ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(3)――パンの件

パンのくだりを読みなおす。パンのくだりとは次の部分である。

たしかに〈Brot〉[パンのドイツ語]と〈pain〉[パンのフランス語]において、志向されるものは同一であるが、それを志向する仕方は同一ではない。すなわち、志向する仕方においては、この二つの語はドイツ人とフランス人にとってそれぞれ異なるものを意味し、互いに交換不可能なものであり、それどころか最後には互いに排除しあおうとする。他方、志向されるものにおいては、この二つの語は、絶対的に考えるならまさしく同一のものを意味している。
(「翻訳者の使命」内村博信訳『ベンヤミン・コレクション2エッセイの思想』p.397)

まずは「志向されるもの」と「志向する仕方」の区別。これは原文では、「das Gemeinte」と「die Art des Meinens」という言い方をしている。両表現の核をなす「meinen」という動詞は、日本語では「意味する」と訳すこともできる。たとえば既訳を見ると、野村修が「das Gemeinte」を「意味されるもの」、「die Art des Meinens」を「意味させるしかた、つまり言いかた」と訳している。円子修平もまた、前者に「意味されるもの」という日本語をあてている(後者には「言い方」)。けれど、この「意味する」という表現は、ベンヤミンのパンのくだりにおいて、あまり適切ではない。

その理由を考えるには、文章を少しさかのぼる必要がある。ベンヤミンは、このくだりの直前部において、だいたい次のように語っている(内村訳、前掲書pp.394-396)。

諸言語は、お互いに「親縁性」を持っている。だが、この「親縁性」、すなわち「諸言語間の最も内的な関係」は、人間の目から隠されている。この隠された関係を「表出」(原語はAusdruck)することが「翻訳」の目的である。

ただし、こうした「諸言語間の最も内的な関係」は、歴史的な血縁関係、起源の同一性とは、まったく別物だ。だから、この内的関係を、言語間でお互いの言葉が似ていること、あるいは原文と訳文との「漠然とした類似」によって証明することはできない。

では、「翻訳」は、どのようにふるまえば、言語間の隠れた関係の表出というその目的を十全に果たすことができるのか。あるいは、起源の同一性や「言葉の類似性」とは異なる諸言語間の「親縁性」とはどのようなものか。

諸言語間のあらゆる歴史を超えた親縁性の実質は、それぞれ全体をなしている個々の言語において、そのつど一つの、しかも同一のものがgemeintされているという点にある。それにもかかわらずこの同一のものとは、個別的な諸言語には達せられるものではなく、諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向(Intention)の総体によってのみ到達しうるものであり、それがすなわち、〈純粋言語(die reine Sprache)〉なのである。

引用は、原語のままとした「gemeint」を除き、やはり内村訳(前掲書pp.396-397)による。「gemeint」は動詞「meinen」の過去分詞なのだが、これは、ここで、その逆接の文脈から言えば、明らかに、「同一のもの」への「到達」に向けた動きを表わしている。だから、この言葉の意味あいを日本語に反映させるとするなら、その表現は、「志向」という名詞と関連を持つ一群の言葉の中から選ばれなければならない。したがって、内村博信は、これを「志向されている」と訳しているし、この部分に限っては野村修も全く同じ訳し方を採用している。円子修平は「(同一なものを)めざしている」と訳しているが、「めざす」は「志向する」の同義とみていいだろう。

そしてパンのくだりは、この個所の直後に出てくるのだから、そこで「meinen」を直前部とは違った言葉、たとえば「意味する」という言葉を用いて訳すのは、ベンヤミンの論述の流れを断ち切り、その文脈を見失わせる効果以外なにも持たない。つまり、「意味する」は適切な訳し方ではない。[註1]

諸言語の志向の先、めざす先に「純粋言語」がある。しかしながら、諸言語は、つまりドイツ語やフランス語といった個々の言語は、個別には「純粋言語」に到達することができない。諸言語間においては「あらゆる個々の要素、つまり語、文、文脈が互いに排除しあう」(内村訳、前掲書p.397)からだ。けれど諸言語は、「純粋言語」に向けた「その志向そのものにおいて補完しあう」(同)。諸言語間の〈排除〉と〈補完〉。このことをベンヤミンは「言語哲学の根本法則」と呼ぶ。そして、この法則を正しく理解するには、「志向されるもの(das Gemeinte)と志向するその仕方(die Art des Meinens)とを区別しなければならない」(同)と語る。以上のような話の流れを受けて、パンのくだりが現れる。

パンのくだりの解釈にあたって、もうひとつ検討しておかなければならない言葉がある。「志向(Intention)」という言葉だ。

「翻訳者の使命」の読解で、「志向」という言葉について触れる際、お約束のように「フッサール」や「現象学」が持ち出される(たとえばデリダがそうしている)。でも、この言及には、さして意味がない。たしかに字面が同じなのだから、内容的に全然関係ないということはないだろう。でも逆にいえば、関係は、その程度のものにすぎないだろう。いわんや「ノエシスノエマ」概念を念頭において読む必要は全くない。ベンヤミンは意識や心の話をしているわけではないからだ。

「翻訳者の使命」をはじめてフランス語に翻訳したのは、哲学者のモーリス・ド・ガンディヤックである。1971年のことだ。ポール・ド・マンによれば、この最初の翻訳で、「ガンディヤックはフッサールに言及した脚注を付けて」(「結論:ヴァルター・ベンヤミンの『翻訳者の使命』」、『理論への抵抗』p.176)いたらしい。けれど、現在のフォリオ文庫に収められた翻訳(Rainer Rochlitzのチェックが入った改訳版)で、そのような脚注は、探しても見当たらない。パリ大学デリダフーコーの指導にあたっていたことでも知られるこの「著名な哲学教授」がテキストに加えた不必要な「現象学的前提」は、いまやきれいに取り除かれているのである。

ド・マンは、その「翻訳者の使命」論で、言語(形式)の非人間的性格に言及しつつ、ベンヤミンのテクストを現象学に引き寄せて解釈し、また翻訳することに警戒感を示している。「ベンヤミンは最初から、言語がいかなる意味であろうと人間固有のものであるかどうかは確実でないと言っています」(同p.177)。その通りだろう。

ベンヤミン現象学における志向性という観点、ノエシスノエマ構造を考慮に入れる」(『翻訳のポイエーシス』p.24)と言い切る湯浅博雄もまた、すぐ後で「ここで〈狙われる、志向される〉ということは、狭義の現象学的な意味あいではない。つまり主体の意識(その志向性)がなにかある事物(対象)をノエシス的に狙うことに相関しているノエマ的ななにかではない」(同p.25)と正当にも前言を翻している(ただ、すぐに翻すような前言は最初からなくてよかったのではないかという気はするけれど)。

ようするに、「Intention」という言葉は、「意識は常に何かについての意識である」という現象学の標語と含意から自由になって読んでほうがいい。再度言うが、ベンヤミンは人間の意識を問題にしていない。スコラ哲学・現象学の用語としての「志向性」とベンヤミンが「翻訳者の使命」で使う「志向」とを内容的な次元で重ねあわせるには、この言葉をその抽象度において相当程度煮詰めなければ無理だ。そしてこの抽象化は、現象学に特有のニュアンスを不純物として洗い流してしまうはずだ。これについては後でまた見る。

さて、ベンヤミンの考える「言語哲学の根本法則」、すなわちベンヤミンが個人的に採用する言語観に従えば、諸言語はどれも、それぞれ、純粋言語に向かって成長している。諸言語の「志向」とは、この純粋言語に収斂する成長の傾向性、方向性を意味している。ひとまずはそう考えることができる。

ひたすら純粋言語をめざす個々の言語は、けれど、その個別的な成長によっては、この一点に到達することができない。純粋言語は、「諸言語が互いに補完しあうもろもろの志向(Intention)の総体によってのみ到達しうる」。

ベンヤミンは、翻訳の役割を過大視していない。個々の言語は、翻訳などしなくても、されなくても、その志向の総体でもって、それぞれ勝手に純粋言語に向けて成長していくと言っている。さしあたりベンヤミンは、純粋言語に向かう諸言語の成長と翻訳とを切り離して考えているのだ。であるとすれば、翻訳の成果物それ自体は、けっして言語の成長ではないし、翻訳は言語の成長の過程に組み込まれていない。翻訳の目的は、結局、すでに触れたように、「諸言語間の最も内的な関係」を「表出(Ausdruck)」ないし「表現(Darstellung)」することであるし、そうであるにすぎない。

翻訳は、究極的には、諸言語間の最も内的な関係の表出に対して合目的的である。翻訳はこの隠れた関係そのものを明るみに出す(offenbaren[啓示する])ことはできないし、それを作り出す(herstellen)こともできない。しかし、翻訳はこの関係を萌芽的ないし内包的(インテンジーフ)に実現することによって、それを表現することはできる。
(内村訳、前掲書p.393、強調は引用者)

内包的[註2]と訳されている「intensiv(インテンジーフ)」という語は、「Intension(内包)」に対応する形容詞だが、やはりベンヤミンは、この語に、「志向」すなわち「Intention」の意味合いを響かせて使っていると見ていいだろう。「Intension」と「Intention」は、ラテン語までさかのぼれば、二重の意味を担った同一の語である。[註3]

「志向(性)」と「内包」の関係の深さとそのあり方については、しばしば議論されているようだが、とりわけ現象学の文脈で、「志向性」という概念が、単に対象に向かう方向のみならず、対象の意識への内在という考え方を伴っているのは、この語の語源的・意味的な二重性から言って、むしろ当然の事態だ。ベンヤミンの「志向」もまた、「内在」性すなわち「内包」性を当然に含意しているはずだし、逆に「内包的」は「志向的」の含意を持っていると考えていいはずだ。ただ、ベンヤミンの場合、意識作用や心の働きを問題としていないので、「志向」の「内包」性(「内在」性)は、人間の意識ではなく、言語それ自体がその場となる。言語が自己の「内包」において「志向」する。あるいは言語が自己の影としての論理形式を上に向かって投げだす。

この二重の所属に留意した地点から、「翻訳」が「諸言語間の最も内的な関係」を「萌芽的ないし内包的(インテンジーフ)に実現する」という言葉を読み返せば、ベンヤミンのいう「実現」の態様もくっきりしてくる。翻訳が「諸言語間の最も内的な関係」を「内包」=「志向」において「実現する」とは、結局、現実という外界のレベルでは、それを実現しないということだ。さらに言えば、翻訳は、その成果物である言語の身体を通じては、純粋言語の成長に加担しないということにもなるだろう。

以上で語彙レベルでの必要な確認は済んだと思うから、そろそろ、パンのくだりの具体的な検討に入りたい。といっても、1文目の解釈はすでにほぼ済んでいるとも言える。

たしかに〈Brot〉[パンのドイツ語]と〈pain〉[パンのフランス語]において、志向されるものは同一であるが、それを志向する仕方は同一ではない。

〈Brot〉という語と〈pain〉という語は、両語とも、同一のもの、すなわち「純粋言語」を志向している。けれど、この二つの語は、異なる言語に属する別の語であり、すなわち「志向する仕方」は同じではない。問題ないようだ。次の文に移る。

すなわち、志向する仕方においては、この二つの語はドイツ人とフランス人にとってそれぞれ異なるものを意味し、互いに交換不可能なものであり、それどころか最後には互いに排除しあおうとする。

「すなわち」とあるのは、この文が、「志向する仕方は同一ではない」という直前の言葉に対する釈明であることを意味している。「志向する仕方」の違いは、たんに〈Brot〉と〈pain〉の外見と発音の違い、両語の帰属先の言語の違いを指すのみならず、両語間の意味の守備範囲の違いとして表れているとベンヤミンは言っている。〈Brot〉という語がドイツ人に対して意味するものと、〈pain〉という語がフランス人に対して意味するものは異なるのだと。この個所でベンヤミンは、格別難解なことは言っていない。dogは犬ではない(田中小実昌)とかpoissonは魚ではない(森有正)とか、だれでもするような話をしているだけだ。〈Brot〉と〈pain〉とでは、両者のシニフィエ(あるいは「価値」)がぴったり重なりあわない。外延やコノテーションが違っている。

だが、ここでひとつ問題が出てくる。もし、〈Brot〉と〈pain〉とで、シニフィエが合致せず、両語が「交換不可能」であるとすれば、ベンヤミンは、いったいいかなる権利と資格において、この二つの語を対比させているのか? つまり、〈Brot〉と〈chien〉でも、〈Fisch〉と〈pain〉でもなく、〈Brot〉と〈pain〉とが独仏両語からそれぞれ選び出され、突き合わされているはなぜなのか?

答え。このパンのくだりで、ベンヤミンは「意味という無限に小さな点」に触れている。「意味」からの翻訳による解放を唱えるベンヤミンは、それでも、翻訳における「意味」の意義を、まったく認めていないわけではない。

接線が円に接するのはほんの束の間、ただ一点においてだけであるように、そして、接線がさらに無限へとその直線軌道をたどる法則を規定しているのは、この接触であって接点ではないように、翻訳は、言語運動の自由のなかで忠実の法則に従いながらそのもっとも固有の軌道をたどるために、束の間、意味という無限に小さな点において原作に接触するにすぎない。
(内村訳、前掲書p.408)

「意味(Sinn)」という重しからの解放である逐語訳の正当性を担保するうえで、語の意味への点的な接触が要請されている。なぜなら、語と語との間に点的な接触がなければ、逐語訳の前提となる逐語性(word for word)が成立しないからである。〈Brot〉と〈pain〉との突き合わせは、こうした「ほんの束の間」の「ただ一点においてだけ」の接触の具体的な一例を示している。

〈Brot〉の価値の総体と〈pain〉の価値の総体には、看過できないズレがある。けれど、その価値の重なり合う領域もあって、この「無限に小さな点」としての価値の重なりを、ベンヤミンはこのように「意味」と呼ぶ。

じつは、ベンヤミンのこの意味論は、『言語にとって美とはなにか』で吉本隆明が示した意味論とほとんど同じだと言っていい。形式「海だ」と形式「海である」の「内容がおなじ」と見る観点に「意味」を、「内容も形式もちがっている」と見る観点に「価値」を対応させてみれば、そのことがよくわかる。

たしかに吉本隆明は、丸山静らがかつて指摘した通り、ソシュールの「価値」概念を誤解している。たとえば、ここに異なる二つの語AとBがあるとしよう。この事態を指して、ソシュールの価値論では「AとBは価値が異なる」と言うことができる。けれど、吉本が『言語にとって美とはなにか』でそう言うように、「AはBよりも価値がある」と言うことはできない。ソシュールの「価値」は、「ネガティブな差異」のことであり、「価値が高い」「価値が低い」という意味での「価値」ではないからだ。けれど、「内容」と「形式」の密着について語る言語美の吉本は、その思考のある部分において、ソシュールの「価値」概念に届いている。ただ、吉本は、「内容と形式とのわかたれない全体性」において生じる価値(差異としての価値)から、特定の差異のあり方(修辞形態)を抽出し、それを文学の価値(高低としての価値)に結び付けた。こういうところに、以前拙論「山崎ナオコーラの論理学」で指摘したような、「価値があるのは価値があるからだ」というような「泥臭い」同語反復と、それに伴う眩惑と、『言語にとって美とはなにか』という書物に特有の晦渋さの一因がある。

パンのくだりに戻ろう。〈Brot〉と〈pain〉で、両者のシニフィエがぴったり重なりあわない。両者は、異なるものを意味している。ところが、

志向されるものにおいては、この二つの語は、絶対的に考えるならまさしく同一のものを意味している。

「志向されるものにおいては」という訳し方には、少し誤解を招く余地があると思う。「志向されるもの」が「純粋言語」であるとすれば、この訳文では、「純粋言語」という言語体系(ラング)が、その言語体系の要素として、二つの語すなわち〈Brot〉と〈pain〉を持つかのように読まれる恐れがないでもないからだ。もちろん取り越し苦労かもしれない。けれど念のため、右の文は、次のように修正して読むことにする。

志向されるものという観点からみれば、この二つの語は、絶対的に考えて、まさしく同一のものを意味している。

〈Brot〉と〈pain〉が「同一のものを意味している」とは、どういうことだろう。これは両語で「意味(Sinn)」が同じということだろうか。そうでないことは明らかだ。ここでベンヤミンは「意味(Sinn)」という接点ではなく、この接点に触れた後に伸びる直線の軌道について語っている。

ベンヤミンの原文を見ると、「意味している」に対応する表現として、「bedeuten」という語が使われている。

いま問おうとしている問いは、こういう問いである。このくだりの日本語への翻訳で、「意味する」という言葉は、原文ドイツ語の「bedeuten」という動詞の訳語表現として、あまりふさわしくないのではないか。パンのくだりで、「bedeuten」を「意味する」と翻訳することは、「meinen」をそうするのと同様、いくらか適切さを欠いているのではないか。

パンのくだりの1文目、〈Brot〉と〈pain〉がドイツ人とフランス人にとって異なるものを意味するというところで、この「意味する」に対応する原文もまた「bedeuten」である。この「bedeuten」は、この文の意味から言って、このまま「意味する」でいい。けれど、「純粋言語」の観点から二つの語が「bedeuten」するという場合、「純粋言語」が意味的なものからの解放であるのだとすれば、「意味する」はまずい。そう思われる。

フランス語訳を参照すると、「signifier」という動詞が使われている。

ジャック・デリダは、『声と現象』の第一章で、フッサールの「bedeuten」を「signifier」と仏訳することの不都合について語っている。ドイツ語で「bedeutsame Zeichen(意味を有する記号)」と言えても、フランス語で「signe siginifiant(意味する記号)」という言うことには抵抗がある。なぜなら、フランス語の「signe(記号)」は、それだけですでに「siginifiant(意味を有する)」という意味を含んでいるからである。「signe siginifiant(意味する記号)」とフランス語で言うのは、「馬から落馬する」と日本語で言うのと同じだ。同様に、ドイツ語で、「ある種のZeichen(記号)はbedeutunsglos(意味を欠く)」とは言えても、フランス語で同じようには言えない。フランス語で「signe(記号)」という語は、はなから「意味するもの」であること、シニフィアンであることを意味として含んでいるからである。

デリダは、さらに、フッサールにおいて「意味(Bedeutung)」と「口話(Rede)」とが密接な関係に置かれていることを確認したうえで、ふつう「signifier(意味する)」と仏訳される「bedeuten」という語に、「vouloir dire」という仏語表現をあてがう。「vouloir dire」は、日本語では「bedeuten」と同様、一般的に「意味する」と訳される表現だが、文字通りには「言うことを欲する」「言いたい」という意味になる。

このデリダを真似ることにする。ベンヤミンの「志向されるものという観点からみれば、この二つの語は、絶対的に考えて、まさしく同一のものをbedeutenしている。」という文中「bedeuten」を、「意味」という日本語において理解するのを避けるため、ここでは、フランス語の「vouloir dire」を日本語に字義的に翻訳した表現「言うことを欲する」において解釈したい。

最後、「絶対的に考えて」だが、これは第1文にあった「ドイツ人とフランス人にとって」との対比において、その意味が明瞭となる。つまり、「絶対的に考えて」ということで、ベンヤミンは、ドイツ人やフランス人以外の存在を考慮することを求めている。つまり第3文で、人間存在は考慮されていない。ドイツ語やフランス語といった相対的な意味作用を発揮する言語体系の次元において、二つの語を理解しないこと。言葉の意味を理解しないこと。ようするに、この文で、「言うことを欲する」主体は言語そのものであり、その語りの相手は「神」なのである。

内村博信の訳文に、以上の解釈を反映させると、パンのくだりの訳文として、次のような日本語が得られる。

たしかに〈Brot〉と〈pain〉において、志向されるものは同一であるが、それを志向する仕方は同一ではない。すなわち、志向する仕方においては、この二つの語はドイツ人とフランス人にとってそれぞれ異なることを言わんとしており、互いに交換不可能であり、それどころか最後には互いに排除しあおうとする。他方、志向されるものという観点からみれば、この二つの語は、絶対的に考えて、まさしく同一のことを言わんとしている。

ベンヤミンは、このくだりで、やはり、「言語による伝達」と「言語における伝達」を区別しているのだ。「言語哲学の根本法則」を理解するうえで不可欠な区別、すなわち「志向する仕方」(個別言語の言語表現)と「志向されるもの」(純粋言語)の区別とは、この二つの伝達、二つの表現の区別のことを指している。

「言語による伝達」という人間的な次元において二つの異なるアクションとみなされる「meinen(志向する)」と「bedeuten(言うことを欲する)」は、「言語における伝達」という絶対的な次元においては、その内実を一にする。「絶対的に考えれば」、「言うことを欲する」ことは、「志向する」ことなのだ。つまり、意味内容を欠いた純粋形式の自発的な語り、言語の論理形式の同語反復的浮上は、言語それ自体が「欲する」ことによって「志向する」。なにを? 純粋言語を。


<註>

[註1]なお、三ツ木道夫も「das Gemeinte」を「意味されるもの」、「die Art des Meinens」を「意味の仕方」と訳しているが、三ツ木の訳文は、とりわけ「純粋言語」に直接関係する部分の訳し方(原文解釈)が際立って他の訳者と異なっており、別途の検討を要する。たとえば、内村、円子、野村の訳文で〈諸言語が志向する同一のものであって、諸言語の志向の総体によってのみ到達可能なもの〉=「純粋言語」という等式が成り立つところ、三ツ木の訳文では成り立たない。三ツ木の訳文では、「諸言語の志向性の総体」こそが「純粋言語」なのであり、この「志向性の総体」=「純粋言語」によってのみ「どの言語においても」「言われている」「同じこと」に「到達できる」という解釈が示されているのだ。

ちなみに、もう一人の訳者、山口裕之の訳文は、この点の解釈(「純粋言語」が到達目標であるのか、それとも到達手段であるのかの判断)において、あいまいさを残したものとなっている。仏語訳も、純粋に構文的な見地からは、どちらの解釈も可能な形になっている。

三ツ木と山口の該当部分の訳文を下に示す(本文「gemeint」の解釈の部分で引用した内村の訳文と同じ個所)。

三ツ木訳(「翻訳者の課題」白水社『思想としての翻訳』p.194):

むしろ諸言語の歴史を超えた親和関係は次の点にある。すなわち諸言語が一つの全体をなしていると考えるなら、どの言語においても一つのこと、しかも同じことが言われているという点である。むろんこれには個別の言語は到達できない。到達できるのは純粋言語、相互に補完しあう諸種の志向性の総体なのである。

山口訳(「翻訳者の課題」河出文庫ベンヤミン・アンソロジー』pp.94-95):

むしろ、諸言語のあいだに見られる、歴史を超えたあらゆる親縁性は、いずれも全体をなしているそれら個々の言語のうちに、それぞれある一つのことが、しかも同一のことが意図されているということに由来するものである。しかしながら、その同一のものに、個々の言語は到達することができない。到達できるのは、互いに補完し合うそれら諸言語の志向(インテンツィオーネン)の総体だけである。それはつまり、純粋言語である。

山口訳では最後の文「それはつまり、純粋言語である」中の「それ」が何を指しているのかはっきりしない。というより、この文だけ文脈から浮いている印象だ。つまり、「同一のこと/同一のもの」=「純粋言語」とは読めないし、「諸言語の志向の総体」=「純粋言語」とも読みにくいのではないか? ちなみに仏語訳の場合、きちんと(?)、どちらの意味にもとれるように訳されている。

それと、山口訳で「いずれも全体をなしているそれら個々の言語」となっているところ、三ツ木訳で「諸言語が一つの全体をなしている」となっているのも興味深い(内村訳は、「それぞれ全体をなしている個々の言語」で、山口訳と同じ解釈)。これも仏語訳では、両義的な解釈が可能な訳となっている。

[註2]ちなみに円子、野村、三ツ木の三者は「集約的」、山口は「内向的(インテンジーフ)」と訳している。

[註3]ベンヤミンは「翻訳者の使命」後段で、「Intention」の代わりに「intentio」というラテン語をそのまま使っている。哲学事典の類によれば、「Intention」ないし「Intantionalität」の語源であるこの「intentio」という語は、元来、「もっぱら〈行為の意図や目的〉を、すなわち〈意志の働き〉を意味していた」(『現象学事典』)。けれど、12世紀に入り、「アラビア哲学がラテン語訳された際に、〈語義や観念〉などを意味するアラビア語のmanaがintentioと訳され」るようになる。ここに意味的な混交が生じたということになるが、そもそも「mana」を「intentio」で翻訳することができたのは、両者間に意味的な重なりがあったからに違いない。意味の重ならない両端部が、「intentio」にもともと含まれる「志向性」とmanaに由来する「内包性」の二重性として可視化されていると考えていいだろうか?


<参考:パンのくだりの既訳>

ベンヤミンの「翻訳者の使命」(翻訳者の課題)は、これまで5つの翻訳が存在する。古いほうから挙げれば、

  1. 円子修平訳「翻訳者の使命」(晶文社ベンヤミン著作集6ボードレール』)
  2. 野村修訳「翻訳者の課題」(岩波文庫『暴力批判論他10編』)
  3. 内村博信訳「翻訳者の使命」(ちくま学芸文庫ベンヤミン・コレクション2エッセイの思想』)
  4. 三ツ木道夫訳「翻訳者の課題」(白水社『思想としての翻訳』)
  5. 山口裕之訳「翻訳者の課題」(河出文庫ベンヤミン・アンソロジー』)

となる。訳文の良し悪しはトータルに見て判断しなければならないので、一部だけを取り出してその適切性や是非を問うことはできないけれど、あくまで参考として、各翻訳者によるパンのくだりの翻訳を下に掲げておく。

円子修平訳:
〈Brot〉と〈pain〉において、たしかに意味されるものは同一であるが、その言い方は同一ではない。つまりこの言い方のなかに、この二語はドイツ人とフランス人とにとってそれぞれに異なるものを意味すること、この二語は両者にとって交換できないものであり、結局はたがいに排除し合うものであること、しかし意味されるものから見て、絶対的に考えれば、同一なものを意味することがあらわれている。

野村修訳:
ドイツ語の「ブロート」とフランス語の「パン」とでは、意味されるものは同一だけれども、言いかたは異なっている。言いかたからすれば、二つの語はドイツ人にとってとフランス人にとってとでそれぞれ別の意義をおびていて、互いに交換がきかないどころか、けっきょくは互いに排除し合おうとさえする。しかし意味されるものからすると、二つの語は絶対的に同一のものを意味している。

内村博信訳:
たしかに〈Brot〉[パンのドイツ語]と〈pain〉[パンのフランス語]において、志向されるものは同一であるが、それを志向する仕方は同一ではない。すなわち、志向する仕方においては、この二つの語はドイツ人とフランス人にとってそれぞれ異なるものを意味し、互いに交換不可能なものであり、それどころか最後には互いに排除しあおうとする。他方、志向されるものにおいては、この二つの語は、絶対的に考えるならまさしく同一のものを意味している。

三ツ木道夫訳:
ドイツ語の「ブロート」とフランス語の「パン」とでは、たしかに意味されるものは同じだが、意味の仕方は同じではない。この意味の仕方の違いから明らかなのは、二つの単語がドイツ人とフランス人にとって異なったものを意味していること、これらはドイツ人、フランス人にとっては交換できないものであること、つまるところ、互いに排除しあうものだということである。しかし意味されるものを絶対の焦点として考えるなら、これらの語が意味するものは同一で重なり合っているのである。

山口裕之訳:Brot[ドイツ語で「パン」]とpain[フランス語で「パン」]という語では、意図されていることは確かに同じものだ。しかしそれに対して、それを意図する仕方は同じではない。つまり、意図するその仕方では、これら二つの言葉はドイツ人とフランス人にとってそれぞれ異なるものを意味し、両者にとって入れ替えることのできないものであり、さらに最終的には互いに相容れないものとならざるをえない。しかし、意図されているものについていえば、これら二つの言葉は、つきつめて言えば、全く同一のことを意味しているということになる。