父が息子に語る「運命の乗り換え」

高校生になったMinecraft三昧、FSO2三昧の息子と、ゆうべ「運命の乗り換え」について話した。途中からこちらの説明が錯綜し、自分でもわけがわからなくなってしまったので、そのとき考えたこと、話したかったことを整理するため、書いておこうと思う。

「運命の乗り換え」とは勿論、『輪るピングドラム』最終話クライマックスに飛び出す、世界の全体にどんでん返しを仕掛ける壮大な魔法(?)のことだ。この魔法が遂行された後の画面には、それまで物語の舞台であった、呪われた夜の世界とは色彩を一変させた世界、朝方のすがすがしい世界が映し出される。つまり作品は、「運命の乗り換え」を転轍点として、二つの世界の像をこちらに差し出している。乗り換え後の世界で、登場人物たちは、乗り換え前の世界の出来事をどうやら記憶していない。あるいはそれは、ひとつの夢のようなものとして感じられている。ただし、乗り換え後の世界には、元の世界の生々しい痕跡(顔の傷、手首の火傷の跡)が残されている。けれどこの痕跡は、登場人物たちには、その正しい意味が理解できないものとして与えられている。たとえば、ぬいぐるみの破れた腹の縫い目に差し込まれた紙切れを抜き出して、そこに記された言葉を読む陽毬の目から涙が零れ落ちるが、彼女には自分の泣いている理由がわからない。

作品は、視聴者としての私たちが生きている《今ここ》の世界、ひとまず現実世界と呼ぶこの世界の厚みについて考えさせる。現実世界の存在は、人智を超えた裏付けを持っている。世界は、その内側で生きる人間にはその意味を解しえない、様々なしるしに満ちている。それに到達することは、ぜったいにできない。けれど、それはたしかにあった。さもなくば、この現実世界は、このようなものとして成立していないだろう。

というようなことを考えさせる。

ところで、この世界の厚みの成り立ちについて、作品は二通りの解釈を許しているように見える。

第一の解釈は、こうだ。乗り換え前後の二つの世界を、継起的な連続性において考える。悲劇に満ちた世界が魔法によって新しい世界に生まれ変わった。そういう見方である。この見方で、世界の総体を前方に押し流す時間の流れは一本道だ。似たような危機的状況の再来する可能性がなくなったわけではないにせよ、このたびの危機に限って言えば、それは不可逆的なかたちで回避された。世界内存在としての登場人物にしても、世界の変容に相応した変容を蒙っているけれど、その同一性は保たれている。だからこの物語は、「二つの世界」とはいうものの、実質的には単一の世界がその舞台だ。そしてこの場合、世界の厚みは、当の世界それ自体の、もはや誰にも知りえない来歴によってもたらされているということになるだろう。

けれど「運命の乗り換え」という言葉の意味にこだわれば、この解釈には瑕疵があるように思える。魔法は運命を「変える」ものではなく、「乗り換える」ものなのだ。運命が運命であるならば、定義上それは変更できない。けれど乗り換えることならできてもいい。つまり、「運命の乗り換え」とは、運命の複数性、すなわち決定論的な世界の多数性を前提とした言葉なのである。

語義に忠実なこちらの解釈にしたがえば、こうなる。反社会的組織「企鵝の会」のテロリズムは魔法によって阻止されるが、その代償として地下鉄に乗り合わせた登場人物たち、具体的には晶馬、冠葉、陽毬、苹果は終局的に消滅、ないし死んでしまった。よって、「運命の乗り換え」後の画面に映し出された世界で涙を流す陽毬は、それ以前の画面に映っていた陽毬ではない。苹果も同じだ。まったくの別人、赤の他人なのである。だから「運命の乗り換え」場面の前後は、文字通り別の世界に属するということになる。二つの世界は、アニメーション上、継起的に提示されているが、それはそのように提示されているだけで、本当は前後の場面は連続性を欠いている。彼らは記憶を失っているのではなく、当の体験それ自体を自らの過去に持っていないのだ。苹果のやけどの跡は「蠍の火」に焼かれたものではないし、陽毬の額の傷は、砕け散ったガラス片によってつけられたものではない。こちら側の世界には、作品に描かれていない、固有の過去が存在する。その過去の出来事には、彼らの死や消滅は含まれていない。彼らはもともと死んでいないのだ。

こちらの解釈で、世界の厚みは、決して交わらない複数の並行世界の積層がそれを作り上げていることになる。

でも、この解釈では、ひとつ問題が出てくる。「運命の乗り換え」とは、誰に対して意味を持つ言葉なのか、という問題である。というのも、登場人物のそれぞれは、視聴覚的に先行する世界で消滅ないし死というかたちで、完全に消えてしまっているからである。死者である彼らにって「運命の乗り換え」は起きていない。また、乗り換え後の映像に描かれる、はなから死んでいない登場人物たちにとってはいわずもがなだ。「運命の乗り換え」という言葉は、彼らには、まったくもって無味なのだ。彼らは、運命=世界など乗り換えていないのだから。

では、誰が運命=世界を乗り換えたのか。魔法は誰に対して作用しているのか。

私たちが乗り換えたのだ、私たちに作用しているのだというのが、その答えである。画面の外側で、二つの世界を一望に収めることのできる超越的存在としての視聴者が魔法にかけられたのだ。超越的魔法の効果として、視聴者は、非連続的な世界間に連続性を、非同一的な存在者間に同一性を見出してしまう。

したがって、「運命の乗り換え」とは、オブジェクトレベルからメタレベルへの「乗り換え」によって、オブジェクトレベル間の「乗り換え」を実現したかのような印象を与える魔法、トリックであると言い換えることができる。このトリックによって、異なる世界に属する二つの個体が、死んだことと死んでいないことが、巧みに連結されたのだ……。

さて、ここからが本題である。最終話の画面は、作品解釈とは別次元の問いに開かれているように思える。問いは、あるひとつの可能性に関わっている。「運命の乗り換え」後に画面に映し出された陽毬は、私たち視聴者と違い、超越的な視点に立つことができない。彼女は、一世界の内側に閉じ込められているのであり、したがって、「運命の乗り換え」前に画面に映し出されていた世界について知ることができない。けれど、オブジェクトレベルの存在にすぎないその彼女が、異なる世界の存在に気付くことは、ほんとうに、ぜったいにありえないと言い切れるか。陽毬が自分の流す奇妙な涙の意味――世界の「厚み」――に気付くことは、金輪際ないと言い切れるか。

言い切れない。彼女はそのことに気付く可能性がある。どうしてそんなことが言えるのか。答えはこうだ。すでにこの現実世界において、その内側から、そのことに気付いた人間が、少なくとも一人、存在するからである。

自分がいま、ここにいるように、死んだら又、別ないまここの裡に閉じこめられるであろうことに、疑いはない。この論旨が薄弱だと考えるのは、未だ一度も「自分は何故他のたれかではないのか?」「何故たったいま此処(ここ)に居るのか?」について思いを凝(こら)したことのない者共である。どこにも居なくなってしまうなんて、そんな気の効いた事がそう簡単に起って堪るものか!
稲垣足穂「兜率上生」『稲垣足穂全集』第11巻p.17、強調は原文では傍点)

稲垣足穂がこういう言葉を残していることは、渡辺恒夫の本で知った。渡辺は、2002年に出版された『〈私の死〉の謎 - 世界観の心理学で独我を超える』で、「超難問体験」[註1]から導出された死生観の重要な事例のひとつとして足穂のこの言葉を再三引用し、次のような注釈を加えている。

「今、ここ」の偶然性の不思議から、死後、別な「今、ここ」へと何度でも回帰してくるという一種の輪廻転生観へと到達する、足穂の論理を読み取ることはたやすい。一九〇〇年から一九七七年までしか存在していない稲垣足穂という一日本人だけに「今、ここ」があるという不条理よりは、「今、ここ」はあらゆる時代を通じて、いろんな人間にあったと考えたほうが、いわば斉一性原理にかなうからである。
(渡辺恒夫『〈私の死〉の謎 - 世界観の心理学で独我を超える』p.60)

この注釈を読む際に注意しなければならない点が二つある。ひとつは、「今、ここ」の意味である。引用の後段「『今、ここ』はあらゆる時代を通じて、いろんな人間にあった」は、ふつうに読めばあたりまえのことを言っているだけのように聞こえる。どんな時代のだれにでも「今、ここ」があるというのは当然の話だ。けれど、足穂の「今、ここ」は、こういう足穂以外の誰にでもあるはずの一般的な「今、ここ」の意味ではない。それは、「兜率上生」を書き記している稲垣足穂にとっての「今、ここ」が、「あらゆる時代を通じて、いろんな人間にあった」という意味だ。つまり、足穂の「いろんな人間」は、「他のたれか」としての「自分」のことなのである。

換言すれば、足穂の「自分」とは「今、ここ」のことであり、この「今、ここ」がどんな時代の誰にでもあるのが自明の理だとすれば、「今、ここ」であるところの「自分」が「どこにも居なくなってしまうなんて、そんな気の効いた事がそう簡単に起って堪るものか!」。

注意すべき第二の点は、足穂の言葉から引き出しうる「輪廻転生観」を、通常「輪廻転生」という場合に人が想定する「一生」を単位とした「回帰」と見る必要はないということである。足穂の言葉から読み取れる「今、ここ」への「回帰」は、生まれてから死ぬまでの時間を律儀にやり直すことをその不可欠の要素としていない。人生のある一点に差し込まれる形での「回帰」が許されている。『輪るピングドラム』で描かれた「運命の乗り換え」のように。つまり稲垣足穂は、涙の意味に気付いた陽毬なのである。

渡辺恒夫は、自分がこの世に生を受けることが、認識能力の問題で因果関係を遡行できないという意味での偶然(たとえばサイコロを投げてある特定の目が出たことの偶然)ではなく、量子力学的な、真の意味での偶然であるならば、「それは何度でも起こるはずだ」(渡辺前掲p.172)という「隠れた論理」が足穂の言葉の裏側で働いていると読んでいる。

けれど、稲垣足穂の言葉の背後にある論理は、こうした「偶然性」の自覚とは百八十度違ったものとしてとらえることもできるのではないか。次のようなロジックが考えられる。

「今、ここ」に自分が存在するのは偶然か。いや必然である。必然であるとはどういう意味か。それは、あらゆる可能世界の「今、ここ」において自分が存在するという意味だ。なぜそんなことが言えるのか。それは、現実世界とは異なるどのような世界を想像しようとも、そこに必ず、その世界を眺めている視点があるからだ。現実世界から犬という存在をマイナスした世界を想像することができる。稲垣足穂の両親をマイナスした世界を想像することができる。稲垣足穂その人をマイナスした世界を想像することができる。けれど、この視点だけは、消すことができない。それは常にそこにある。この視点は誰のものだろう。想像している自分のものだ。自分の視野は、そこから世界が開ける一点として、あらゆる可能世界につきまとっている。つまり、自分の存在は、経験的にではなく、論理的に消去できない!

この、可能世界それ自体の存在を開く視点を有する主体は、個々の可能世界において、だれであってもいい。つまり、稲垣足穂でなくてもいいし、逆に稲垣足穂であってもいい。だれであってもそれは自分である。「この私」なのだ。そのことは、論理的に揺るがない。

このロジックでは、超越的視点を経由することなく、ひとつの世界の内側で、誰もが有するはずの超越論的視点のみを手掛かりに、別の世界における自分の存在のリアリティが確保されている。したがって、これは超越論的視点と超越的視点を無根拠に重ねあわせるといった誇大妄想的な発想(私は神である!とか)とは無縁だ。

可能世界については、渡辺恒夫も、前掲書の付論の部分で触れている。渡辺は問う。「もし私が他の人間に生まれたら」「もし自分がブッシュ大統領であったら」というような「反実仮想出生」に意味がないと考える人と、意味があると考える人の間には、「想像力の働かせ方に違いがあるのではないか」。

前者は、「私」を対象化し、霊魂のような「モノ」としてブッシュ大統領の身体に移入することで、反実仮想出生想定を行う。後者は、「私」が渡辺恒夫でなくジョージ・ブッシュである一点を除けば寸分違わぬ世界を思い描くことで、反実仮想出生想定を行う。(中略)前者の想像的操作はこの現実世界の中で行われるのに対し、後者の想像力の操作はこの世界とは別の世界を可能な世界として想定するところにある。
(渡辺前掲p.183)

前者、つまり「反実仮想出生」に意味がないと考える人は、超越的な視点から「私」と「世界」を眺めている。双方について、世界の外側から客観的に想像しているのである。ところが後者、「反実仮想出生」に意味があると考える人は、その想像において、自己に親しい超越論的な視点に定位したまま「世界」だけを眺めている。この場合、自己という視点は現実世界そのままであるわけだから、「世界」が現実世界そのままであることはできない。「世界」そのものが、そっくりまるごと別の世界に置き換えられる。後者の人間は結局「可能世界」を想定しているということになるのだ。

こうして可能世界論を導入した渡辺流の「論理的輪廻転生観」は、こう表現される。「私が何ものかとして生きるあまたの可能世界のうち、今、渡辺恒夫として生きる世界が現実化しているが、以前には別のいくつかの可能世界が現実化していたし、これからも別のいくつかの可能世界が現実化するだろう。」(渡辺前掲p.184、強調引用者)。

けれど、可能世界論、とりわけ様相実在論(現実世界の外に無数の可能世界が具体的に存在するという考え方)をとるとすれば、「以前」とか「これから」とかいう言葉の加わっていることが気になる。可能世界は、現実世界と同時並行的に、常にすでに存在するはずであるから。

けれど他方、同時並行的に存在する可能世界を想定し、無数の可能世界を貫く必然的な「この私」を想定した場合、次のような問題が生じるのは避けられない。「もしあなたが無数の世界にまたがって存在する人間群だとしたら、どうしてあなたは@にいる人間としてしか自分を意識しないのでしょうか」(三浦俊彦『可能世界の哲学 -「存在」と「自己」を考える』p.199、@は現実世界のこと)

足穂的な世界間の「乗り換え」は、「自分」が「死んだら」起きると考えられている。一生を単位とした輪廻転生とは違っている可能性があるにせよ、やはり世界A→死→世界Bという継起的な流れが想定されているのだ。こうした継起性は、単一自己意識への複数世界像の同時的前景化あるいは単一自己意識の同時多発的現前(なんのことだ?)を回避するために、どうしても設けておかなければならない制約であると言える。「以前」とか「これから」とかいう言葉は、可能世界それ自体の「現実化」については無意味だが、「自分」の「現実化」(現前化)については大きな意味がある。

もう一度、三浦俊彦の言葉を掲げる。「もしあなたが無数の世界にまたがって存在する人間群だとしたら、どうしてあなたは@にいる人間としてしか自分を意識しないのでしょうか」

ここで引っかかるのは「人間群」という表現ならびに「@にいる」という表現だ。足穂の言葉から読み取れる死生観で、「自分」は単数である。また、この「自分」は世界の内側に「いる」のではなく(世界の内側に「いる」のは「稲垣足穂」にすぎない)、世界を開く視点としてあるのである。「主体は世界に属さない」(ウィトゲンシュタイン論理哲学論考』5.632)ということ。

つまり、足穂の「自分」は、正確には、無数の可能世界を「貫く」存在者ではなく、無数の可能世界を「乗り換える」存在者であると考えられる。単語帳を想像しよう。それも、カードの枚数が多すぎるせいで、ドーナツみたいな円環を描く単語帳を。この単語帳を構成するカードの1枚1枚が可能世界であり、このカードの束を留めている銀のリングが「自分」であるとみなすことができる。

このように、「自分」をリング状の回転体と考えた場合、自己意識にとって世界がなぜか常に単一的に現象しているという問題は、どのように考えられるか。

ヒントになるのは、やはり渡辺恒夫の提示する「刹那転生輪廻」という考え方である。足穂の死生観で、「今、ここ」への回帰を必ずしも生まれなおすことと同じであると考える必要のないことはすでに指摘したが、「刹那転生輪廻」とは、転生の生じる時間単位として「一生」ではなく、「一刹那」を考えるというものだ。つまり、「この私」が人間Wからはじまって「一秒かそこらのうちに全世界のあらゆる人間に転生してまわり、またもとのWへと転生する」という説である。この転生の「周期があまりに短いため、ちょうどフリッカーの断続光が目には連続光に見えるように」、転生先のそれぞれの人間は「自分の記憶がそれぞれ連続的だと思いこむ」(渡辺前掲p.208)。

ここでもまた渡辺は可能世界論を導入し、事態を次のように言い表す。

……「私が誰かとして生きるあまたの可能世界のうち、今、渡辺恒夫として生きる世界が現実化しているが、一刹那まえには別の可能世界が現実化していたし、一刹那のちには他の可能世界が現実化するだろう。そのようにして微小時間のうちに、私が誰かとして生きるすべての可能世界が現実化する。」
(渡辺前掲p.211、強調は原文では傍点)

先の場合と同様、同一時間軸を前提とした「今」「一刹那まえ」「一刹那のち」といった言葉が顔を見せている。無数の可能世界が継起的に現実化すると考えられているのだ。けれど、いま思い描こうとしているのは、こうした継起的に生起する可能世界ではなく、同時存在的な無数の可能世界を「この私」が一刹那のタイミングで絶えず「乗り換え」ていくというイメージである。なぜ自己意識が単一の世界に付着しているのかという問題は、これによって解決することができるだろう。転生は「死んだら」起きるのではなく、常にすでに起きているということだ。

渡辺自身は、「輪廻転生の単位として、『一生』から『一刹那』へと変える根拠」(渡辺前掲p.210)を疑問視しているけれど、単位の変更は、「自分」の必然性と、その同時的現前の不可能性(というより、そのようには現前化していないという事実性)によって正当化される。

自分が死んだら他人として回帰するという、こうした足穂的な転生観は、結局、あらゆる人間は自分であるということになり、他人がいなくなる。「他者は我なり」。だから、新しいタイプの独我論であるといっても間違いじゃないような気がする。べつにそうであっても、つまり独我論であっても一向にかまわないのだが、本当に独我論なのか、ちょっと考えてみよう。

これは渡辺恒夫の考える刹那転生輪廻についてもいえると思うが、可能世界において「私」であるところの「誰か」は、現実世界において他者であるところの「誰か」と同一ではない。というのも、デヴィッド・ルイス型の様相実在論では、個物の貫世界同定が認められていないからである。すなわち可能世界間の存在者どうしを同一性関係で結びつけることができない。可能世界の存在者は、現実世界のそれとどれだけそっくりであっても、現実世界のそれとは別個の存在――分身(カウンターパート)――であるとされるのだ[註2]

この現実世界の他者は、私にとって、あくまで他者で、私ではない。そして、可能世界において私である他者は、現実世界における他者ではない。

また、現実世界の他者は、他者である私を想像するための条件として――実際に意識をもっているかどうかとは無関係に――必ず意識を持っている者として存在していなければならない。現実世界におけるこのような無数の真正の他者の存在こそが、無数の可能世界における私の存在を担保する。「他者は我なり」という直観は、我ではない他者を絶対的に必要とするのだ。したがって、これは独我論ではない。一見独我論であるかのように見える「他者は我なり」論は、「運命の乗り換え」の可能世界論を導入することにより、独我論とは切断される。

様相実在論に刹那転生輪廻を加えたこのアイディア「輪る様相実在論」については、まだほかにも考えるべきことがいろいろあると思う[註3]。でも夜も更けてきた。このへんで話を切り上げよう。眠いからね。もし興味があるんなら自分でも考えてみれば? 父は息子にそう言った。


(註1)「超難問体験」とは何か。渡辺恒夫はこれを「自我体験」の先鋭化されたケースと位置付けている。「自我体験」とは、しばしば「自我の発見」と言われる体験群を一括した呼称のようで、小松栄一・渡辺恒夫の定義では「なぜ私は私なのかという問いを中心に、それまでの自己の自明性が疑問視される体験、および、この困難な疑問に解決を与えようとする思索の試みであって、自己の独自性・唯一性の強い意識を伴うこともある」(渡辺恒夫『〈私の死〉の謎 - 世界観の心理学で独我を超える』p79)もの。この「自我体験」事例の中でも、とくに「意識の超難問」に意識的なケースが「超難問体験」と呼ばれる。「意識の超難問(harder problem of consciousness)」とは、「意識の難問(hard problem of consciousness)」を踏まえた言葉で、渡辺によれば「オーストラリアの人工知能学者ロバーツ」が「ツーソン会議」(意識科学国際会議)の第三回で提示した次のような問題である。

たとえばいわゆる意識の「難問」――すなわち、いったい全体なぜ主観的経験というものが脳から生じるのか――を解くことができたとしても、より巨大で根本的な問題が残ってしまう。「いったいなぜ私はある特定の個人の脳に生じる主観的経験をのみ体験できるのか?」言いかえれば、「なぜある特定の意識する個人がたまたま私なのか?」という問題である。
(渡辺前掲p.15)

この問題を、「なぜ、特定の時代と場所に生きる特定の両親の子である特定の人間が私であるのか」(渡辺前掲pp.70-71)と言い換えると、これが、パスカルが『パンセ』に記した問いと同類であることがわかる。「私は(中略)なぜほかの処ではなく、この処に置かれているか、また私が生きるべく与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠と後にくる永遠の中のほかの点でなく、この点に割り当てられたのであるか」。

(註2)様相実在論では、可能世界はそれぞれ独立しており、共通性を持たないとされる。当然、同一性を持った個体が二つの以上の世界にまたがって登場することもできないことになる。けれど、ここで言う「この私」は、可能世界の内側に存在する個物というわけではなく、むしろ無数の可能世界の条件とでもいうべき存在である。したがって、「この私」の同一性は、個物の貫世界同定によるのとは異なる。

(註3)「世界を開く視点として自分は必然的存在である」という命題の妥当性を考える材料として、永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』から、以下のくだりを挙げておく(最初の発言が「翔太」、次の発言が「猫のインサイト」)。

「(……)ぼくはね、どう考えてみてもね、自分がいない状態っていうのを考えることができないんだよ。ぼくの思考の中で、ぼくが無い状態を考えようとするとね、どうしてもぼくがいるんだ。翔太が死んだ状態なら考えられるよ。でも、そういうことを考えても、翔太の葬式を見ているぼくがいるんだよ。そういう視点そのものが無い状態を考えるなんて、どうしたって考えられないんだ。ぼくが考える無はどうしても存在している無になっちゃうんだよ。」
「存在している無っていうのは、なかなかうまい言い方だな。その話は、時間や空間がない世界を思い描くことができないって話に似てるね? 自分が消滅した状態を自分が思い描くっていうことは、本質的に不可能なんだ。でも、自分の消滅するってことの意味を、自分が考えるってことはできるさ。」
「思い描くことと考えることは違うの?」
「違うさ。ぼくらは五三角形と五四角形の違いを、思い描くことはできないだろ? でも、考えることはかんたんにできるんだ。ぼくらはね、思い描くことができないことを、考えることができるのさ。(……)」
永井均『翔太と猫のインサイトの夏休み』ちくま学芸文庫pp.242-243、強調は原文では傍点)

どうだろう?