか、おまえはもう九つなんだぞ。>

フランク・オコナーの短編小説Babes in the Woodからの引用で、ジェリイという名前の少年による内的独白だという。この少年は、自分の名前を呼んだ上で、その自分に対し「you」で呼びかけている。こういうことは日本人のひとりごとでは考えられない(滑稽感を狙う場合は別かもしれない。自分の筋肉に話しかける人はたまにいる)。鈴木は次のように主張している。

二人称を使うひとりごとの例を数多く分析した結果、私が到達した結論は、このタイプのひとりごとを言う場合の話者の自己(自我)は、(中略)内なる自己と外側の社会的な自己の二つに分裂し、この内的自己が外的自己を他者と見て、それを非難、攻撃、批判、忠告、激励の対象とするから、二人称のyouが出てくるのだということである。
(強調引用者)

『教養としての言語学』で鈴木の言う「内なる自己(内的自己)」とは「意識の主体としての自分」のことであり、「外側の社会的な自己(外的自己)」とは「その意識によって観察される」「客体としての第二の『私』」のことである。

けれど、このような私的な自己と社会的な自己の分裂、あるいは使い分けは、べつだん西欧の言語と人間に限られることではなく、そのまま日本語にも日本人にもあてはまることだと思われる。それなのに、日本語のひとりごとで、二人称が使われないのはなぜなのか。

前回(「He is sad」と言えても「彼は悲しい」と言えないことをめぐって - 翻訳論その他)見た通り、一人称の主語を立てることは、それだけですでに自己を客体的に把握することなのであった。ということは、「一人称のひとりごと」は、鈴木の結論とは逆に、「客体的な自分」の水準における独白であると考えることができるのではないか。で、むしろ「二人称のひとりごと」こそが、「意識の主体としての自分」に関係するのではないのか。西欧語では、その言語構造が足かせとなり、話者が自分のことを、自分のことであるのに、直接的に表現できない。この桎梏を超えて、話者が「意識の主体としての自分」を指示しようと試みたとき、「二人称」が現れる。

つまり、「二人称のひとりごと」は、一人称の客体的な自分にではなく、その深層に隠れている「意識の主体としての自分」を言語の表層に引っ張り上げるための仕組みなのである。こうした「意識の主体としての自分」への呼びかけが二人称の形をとるのは、「わたし」を掘り下げた場所に潜む西洋の主体が、鏡像としての「わたし」、すなわち他者としての「わたし」であるからだ。西欧の「わたし」は、それを掘り下げると、「あなた」が顔を出す。「わたし」と「あなた」が、内側と外側が、通底しているのだ。メビウスの輪のように。

清水徹の解説によれば、ビュトールは、「その作中人物そのひとの下部にある内的独白」とも語っている。現在岩波文庫で読めるのは『心変わり』の改訳版なのだが、改訳は本文のみならず、解説中のビュトールの発言にも及んでいるようだ。熊倉千之が『日本人の表現力と個性』で引用する清水の解説(1959年に出版された河出書房新社版からのもの?)を参照すると、同じ個所が以前はこう訳されていた。「その人物の言語の水準の下にある内的独白」。原文は「un monologue intérieur au-dessous du niveau de langage du personnage lui-même」なので、旧訳のほうに近い。ビュトールは、二人称の「きみ」を、一人称「わたし」を主語とする日常的言語活動の下層で発せられた内的モノローグの主語として使ったのだ。そしてこのことが、「主格的二人称小説」で、「あなた」がいるのに「わたし」がいない理由を説明してくれるはずである。この「あなた」は、ある意味、語り手の「わたし」自身、つまり、「わたし」の分身なのだ。したがって、語り手は、「あなた」の内面について、詳細に語ることができる。自分のことなのだから当然である。

ところで、この「あなた」=「わたし」という読解は、「主格的二人称小説」のみならず、「あなた」が純粋な呼格、あるいは総称的な代名詞として用いられているように見える小説に対しても、理屈の上では適用できる。

たとえばサリンジャーThe Catcher in the Rye(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』あるいは『ライ麦畑でつかまえて』)では、一人称の主人公ホールデン少年が「you」に向けて語りかけている。この「you」を、訳者の村上春樹は、深層の自己が自己の外側に外化(疎外)されたもの、すなわち「オルターエゴ」であると読んでいる(『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』)。

村上は、こうした読みに基づいて、この「you」を「君」と訳し、これに話し相手としての輪郭と存在感を付与する。その一方で、妹のフィービーその他の肉親たちを「自己の分身的な存在」、「鏡に映った別の姿」ないし「幻影的なもの」とみなす。つまり村上の読解は、物語の総体をホールデンの内面が生み出した灰色の世界に位置づけようとするものである。

これに対しては、マーク・ピーターセンの批判がある(『日本語、話せますか?』)。「15歳で初めて読んだ時以来、原作の”you”自体に関しては、『いったい誰なんだ』とは一度も思ったことがない」。この「you」は「『読者』を一般的に指す」ものにすぎない。村上の想定するような「『語りかけられ手』は、原作には存在もしない」。村上の訳文に現れる「『君』はブキミだ」。

けれど村上春樹は、「君」を表に出す訳し方が「厳密にいえば誤訳」(ジェイ・ルービンの意見をきいたと書いてある)であることを承知の上で、作品を読んで感じた、ある種の「怖さ」を訳文に反映させようとしているのだ。それを読んで「ブキミ」さを感じたのであれば、村上の翻訳は、一定の成功を収めたといっていいのではないか。

話が逸れたので戻すが、フランス語の二人称代名詞にはtu とvousの二種類がある。前者tuは主に親しい間柄で使われる。あるいは自分よりも年下、目下の相手に対して用いられる。では、『心変わり』の「きみ」は、原文ではどちらか。もし二人称で呼ばれる相手が「自分」なのであれば、語り手にとって「自分」より親しい存在はないわけだから、tuであるのような気がするだろう。でもじつはこれがvousなのである(熊倉は『心変わり』の主語がtuであると書いているが、勘違いだ)。

このよそよそしい二人称の使用には、もちろん理由があるはずで、先に見た分身説には若干の修正が必要だ。ビュトールは、ある「人物がある事態をしだいに意識してゆく過程が主題」だと語っていた。これに関しては、『即興演奏』に詳しい自己解説がある。

たいていの物語で、(中略)ある人物が自分のことを語るときには、一人称の物語となります。(中略)一人称を使えば、私は、主人公を他の人物からはっきりと区別し、読者をいわば主人公の頭のなかに入りこませることができますが、しかし、ある決定的な瞬間になってはじめて「私」という代名詞を出現させること、この人物が決定的な瞬間になってはじめて「みずから言葉を発する」ように書くことは禁じられてしまう。私はこの点につよくこだわっていました。

『心変わり』で、不可視の語り手は「わたし」ではない。語り手は、「わたし」の成立に先立つ存在でなければならないからだ。ではそれはだれか。これはもう、「きみ」=「わたし」の鏡像であるとしか考えられないだろう。つまり、『心変わり』では、「わたし」の起源であり、原因である鏡像が、「わたし」の生成を夢見て、ひたすら「きみは……きみは……」と語り続けているのである。

だから、村上訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』とビュトール『心変わり』では、エゴとオルターエゴの関係が反転している。前者の場合、自己が主体で鏡像が客体だ。後者の場合、鏡像が主体で自己が客体だ。「わたし」としての権利を持たない幻像が、現れつつある自我「わたし」の思念や行動を、おずおずと、他人行儀にvousを用いて記述しているのである。

ところで『爪と目』の「わたし」も、「あなた」のことを、その内面まで含めて、不気味なほどよく知っている。

それでは、この作品でもやはり、「わたし」が「あなた」であり、「あなた」が「わたし」であるということなのか? けれど、そのように言い得る根拠はなにか。日本人に鏡像段階はない。「わたしがあなたのことをよく知っているから」では循環論法だ。

おまけに、この作品で、子供の「わたし」には、継母の「あなた」と明確に区別された肉体、そして名前が与えられている。両者は明らかに別人格として設定されているのだ。

次のような文が出てくる。

わたしのことを、動物みたいだとあなたは思った。

文末がタ形をとっているのは、『爪と目』では、現在時の「わたし」が過去を振り返っているからだ。こうした「語り」の間接性により、「他人の内面は終止形で言い得ない」という日本語の人称制約は解除されるから、引用した文に、文としての不自然さはない。それでも――実際に読めばわかるが――内容面の不自然さは相当なものだ。この「わたし」は他者である「あなた」のことを知りすぎている。いや、「あなた」のことだけではない。自分の父親や「あなたの母親」の心のうちまでお見通しなのだ。

人称制約については、前回考えてはいたけれど、書かなかったことがある。

「私は悲しい」と同じ意味合いで「彼は悲しい」というと不自然な感じがする。心理状態の表現に関し、日本語には人称制約がある。けれど、人称制約に抵触することが、そのまま文法違反(意味論的な違反、統語論的な違反)になるかといえば、それには留保がいると思うのだ。もし、この制約が「語り」において解除されるのだとすれば、なおさらそうだ。文法違反と見えても、それは単に、その言葉を然るべく機能させる文脈が、まだ見つかっていないだけかもしれないからだ。

たとえばアルチュール・ランボーの言葉に「Je est un autre.」というものがある。しばしば「我は他者なり」と訳されるこの言葉については、文法的な規則違反によって、文法に従った言葉では語り得ない境地を表現しているのだと言われたりもするが、どうだろう。無理に英語になおせば「I is another」となるこの文で、一人称の主語につづく繁合動詞の活用形が、三人称の主語に対応するものになっている。つまり、主語と動詞がねじれているわけで、文法から逸脱しているように見える。けれど、この言葉は、「Je」という代名詞を三人称とみなせば、そのとたん正しいものとなる。文に手を加える必要はない。ものの見方を変えるだけでいい。つまり、この言い方でランボーは、内容と型式の両面で、文字通り「我」が他者であると主張している。鏡像に親しい西欧の人間にとってみれば、やや高級なダジャレのようなもので、言語の限界を超えた体験云々といった深遠な話をしているわけではない。わけのわからない言葉がこれほど人口に膾炙するわけがない。

『爪と目』には、次のような文も出てくる。

寝室では、わたしが両親のダブルベッドの真ん中で、掛け布団の上にうつぶせになって眠っていた。

まるで、自分の肉体を離脱した幽体が、眠っている自分自身を見下ろしているかのような描写。「わたし」が完全に客体として記述されている。たとえ過去を振り返っているとしても、一人称の語りで、こういう表現は出てこない。自分が眠っているときの様子について、こんなふうに断定的に語ることはできない。

このように、『爪と目』の「わたし」は、他人のことを、自分のことのように知っている。そして、自分のことを、他人のことのように語っている。

さらに次のような文もある。これは、すでに見た二つの文と違い、文レベルではっきりと不自然だ。

あなたはわたしに、気前よくジュースでもチョコレートでも買ってやった
(強調引用者)

「あなたはわたしに」と来れば、文末はふつう「買ってくれた」となるだろう。だからこの文は、日本語の授受表現のルールに違反しているように見える。過去のことを語る場合でも、通常こういった授受表現のねじれは生じない。「その当時、あなたはわたしに、気前よくジュースでもチョコレートでも買ってくれた」。

以上『爪と目』から三つの文を抜き出した。いずれも表現的な不自然さをまとっている。この不自然な三つの文の使用に正当性を与えること。然るべき文脈を見出すこと。この小説は、それを求めている。でも、この要求に答えることは、もはや難しいことではないだろう。手立ては、すでに用意されている。語り手はだれなのか。それについて考えてみればいいのだ。ビュトールの『心変わり』で、作中に顔を出さない語り手は、「きみ」の鏡像であった。では、藤野可織の『爪と目』で、語り手はだれだろう。言うまでもない。「わたし」である。その通り。ただし、この「わたし」は、じつは「わたし」ではない。陽奈ではないのだ。では、だれか。その陽奈に殺された、実の母親カナである。

「主格的二人称小説」すなわち「ふつうの二人称小説」で、語り手は不在だった。そして、『爪と目』を読んで、芥川賞選考委員をはじめとする多くの読み手が、これを「二人称小説」と考えた。この印象は大切だ。ここには、読み手の本質的直観が働いているはずである。多くの読み手が、「わたし」がいるにもかかわらず、この作品を「主格的二人称小説」と感じたとすれば、やはりこの「わたし」は、本質的にはいないのである。

言葉は無をポジティブに表現できない。だから、不在――そこにいない――に先立って、存在――そこにいた――が要請される。この小説で、かつてそこにいたのに、今いないのは、だれだろう。存在から無へと移行した者。その不在について繰り返し語られる者。それは一人しかいない。語り手「わたし」が三歳のときに死んだ、その母親である。

「わたし」は、「ものすごく目がいい」。どのくらいいいかといえば、「あなた」の「強度の近視の視界が想像できるくらい」いいのだ。けれど、いくら目がよくても、他人の視界が想像できることにはならない。ここには想像力と視力の混同がある。ほんとうは、想像しているのではなく、見ているのだ。つまり、この目のよさは、ふつうの目のよさではない。このふつうではない目のよさで、「わたし」は、他者の内面も、「わたし」のいない場所の出来事も、現在も過去も、自由に見ることができる。ようするに――すでに暗示した通り――幽体なのである。「わたしのことを、動物みたいだとあなたは思った」という文は、この作中事実――幽体の視力――によって正当化できる。

で、この幽体である母親が、実の娘である「わたし」に憑依したのだ。自分に対する過度の客観視は、自分の肉体が本来の自分のものではないからである。だが、それだけではない。三歳の娘に憑依したこの母親は、どうやら、そのことに自分で気づいていない。もし気づいていれば、それが語り口に反映するはずである。つまり、この作品のような、奇妙なねじれを伴うものではなく、ふつうの一人称体になるはずである。このねじれは、語り手の無意識の産物なのだ。

「わたし」の母親の死は、「少なくとも表向きは」「事故死」ということになっている。けれど、ほんとうは三歳児の「わたし」が殺したということだ。そのことは、引用した三つ目の文「あなたはわたしに、気前よくジュースでもチョコレートでも買ってやった」の成立条件を考えることで明らかとなる。考え方はこうだ。

この文が日本語として正当性を得るには、なにが必要か。それは、この「わたし」の項に、三人称を代入することである。いま、「わたし」の肉体が「わたし」のものではなく「わたしの娘」のものであると考えている。そこで、「わたし」の場所に、この「わたしの娘」を入れてみる。するとどうなるか。こうなる。「あなたはわたしの娘に、気前よくジュースでもチョコレートでも買ってやった」。

これでもまだおかしい。不自然な文だ。身内に対しては、ふつうこういう言い方をしない。やはり「くれた」というはずだ。「あなたはわたしの娘に、気前よくジュースでもチョコレートでも買ってくれた」というように。では、身内でありながら、「くれた」ではなく「やった」となるのは、どういう場合だろう。

不思議ちゃんの母は、長い間、不倫していました。ある日、そのことに気いた父が、怒り狂い、母を家から追い出しました。母は不思議ちゃんですから、生活能力がありません。あたしは父の味方で、母のことが殺してやりたいくらい憎かったので、「クソビッチ、野垂れ死にしろ」と思っていました。ところが先日、道でばったり出会ったクソビッチの母は、ぴんぴんしてました。ファック。不倫相手の男が面倒をみてやっていたらしい。

身内に対して、何らかの理由により、身内とは考えたくないくらいの憎悪や嫌悪を抱いている場合、「くれた」ではなく「やった」となる。つまり、『爪と目』の「わたし」は、「わたしの娘」に対して、実の娘であるのに、身内としての愛情を持てないほど嫌悪感を抱いていると考えられる。この嫌悪感のよって来るところを探れば、そこに見えてくるのは、「実の娘に殺された」の八文字だ。

『爪と目』の語り手は、真冬、三歳の実の娘によって、自宅マンションのベランダに薄着のまま締め出され、凍死した母親の霊魂である。この霊魂は、自分を殺した娘に憑依し、自分の後釜に収まった「あなた」に静かな憎しみを向けている。ただし、実の娘に殺され、かつ自分がその娘に憑依したという事実を、そのあまりのおぞましさゆえ、意識の外に追いやっている。こうした事実が、『爪と目』に現れる、いくつかの文のねじれの背後に隠されている。

末尾の言葉、「わたしとあなたがちがうのは、そこだけだ。あとはだいたい、おなじ」は、このホラー小説の、書かれざる残酷な結末を暗示しているようだ。「わたし」とおなじように、母である「あなた」は、娘である「わたし」に、いずれ殺される運命にある。



●付記

結局、この作品は、「一人称小説」なのか「二人称小説」なのか。どちらでもない、どちらでもいい、というのが正解だろう。あるいは、この作品は、「(めずらしく成功した)二人称小説」ではなく、栗原裕一郎が自分のブログで言うような「人称をどうにかしようという」小説の流れに位置づけるのがふさわしい気がする。

このエントリ(http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20121228/1356679830‎)で、栗原は、最近の文芸誌に掲載された小説に見られる、人称と視点をめぐる操作が、技法として「すでに形骸化しているように見える」と指摘している。挙げられた作品全部を読んでいるわけではないので、はっきりした態度はとれないけれど、一理あると思った。

この種の操作は、直接的には、やはり岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』あたりから始まったと考えられる。この本に収められた二つの作品は掛け値なしにすばらしい。しかしながら、そのあと発表された短編「楽観的な方のケース」には、好意的に見ても二番煎じ感が漂っていた。つまり、栗原裕一郎の言葉を借りれば、技法が「形骸化」している印象があった。

それにしても、栗原のブログ記事に引用された山下澄人保坂和志対談でのように、「おかしな感じ」のある作品ということで、すぐに「子ども」や「自由」が持ち出されるのには閉口する。「子ども」の言葉は、たしかにおかしいが、じつは合理的であり、言葉である限り、ぜんぜん「自由」ではない。



●追記(2013年11月9日)

上の記事に、栗原裕一郎さんからツイッターで反応がありました。

栗原裕一郎‏@y_kurihara 11月7日
おれは違う解釈で結論も同意ではないけど、仏文の専門家ならではの緻密な分析ですね>中井秀明さん
二人称という、うかつに手を出すとやばいというのが常識になってる手法に一捻り加えて、その一捻りがこれほど多様な解釈を引き出したとすれば、もはや十分成功じゃないかというのが個人的評価です。

わたくしツイッターやってないので、見てもらえるかわからないけれど、ここに追記します。

たぶん栗原裕一郎さんは、「人称をどうにかしようという」小説=保坂和志の教えを真に受けたポンコツ小説、というお考えだと思うのですが、わたくしの場合、そうじゃないです。「人称をどうにかしようという」 小説の中にも、いいもの、面白いものがあると思う。

たとえば、折口子尚「永劫回帰の部屋」は、わたくしには、たいへん面白かった。とにかく一行一行の言葉が、いちいち愉快で。

あと、挙げられてませんが、柴崎友香「わたしがいなかった街で」も良かった。

一方、古谷利裕「セザンヌの犬」は、だめでした。なんというか、言葉に色気がなかった。

藤野可織「爪と目」は、冒頭ばかり取り上げられますが、むしろラスト周辺の文章が印象的でした。「イメージが不鮮明」という評もあり、たしかにその通りなのですが、わたくしは説得力を感じました。

「二人称小説」として成功しているとは思いません。なぜなら「二人称小説」だと思ってないので。でも、「二人称」の使用については、おっしゃる通り、十分どころか、超成功してる。たんに小説としてみた場合も、面白かったです。