哲学の欺瞞性――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える

國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んで、「退屈の第三形式」をめぐる議論に興味を持った。國分によれば、ハイデッガーは『形而上学の根本諸概念』で「退屈」を次の通り三つの形式に分けている。(※以下、「ハイデッガーは」とあるのは「私の読んだところ國分功一郎によればハイデッガーは」の意。括弧内の頁数は『暇と退屈の倫理学』のもの。また、引用元で傍点が付されている言葉は引用中太字で示した。)

一.何かによって退屈させられること(Gelangweiltwerden von etwas)
二.何かに際して退屈すること(Sichlangweilen bei etwas)
三.なんとなく退屈だ(Es ist einem langweilig)

順番に見ていこう。まずは第一形式の退屈。これはわかりやすい。この退屈は、いわゆる「手持無沙汰」の状態を指していると考えられる。例としてハイデッガーが挙げるのは、田舎の駅で電車が来るのを何時間も待っているという場面だ。特にやることがない。暇を持て余している。そういう状況である。

こういう状況に陥ったとき人は何をするか。並木の数を数えたり、地面に絵を描いたりする。暇つぶしのため、気晴らしのためにそうするのである。

この退屈の、表現上の特徴についても触れておきたい。表現上の特徴とは、ハイデッガーが退屈をドイツ語で言い表すときの文法形式のことである。退屈の第一形式の表現で、際立った特徴は何か。この表現が受動態(動作受動)におかれていること、これがひとつ。そしてもうひとつは、前置詞「von」の使用を介して動作主補語の表示が前提とされていることである。

つまり、この形式の退屈では、退屈の誘因が明確なのである。と同時に、退屈を感じる主体には自分が退屈しているという自覚がある(へんな言い方だが)。彼は、その自覚に基づいて、この退屈からなんとか逃れるようと、「気晴らし」行為をするわけである。

一方に退屈の誘因があり、他方に気晴らしがある。識別可能な問題と、それに応じた対処法。けれど、続く第二形式の退屈では、こうした分析が機能不全を起こす。こちらの退屈では、「何がその人を退屈させているのかが明確ではない」(p.217)のだ。これはどういうことだろう。具体例を挙げるのは難しいと言いつつ、ハイデッガーは、パーティーの場面を挙げる。おいしい食事、楽しい会話、趣味のいい音楽。どこにも退屈させる要素はない。端的に言って愉快だ。帰り際も、今夜は楽しんだ、すばらしい夜だったと考えている。けれど帰宅後、何かの拍子で、ふと気づいてしまう。自分はその夜「本当は退屈していたのだ」(同p.218)ということに。その夜の一切に、退屈させる要素は何ひとつ見当たらないにもかかわらず(念のため言えば、これはパーティーの最中になぜか白けてしまったとか、なんだか飽きてしまったとか、そういうことではない)。

不思議な話である。ハイデッガーは、この不思議な退屈について、まずは気晴らしの側から考える。このパーティーで、自分はどんな気晴らし行為を行っていたか。ところが、これまた不思議なことに、ぜんぜん思い出せないのだ。見当たらない。なぜだろう。

ハイデッガーの答えは、意表を突いたものだ。気晴らしは、このパーティーのどこにもない。なぜなら、このパーティーそれ自体が、その全体おいて、ひとつの気晴らしだからである。気晴らしが見当たらないのは、このパーティーのどこかにそれを探していたからだ。

なるほど。気晴らしはわかった。ならば次に問うべきは、こういう問いである。この全体的で全面化した気晴らしに見合った退屈の誘因とは、いったい何か。

ここでもやはり、退屈の表現の文法形式がヒントになる。「Sichlangweilen bei etwas」。第一形式で、退屈は受動態をとっていた。しかし、第二形式の退屈は、ご覧の通り中動態再帰動詞)をとっている。何かに際して、おのずから退屈するということだ。退屈の誘因は、自己の外側ではなく、内側にある。退屈は退屈主の内側から、こんこんと湧き出しているのである。そのことが、この文法形式を通じて、正確に言い表されている。

こうした自己生成する退屈の原因をハイデッガーは、「周囲に調子を合わせる付和雷同の態度」(p.226)に求めている。ようするに、退屈主が退屈しているのは、パーティーに際して、本来的な自己が失われているからだ。「外界が空虚であるのではなくて、自分が空虚になる」(p.226)。

しかし、退屈主が失っているのは、自己だけではない。彼は時間も失っている。彼は電車を待っていた時のように、時計を何度も見上げることはない。つまり時間を気にしていない。時間はこの付和雷同のパーティーに際して、停止しているようだ。けれど、現実に時間が停止しているわけではないだろう。あるいは時間が消滅したわけではない。時間は着実に過ぎ去っている。そしてそのことによって、時間は「無言で呼びかけてくる」(同p.228)。

彼はパーティーを楽しんだ。その意味では、彼は時間を空費したわけではない。けれど、そうして楽しんでしまったことによって、彼は本来的な時間を浪費してしまった。本来的な自己は、これが本来的な時間の使い方でないことを知っている。だからこそ、彼は充足しない。退屈するのだ。

なるほど。そういうことか。では最後、第三形式。「なんとなく退屈だ」。これはどういうものか。この退屈は、三つの退屈のうちで、いちばん「深い」。どういう意味で「深い」のかと言えば、この退屈には、「もはや気晴らしが不可能」(p.234)なのである。

前二者の退屈同様、文法形式について見ておく。第三形式の表現「Es ist einem langweilig」で、顕著な文法要素は何か。第一に、この言い回しは、非人称主語をとっている。非人称主語は、「雨が降る」だとか「雷が鳴る」だとかいった自然現象の表現において、確たる主語を明示できない場合に、便宜的に用いられるものだ。つまり、第三形式の退屈では、その誘因が茫洋としている。そのことを、この文法形式は告げている。

あるいは、この文法形式は、第三形式の退屈の「到来性」を反映していると言うこともできる。というのも、この深い退屈は、ある種の自然現象と同じように、何の予告もなく、「突発的に現れる」(同p.235)のである。この気分は、特定の事物によって、あるいは特定の状況に際して生じるわけではない。だからハイデッガーは、この退屈の実例を挙げることができない。「日曜日の午後、大都会の大通りを歩いている」(p.235)ときにこの退屈を感じることがあるというのは、人はいつでもどこでもこの退屈に襲われると言っているに等しい。

ちなみに、この非人称構文は、人が退屈している様子を表すものとして、ドイツ語でごくふつうの言い方である。慣用的な言い回しなのだ。ここに、ハイデッガーが、第三形式の退屈について、「私たちは多分それを知っている」(p.234)と言うことの根拠がある。この「退屈」の漠然とした広がりと、その深さを、人(少なくともドイツ語話者)はすでに知っている。

加えてもうひとつ、この第三形式の言い回しで特筆すべき点を挙げれば、それは、「退屈」を感じている主体が、ここに明示されていないことだ。ふつうなら「彼が」だとか「彼女が」だとか、退屈主が示される格の場所に、不特定の人を意味する語「einem」が置かれている。つまり、この深い退屈にとらわれるとき、人は明確な自己同一性を失う。特定の誰かれではなく、漠然とした「人」になる。これはもちろん、自我の崩壊だとか、自己の解体だとか、そういったポストモダン的な話ではなく、すぐ後で見るように、この深い退屈に際して、非本来的なものとして与えられた外的な属性の一切が剥ぎ取られ、人としての人、何者でもないものとしての自己がせり出してくるということである(この「einem」の意味合いは、『存在と時間』において同じ不定代名詞「das Man」に与えられていた意味合いと齟齬を来すように見えるが、これは些細な問題だろう)。

次に、この深い退屈の効果について。「なんとなく退屈だ」の声を聞いた人間はどうなるかということ。彼は、こうなる。「すべてが一律同然にどうでもよく」(p.237)なる。そして、「余すところなき全くの広域」(同p.238)に放り出される。

これはようするに、日常生活あるいは人生の根源的な無意味さに気づくということだろう。そしてこの気づきにおいて、自己にまとわりついていた、ぬくぬくした毛布のような社会性の覆いが消失する。というよりも、そんな覆いなんて、もともとなかったことに気づく。現存在が露出する。そのとき、現存在は、どうするか。「自分に目を向ける」(p.238)のである。そしてそのことにより、「自分がもっている可能性に気がつく」(p.238)。可能性とは何か。それは、「私たちが自由であるという事実そのものである」(p.243)。だから現存在は、人間は、この自由を実現しなければならない。どうやって?「決断することによってだ」(p.243)。

というのが、ハイデッガーの退屈論の大筋である。國分は、このハイデッガーの考え方が彼の「特殊な人間観」(p.308)に基づくこと、そして、退屈の第三形式と第一形式が通底していることを暴き出す。ハイデッガー(やコジェーヴヘーゲル)の考えるような「本来の人間」は、結局のところ退屈の第三形式=第一形式に逃げ込んだ「決断の奴隷」(p.298)にすぎないのではないか。むしろ退屈の第二形式を生きることこそが、「人間らしく生きること」(p.308)なのではないか。

というのが、國分功一郎ハイデッガー批判の骨子である。この批判は鋭い。また、結論部の主張も興味深い。論考全体の感想としては「良質」という言葉が真っ先に浮かぶ。けれど、いまからちょっと考えたいのは、この本のテーマとぜんぜん別のことだ。

ハイデッガーは、退屈の第三形式には「気晴らし」が許されないと語っていた。これはつまり、この退屈には対処法がない、解決法がない、ということである。であるとするならば、退屈の第三形式に際して、ハイデッガーの勧める「決断」とはいったい何だろう。これは退屈の解決法ではあり得ない。なぜなら、第三形式の退屈に解決法は存在しないのだから。

退屈の第一形式の条件であった「仕事」も、第二形式の環境であった「パーティー」も、じつは第三形式「なんとなく退屈だ」の声を聞きたくないから、その声を払いのけるために開発されたものだとハイデッガーは言う。でも、これはちょっとおかしい。なぜならハイデッガーは、私たちはこの第三形式の退屈において気晴らしが無力であることをすでに知っていると指摘していたからだ。

そして実際、この「なんとなく退屈だ」の声は、まるであの「死の恐怖」そっくりに、仕事に没頭していても、パーティーで楽しんでいても、まったくおかまいなしに、突然聞こえてくるのだ。

ようするに、ハイデッガーの差し出す「決断」という答えは、「深い退屈」という問いに呼応していない。問いと答えが断絶している。ずれている。つまりここには、議論のすり替えがあるのだ。

その証拠と言えるかどうか。ハイデッガーは、この「深い退屈」を「根本気分」と称しているけれど、國分も指摘する通り、『存在と時間』で「根本気分」は「死に対する不安」であった。また、多くの哲学者が哲学の始原に置く「驚き(タウマゼイン)」を、この「根本気分」だとしている講義録も存在する。結局ハイデッガーは、彼特有の思考の鋳型に、そのときの都合や、それこそ気分に合わせて、適当な材料を流し込んでいるだけではないか。ハイデッガーの退屈論には、退屈論であることの必然性がないのではないか。

しかし、問題の根は、たぶん、もっと深い所にある。

ハイデッガーのいう「根本気分」は、日常生活にひびを入れ、現存在の条件を明るみに出し、人を思索に誘い込む、ある特別な気分のことである。この特別な気分を彼は、単なる「怖れ」と異なるものとしての「不安」、単なる「驚き」と異なるものとしての「驚嘆」、単なる「退屈」と異なるものとしての「深い退屈」などと、そのつど呼び変えている。

つまり、この「根本気分」は、さまざまな気分に似ている。だから、どんな気分を起点にとっても、分析を始めることができる。けれど実際には、この気分は、その本質において、どんな気分とも違っている。だから分析は、それが深まり、核心部に近づくにつれ、うまくいかなくなる。

繰り返すが、ハイデッガーは、退屈の第三形式には「気晴らし」がない、手の打ちようがないと語っていた。では人は、ひとたびこの深い退屈とらわれると、そこから二度と抜け出すことができなくなってしまうのか。そんなはずはない。國分も言うように、「『なんとなく退屈だ』の声は、ふと聞こえるのであって、その声がたえまなく耳元で大音量で流れている状態など考えられない」(p.351)。ということは、この声は、放っておけば、すぐに(たぶん三分くらいで)自然に消えてしまうのだ。ならば解決法は必要ない。「決断」なんていらない。

断言するが、「退屈の第三形式」は、それが「気晴らし」を持たず、「気晴らし」を許さないのであれば、ほんとうは「退屈」なんかではなかったのだ。そして私たちは、これが「退屈」なんかではないことを、すでに知っているのだ。

このことに関し、見方を変えれば、こういうことが言えるだろう。ハイデッガーが、この根本気分を言い当てようと、「深い退屈」や「不安」や「驚嘆」という言葉を使うとき、彼は常に「言葉の誤用」を犯している。

「言葉の誤用」とは、ウィトゲンシュタインの言葉である。

私は、ハイデッガーが存在と不安について考えていることを、十分考えることが出来る。人間は、言語の限界に対して突進する衝動を有している。例えば、或るものが存在する、という驚きについて考えて見よ。この驚きは、問の形では表現され得ない。そして、答は全く存在しないのである。
ウィトゲンシュタインハイデッガーについて」)

この発言は、形而上学分析哲学論理実証主義)の意外な接点という文脈で頻繁に引用されるものだ。でも、いま注目したいのは、「この驚きは、問の形では表現され得ない。そして、答は全く存在しないのである」という部分である。

ウィトゲンシュタインは、ここで、〈驚き〉から〈問い〉への移行という、哲学(形而上学)の営為それ自体の欺瞞性を批判している。哲学の営為で問題は、それに〈答え〉がないことではない。〈問い〉に嘘があるのだ。なぜなら哲学者は、あるいは私たちは、その〈驚き〉と称するものが、ほんとうはいささかも〈驚き〉ではないことをすでに知っているからだ。

「私は世界の存在に驚く」と言えば、私は言葉を誤って使っているのであります。
ウィトゲンシュタイン倫理学講話」)。

哲学者は、言葉の誤用から出発する。彼はそれが誤用であることを知っている。誤用であると知りながら、彼はそこから問いを発動する。哲学の存立条件と等号で結ばれた、ひとつの根深い欺瞞。ウィトゲンシュタインの言葉は、哲学の始原に座り込む、この構造的な欺瞞と隠蔽を突いている。

ハイデッガー決断主義が、議論のすりかえに見える理由も、ここにあると言えるだろう。彼は、丹念に緻密に議論を組み立てていく。そこには真摯な哲学がある。それはだれも否定できない。けれど彼の真摯な哲学は、それが哲学であることによって、不可避的に、原理的に、欺瞞性にとらわれている。