ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(1)――「常識的な翻訳観を疑う」

湯浅博雄『翻訳のポイエーシス』に収められた「翻訳についての考察を深めるために」という70ページ余りの論考。ベンヤミン「翻訳者の使命」の読解を梃子に展開されるこの論考から抽出可能な命題に、次の二つがある。

1.文学作品は語り得ぬものを語る。
2.文学作品の翻訳は文学作品でなければならない。

著者は、テクストの冒頭、「常識的な翻訳観を疑う」という見出しを置いている。また、本文中でも数度「常識」に対する疑念を表明している。けれど、「翻訳についての考察を深めるために」から取り出すことのできる右の二つの命題は、むしろひどく常識的なものに見えないか。常識批判が常識に落ち込んでいるようではないか。なにがどうしてこうなってしまうのか。今からそれを考えたい。

文学作品や思想・哲学テクストはなにを語るのか。なにを告げるのか。あるいはなにをコミュニケートするのか。逆説的に聞こえるかもしれないが、優れた文学作品は<多くを語る>とか<雄弁に告知する>ということはない。文学作品は通知したり、発表したり、発言したりすることに主眼を置いていない。ある種のコミュニカシオン(疎通、交わり、交流、通じ合い)へと開かれており、そこに読者は惹きこまれるのだが、しかしそれはいわゆる伝達=疎通とは違う。(中略)文学作品におけるコミュカシオン[原文ママ](communication)というのは、きわめて伝わりにくいもの、疎通しがたいものが、突然、思いがけない好運に恵まれたおかげで、浸透していくことである。
湯浅博雄『翻訳のポイエーシス』pp.14-15)

湯浅は、ここで文学的伝達の特異性について語っている。特異性は二つの点にわたっている。第一に、伝達対象の特異性。通常の伝達は、「語りうるものを語る」。しかし、文学作品は「きわめて伝わりにくいもの、疎通しがたいもの」を語る。これがひとつ。もうひとつは、文学的な伝達の不確実性だ。その伝達対象の性質からいえば当然のことだが、文学の伝達は、必ずしも成功が保証されていない。伝達が果たされるには、「思いがけない好運」が必要である。

もう一か所、引用しておこう。

文学作品にとって内在的であり、本質的なものは、きわめて捉えにくいもの、密かなものであって、まさに人々が詩的なものとか文学性と呼んできたなにかである。(中略)優れた文学・思想作品に書かれていることは、必然的に捕捉しにくいもの、密かなもの、時間をかけてじっくりと読み解かない限り、理解しがたいものである。
(湯浅pp.15-16)

つまり湯浅はこう言っている。このような「きわめて捉えにくいもの、密かなもの」すなわち「語り得ぬもの」こそが文学にとって「本質的なもの」である。したがって、読者は、このような文学的伝達の本質的対象である「必然的に捕捉しにくいもの、密かなもの」を受け取るため、「時間をかけてじっくりと」作品を読まなければならない。そうすれば、いつか「思いがけない好運」によって、ついに作品の「理解」に到達することができるかもしれない。

こうした湯浅の言葉は、「翻訳者の使命」でベンヤミンの語る言葉と、多くの字面を共有している。だから、その大意も共有しているように一見見える。けれど、「翻訳者の使命」を注意深く読みなおし、その上で湯浅の記述を読みかえせば、似ているのは表面だけで、言わんとしていることの本質において、両者がむしろ対極に立っていることがわかる。ベンヤミンは次のように書いている。

文学は何を「言う」のだろうか。文学は何を伝達するのだろう。文学を理解する者にとって、伝達されるものはほとんどない。文学にとって本質的なものは伝達ではなく、意味内容でもない。(中略)ある文学作品のなかで伝達の埒外にあるもの――それが本質的なものであることは、悪い翻訳者でさえ認めるだろう――は、一般的に、とらえることができないもの、神秘的なもの、「詩的なもの」とされているのではないだろうか。
ベンヤミン「翻訳者の課題」、山口裕之訳、『ベンヤミン・アンソロジー』p.87)

引用の前段でベンヤミンの言っていることは、こういうことだろう(後段については後でまた見る)。「伝達」という観点から見れば、文学作品はほとんど何も伝達していないのだから、この観点は、文学の本質を考える上で完全に無効である。文学の本質は、「伝達の埒外にある」。

「詩的なもの」の奇蹟的な伝達すなわち「語り得ぬものの語り」について語る湯浅と、ベンヤミンとの違いは、まずこの点ではっきりしている。湯浅は、文学の伝達は、通常の伝達と異なるとは考えているが、伝達それ自体を疑問に付すことはしない。伝達に抵抗する「詩的なもの」の逆説的な伝達という言い方で、伝達の構図は堅持している。けれどベンヤミンは、文学の領域においては、こうした伝達の構図それ自体を廃棄すべきだと考えている。

伝達の構図は、その構成要素を明らかにする形では、人間の語り手(作者)人間の受け手(読者)に対して能動的メッセージ(内容)を送信することと言い換えることができる。したがって伝達の構図の廃棄とは、これら諸要素を捨て去ることがそうであることになるだろう。たとえばベンヤミンは、「翻訳者の使命」をこう書きだしている。「芸術作品や芸術形式の認識にとって、受容者を考慮に入れることが実り豊かなものとなるということは決してない」(山口訳、前掲p.86)。あるいは「芸術はそのいかなる作品においても、人間に注目されることを前提としていない」(「翻訳者の使命」内村博信訳、『ベンヤミン・コレクション2』p.388)。受容者すなわち読者の存在を念頭に置いて「詩的なもの」のコミュニカシオンを語る湯浅と違い、ベンヤミンはこのように文学作品と人間の読者との関係をあらかじめ切断した地点から、その翻訳論を書き起こしているのである。

こうした伝達の構図の否定において、「翻訳者の使命」は、初期言語論、すなわち「言語一般および人間の言語について」の言語観をそのまま受け継いでいると考えられる。初期言語論には、次のような言葉が含まれている。

言語の語り手などは存在しない。

また、

言語の内容といったものは存在しない。

こうしてベンヤミンは、「伝達の手段は言葉であり、その対象は事柄であり、その受け手は人間である」という言語観に「ブルジョワ的」という形容を冠し、これに「本質的に誤った見解」の烙印を押す。したがって、湯浅が『翻訳のポイエーシス』で表明する考え――「本質的な作品」は書き手に固有の体験、すなわち「他なる者(たち)に伝えにくいだけではなく、書き手自身にとってもきわめて捉えにくいもの」、つまり「語りえぬもの、名づけえぬもの」(p.68)を伝えようとするのだという見方――も、ベンヤミンに言わせれば、やはり言語に対する「本質的に誤った見解」ということになるだろう。

ただし、初期言語論のベンヤミンは、こうして通常の意味合いにおける「伝達」の構図をいったんキャンセルした後で、あらためて「伝達」について語り始める。このように語りなおされた「伝達」は、その性質を、「ブルジョワ的」な伝達のそれと、根本的に異にするものでなければならないだろう。この違いをベンヤミンは、たとえば次のように表現している。

ドイツ語は、それによって人が表現できると信じているものの表現ではいささかもなく、それにおいてみずからを伝達するという形で伝達されるものの直接的な表現なのである。
ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」拙訳)

簡潔に言えば、「言語による伝達」と「言語における伝達」の区別がつけられている。前者の伝達態様を「ブルジョワ的」と呼ぶベンヤミンは、後者については、「魔術的」という言葉を使い、両者の違いを際立たせている。

ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』の細見和之は、ベンヤミンが「ブルジョワ的」と呼ぶ伝達体制を「水平的」、また、「魔術的」と呼ぶ伝達の構図を「垂直的」と呼び換えている。この呼び換えは正当だが、細見和之は、この方向転換の意味をじゅうぶんに捉えていないと思われる。この点に関し、「言葉は現実に動じない」(『トラデュイール』第3号)で、次のように書いて批判した。

細見の読解は、ベンヤミンのいう「言語による伝達」と「言語における伝達」の違いを、人間同士の伝達に係る「水平的な次元」と、事物から人間、人間から神に向けた伝達に係る「垂直的な次元」の相違として解釈する。これはいい。けれど、この相違が、単なる方向性の違いにとどまり、その性質上の違いとして取り出されていない。証言者の証言の能動性と主体性は、あきらかに「ブルジョワ的」な日常言語の構え、水平的伝達の構えを引きずっている。細見は、ベンヤミンの思考の中心から真っすぐ伸びた非人間性を、人間的常識の次元に引き戻してしまっているのだ。
(「言葉は現実に動じない」『トラデュイール』第3号)

細見は、この本で、「あってはならないことが現に起こってしまったとき、私たちはその『記憶』を誰に向けて語るのか」という問いを立て、この問いに答えようとするのなら、そこに、「証言者」としての人間が「証言」を差し向ける先としての、「『神』とは言わないまでもおよそ『絶対的なもの』」が不可欠な存在として浮上するはずだと語る。この証言者のロジックにおいて、細見は、ベンヤミンの思考の固有性を取り逃がしている。なぜなら、このロジックにおいて、ベンヤミンが解消しようと考えた日常的言語伝達の構えに必須の諸要素、すなわち人間の語り手、その語りの能動性、語りの内容が、すっかり回復されてしまっているからだ。

細見の考えで念頭に置かれている「あってはならないこと」とは、たとえば「ホロコースト」、たとえば「阪神・淡路大震災」である。けれど、こういった大きな災厄は、まさにその大きさゆえに、ベンヤミンの思考に起点にある「神学的事態を取り逃がしてしまうことになる」。
(「言葉は現実に動じない」)

では、ベンヤミンの思考に起点にある「神学的事態」を捉まえるには、どうすればいいのか。どのように考えればいいのか。ベンヤミン的な「神学的事態」は、

世界の内側で生起した、言語を絶する特定の「ショアー」から考えるべきではない。ランプや山々やキツネ、つまり、ありとあらゆるものごとが、現世においてこのような形であること、存在すること、その本源的なおかしさへの感受性を元手に考えなければならない。ベンヤミンにとって「あってはならないこと」があるとすれば、それは、この世界の全部だ。彼に「神」の一語を書かせた「神学的事態」の淵源には、こうした、世界が存在することそれ自体の驚異、哲学の始原であるところの驚き、タウマゼインがある。
(同前)

伝達をめぐる細見の見解は、結局、横のものを縦にしただけだ。常識的な、日常的な言語の伝達レジームの枠内にきれいに収まっている。けれど、繰り返すが、ベンヤミンのいう魔術的言語の伝達は、その本性において、日常言語の伝達のロジックを脱しているのでなければならない。そうでなければ、文学作品を「言う」の次元で把握することの不毛性を「翻訳者の使命」の冒頭において主張した上で、こう書くことはできないだろう。「諸言語」は「それらが言おうとしていることにおいて互いに親近的な関係にある」(山口訳、前掲p.92)。

つまりベンヤミンは、同じ「言う(sagen)」という言葉を、異なる場所で、異なる意味で使っている。この意味論的な差異に留意し、それを峻別して読むのでなければ、ベンヤミンの言語論と翻訳論の言わんとしていることを正確に捉まえることはできない。湯浅博雄、そして細見和之が、ベンヤミンの非常識性を取り逃がし、常識的な思考に引きずられてしまう原因は、こうした、語の形態を保ったまま純粋に意味の次元において生じている変容を捕捉できていないからだろう。「言語による伝達」と「言語における伝達」の区別において、「による」と「における」の明示的な違いの影で、「伝達」の二文字がひそかに、内的に、大きな変容を被っている。そのことに気づかなければならない。強大な常識の力に抵抗するには、ベンヤミンのテクストにしがみつくことが必要なのだ。さもないと、あっというまに常識にさらわれてしまう。こんなふうに。

字句通りであることを追求するのは、古代ギリシャ語と近代ドイツ語のあいだでもこのうえなく困難である。ましてやフランス語と日本語のあいだでは(実際上は)不可能と言うしかない場合も多い。統辞法、構文法が逆さまになってしまい、まったく意味が取れなくなることがありうる。あるいはひどく武骨な日本語、きわめて読みづらい、不快な日本語になることもありうる。


それでよいのだろうか。原文に忠実であり、逐語性(字句通りであること)を心がけているならば、無神経な、不快な日本語であってもかまわないのだろうか。そうではないだろう。それはベンヤミンの真意とは違うだろう。
(湯浅前掲p.73)

湯浅博雄によれば、ベンヤミンが翻訳で逐語性を重視するのは、「原文のかたち=フォルムの面」「シニフィアン的側面」を尊重しない翻訳姿勢を批判するための「戦略上の配慮」(湯浅前掲p.75)にすぎない。ベンヤミンは決して「意味が取られなくなること」を積極的に求めているわけではない。内容を大雑把にとらえてよしとするのではなく、原文の細部にまで気を配り、それを「達意の自国語へと構築する」ことの必要性を言っているだけだ。

そうだろうか。ベンヤミンは、こうした常識的な翻訳観を持っているだろうか。「翻訳作品は、その翻訳者の母語において、一つの文学作品としての価値をもち、文学作品として読まれることが望ましい」(湯浅前掲p.74)などということを言っているだろうか。「たしかにベンヤミンはそのことにあまり触れていない」(同p.75)と湯浅は言う。けれどベンヤミンは「あまり触れていない」どころか、そのことをきっぱりと否定しているのではないか。たとえば次のような言い方で、そうしているのではないか。

ある文学作品のなかで伝達の埒外にあるもの――それが本質的なものであることは、悪い翻訳者でさえ認めるだろう――は、一般的に、とらえることができないもの、神秘的なもの、「詩的なもの」とされているのではないだろうか。それは、翻訳者もいわば詩作することによってのみ、再現することができるものなのではないか。事実、悪い翻訳の第二のメルクマールはこのことに由来する。つまり、悪い翻訳とは、非本質的な内容を不正確に伝えることと定義してよいだろう。
(山口訳、前掲p.87)

この箇所に限らず、ベンヤミンの文章は、その流れに乗るのがひどく難しい。だからこそ読み手は、乗りやすい常識の流れに乗ってしまう。常識に流されてしまうのだ。山口裕之の訳文は優れている。けれど、ここでは、常識の流れに抗するため、ほんの少しだけ言葉を変え、また補っておくことにする。

ある文学作品のなかで伝達の埒外にあるもの――それが本質的なものであることは、悪い翻訳者でさえ認めるだろう――は、一般的に、とらえることができないもの、神秘的なもの、「詩的なもの」とされているのではないだろうか。それは、翻訳者もいわば詩作することによってのみ、再現することができるものとされているのではないか。事実、悪い翻訳の第二のメルクマールはこのことに由来する。つまり、悪い翻訳とは、非本質的な内容を不正確に伝えることと定義してよいだろう。

太字が変更した部分である。ここで「伝達」が「言語による伝達」を意味していることにはじゅうぶんな注意が必要だ。その上で、変更後の文章から読みとれるのは、こういうことだ。文学作品の本質は、一般的には「とらえることができないもの、神秘的なもの」と見なされている。つまり、「語り得ぬもの」と見なされている。こういう「語り得ぬもの」こそが「詩的なもの」である。こういう「語り得ぬもの」=「詩的なもの」は、翻訳者自身が翻訳において詩人としてふるまうことによってのみ再現できる。一般的にはそう考えられている。けれど、このような考え方は間違った考え方だ。このような間違った考え方に基づいて翻訳者が詩作したところで、出てくるのは「悪い翻訳」だけだ。文学の本質は、「伝達の埒外にある」。つまり、伝達可能なものは、非本質的なものにすぎない。翻訳者による詩作の真似事は、この非本質的な内容の伝達を、さらに不透明に、「不正確に」するものでしかない。「非本質的な内容を不正確に伝えること」でしかないのだ。これは、文学の本質から言って無意味な行為だ。なぜなら、文学作品において「本質的なもの」は「伝達の埒外にある」からだ。文学はそもそも「伝えること」に関心を抱いていないからだ。

つまりベンヤミンは、「文学の翻訳は文学でなければならない」という一般的な考え方、常識を否定している。このことは、「翻訳者の使命」の後の部分で、翻訳者の使命と詩人の使命の区別という形で、さらに明確に述べられてもいる。

歴史を考えてみるだけで、重要な翻訳者はまた詩人であり、重要でない詩人は取るに足らない翻訳者であるといった因習的な偏見は間違いであることがわかるだろう。
(山口訳、前掲pp.98-99)

翻訳者は詩人である必要はない。なぜなら、両者の使命はまったく別であるからだ。

翻訳がある独自の形式であるように、翻訳者の課題もまた、一つの独自の課題としてとらえるべきものであり、詩人の課題と厳密に区別しなければならないものなのである。
(同p.99)

翻訳にとって、文学作品として読まれることは望ましいことではない。読者を念頭に置くことは望ましいことではない。それがベンヤミンの考えだ。むしろ翻訳は、読者、受容者を度外視し、「武骨」で「きわめて読みずらい、不快な」ものでなければならない。そしてむしろ「意味が取れなくなること」をめざさなければならない。ベンヤミンはいう。「翻訳は何かを伝達しようとする意図を、そして意味を、かなりの程度慎まなければならない」(山口訳、前掲p.103)。

最後に、湯浅博雄の考察に欠けている重要な問いを指摘したい。それは、「純粋言語」は何故そう呼ばれるのかという問いである。だからこの問いをいまここで問おう。「純粋言語」は何故そう呼ばれるのか。答えはこうなる。それは、この言語において、言語が「意味」を担うことを止め、つまり「意味するもの」であることを止め、「純粋」に「言語」となるからだ。意味に取りすがる常識的な思考は、この「純粋」の意味を取り逃しているのである。



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