声を水に流す――朝吹真理子『流跡』の話法について(後編)

(承前)

朝吹真理子の小説『流跡』は、一見、次のような構成をとっている。

「プロローグ」→「本編」→「エピローグ」

つまり、一人の語り手がいて、その語り手が前口上を述べ、物語を語り出し、やがて語り終え、最後再び顔を出す。この場合、作品は2つの層からなっている。最初と最後に顔を出す同一の語り手による一人称の語りの層(「プロローグ」と「エピローグ」)、そして、この語り手によって語られる物語の層(「本編」)である。2つの層は、物語の内部と外部というふうに言い換えることもできる。物語らしい物語では、語り手が物語の中にも頻繁に顔を出してくる。いわゆる近代小説では、語り手は、その存在をほとんど読み手に意識させない。けれど、意識させないだけで、語り手のいること、すなわち内と外、あるいは上と下、この2つのトポスからなる構造が滅失しているわけではない。『ボヴァリー夫人』冒頭の有名な「僕ら(Nous)」の行方不明と、最終章における時制の引き戻し、すなわち単純過去から複合過去への移行に、物語世界の内と外を隔てる「閾」を見る工藤庸子は、『失われた時を求めて』冒頭部の複合過去にも、この「閾」的効果が機能していると指摘している(『恋愛小説のレトリック 『ボヴァリー夫人』を読む』)。2つのトポスは、物語の基本的な存立構造として、どうやらあるようだ。物語に付きものの、こうした二層構造は、記号を使えば次のように表すことができる。

A⊂B

Aは登場人物の世界、Bは語り手の世界を意味する。フィリップ・ソレルスの初期作品『ドラマ』は、AB間の絶え間ない相互嵌入によって、読み手の認識力を飽和に追いこみ、「彼」と書く「私」と、「私」と書く「彼」の中間に、ありえない非人称の帯域を幻覚させようという試みだった。その「ドラマ」の語り手はたぶん書き手だが、『流跡』の語り手はたぶん読み手である。作品は次のような言葉で幕を上げる。

……結局一頁として読みすすめられないまま、もう何日も何日も、同じ本を目が追う。

この文で、「読む」という動作の主体が明示されていない。また、「同じ本を目が追う」の「目」がだれのものであるか、指定されていない。日本語の話法における暗黙の取り決めに従えば、「一頁として読みすすめられない」と独白しているのは「私」であるし、この「目」は「私の目」であるはずだ。けれど、これに続く文、

どうにかすこしずつ行が流れて、頁の最終段落の最終行の最終文字列にたどりつき、これ以上は余白しかないことをみとめるからか、指が頁をめくる。

を読んだとき、その推察は、ちょっとだけ揺らぐ。「これ以上は余白しかないことをみとめるからか」という文節。これがあやしい。ここで「これ以上は余白しかないことをみとめる」のは、だれか。最初の推察によれば、これは、語りの現在に居座る「私」となるだろう。でも、もしそうであるのなら、最後の「か」、不確定性を含意するこの副助詞「か」はおかしい。自分の心情なのだから、自分にははっきりしている。「か」は余分で、「これ以上は余白しかないことをみとめるから」の言い切りでいいはずだ。しかし、そうは書かれていない。つまり、この「か」は、ここで読書している存在が、語り手の「私」とは別のだれかであることを暗示しているかに見える。この仮説に従い、丸括弧を使って主格と属格を明示すれば、

……(彼または彼女は)結局一頁として読みすすめられないまま、もう何日も何日も、同じ本を(彼または彼女の)目が追う。どうにかすこしずつ行が流れて、頁の最終段落の最終行の最終文字列にたどりつき、(彼または彼女が)これ以上は余白しかないことをみとめるからか、(彼または彼女の)指が頁をめくる。

となるが、もちろん別の読み方もできる。つまり、ここで「これ以上は余白しかないことをみとめる」のは、一義的には作中人物でも語り手でもなく、「目」それ自体であるというように。

けれどこの「目」は、当然ながら、「私」の「目」であっていいはずだ。つまり、「私」とう存在が、文章内容の把握という知的活動から隔てられたまま、なかば機械的に頁をめくるという状況を、「目」それ自体による認識というふうに擬人化している。そう読むことが可能だ。この「私」は文字列を視覚的に追跡することはできるが、その文字列から意味を取り出すことはできない。なにが書いているのか、わからないのだ。わからないまま、「目」が文字を追い続ける。「指」も、この「目」と相関して自動的に頁を繰る。

とりあえずそのように判断して、読み手は読み続ける。するとすぐに、2つ目の文とまるっきり同じ文に出くわす。「どうにかすこしずつ行が流れて、頁の最終段落の最終行の最終文字列にたどりつき、これ以上は余白しかないことをみとめるからか、指が頁をめくる」。そしてこの文の直後に、次の文が置かれているのを確認する。

それをくりかえしているらしい。

この文を確認した読み手は、とりあえずは「私」と想定される語り手の世界の外側に、それよりも広い、もうひとつ別の世界が広がっているのを確認したことになる。右の一文は、語り手の「私」のことを観察する別の語り手――語り手の「私」と別の人物であれ、同一の人物であれ――の言葉であるとしか読めないからだ。けれど、この別の語り手は、その後いっさい顔を出さない。字面の奥に沈潜する。句点で終わる言葉の連なりを「文」と見れば、仮に「プロローグ」と呼ぶこのパートは50弱の文から構成されているが、別の語り手の存在をほのめかすのは、この文ただひとつだけである。しかし、たとえひとつであれこの文のあることは、ほかのぜんぶの文が、この上位の語り手の住まう世界に含まれる対象世界に帰属するという事実を告げている。あるいは、ここに、

A⊂B⊂C

の構造が現出したと言い換えてもいい。

さて、この「プロローグ」中、語り手の「私」は、読んでいる本の中に、次の通り「ひとやひとでないもの」の動くさまを認める。

ひとやひとでないものがあれこれとものをおもう、そうした書かれたもののおもいも輪郭がゆれるばかりでなにか事件でもおきているのか、風景があるのかもわからない。

『流跡』の「本編」は、まさにこういうものとして書かれている。つまり、この「本編」は、まさに語り手の「私」が読んでいる本の中身であると読むことができる。

もののけになるか、おにになるか、不定形の渦から目をはやし、足をはやし、はじめはくにゃくにゃしていた身体がしっかりとした顔をつくって歩きはじめる。角ははやさなかった。ひとになった。
なんぴとも通らぬところをうかれ歩いている。まだ風景はたちあらわれてこない。上っているのか下っているのかまったくのひららかなところであるのかすら曖昧なまま足をすすめて、春の門をくぐる。その門を境にして春が立つ。

不定形の」存在がやがて「ひと」になり、歩きだす。あらかじめある空間の中を歩きだすのではない。この空間は、この存在の歩みにともなって、それと同時的にわきだしてくる。「春の門」も同じ。あらかじめ立っていた「春の門」に、存在が出くわしたのではない。春の門は、存在が「くぐる」という動きを見せたとき、その動きにつられて生成する。

ところで、この存在は、得体が知れない。得体が知れないので、呼ぶことができない。つまり語り手は、この存在を、その語りにおいて、主格の位置に置くことができない。けれど、こうした存在の正体の曖昧であることと、それにともなう主格化の不全が、それだけの力によって、『流跡』の語りに特徴的な、不安定な揺れを引き起こしているわけではない。たとえば、

歩いていると、ついてくるものがあった。
まだ遠いので、女なのか、男なのか、わからない。どちらでもいい、かまわず歩きつづけた。

と始まる川上弘美の『真鶴』で、この「ついてくるもの」は正体不明だが、この作品の文章は、全体を通して、日本語文の通常の揺らぎの範囲に収まっている。

あるいは主格の非表示について言えば、『流跡』で、存在がソメイヨシノ咲き乱れる川岸にたどりついた箇所に、「ケータイでソメイヨシノを一心不乱に撮っている。撮っているばかりで花をみていない」という主格を欠いた記述が出てくるが、ここで撮影している者が存在それ自身でないこと、花見客であることは、主格が見えないが、確定的である。このように、単なる主格の欠落は、文脈がそれを充填する。問題は、主格が表示されていないことではない。主格の表示されていないことが主格の不確定に寄与しているかどうかでもない。『流跡』で、主格の表示されていないことが、自由間接話法的な声の起源の揺らぎを超えた揺らぎを作り出しているのはなぜなのか。そういうことである。

春の門をくぐりぬけ、春の世界に立った存在の、その「眼前の風景そのものに漆漆とした穴がぽちりと」開く。穴は「猫の鼻先のように光って」いる。その穴からのぞきこむ。「どうやら向こうは秋らしい」。指で突くと、闇が広がる。あちこち突くと、もっと広がる。春の外皮が剥がれ落ち、闇が覆う。存在は、秋の夜の下に立っている。

『流跡』本編の冒頭から続く、存在の出現、春という場面の生成、秋の場面への転換という流れは、本を読む人が文字を追い、文字に頼ってイメージを広げるという、ありふれた読書体験を、その外側から記述しているようにも見える。こうした記述は、読書体験を異化するものであり、そうした異化の働きによる奇妙な手触りによって、ありふれた読書行為の奇妙さへの気づきを呼び覚ます。でも、こうした経験の意識化は、経験の創造に帰着するわけではないだろう。つまり、読むことについて読むという二重化された読書体験が、『流跡』の文章に特異性を感じさせる要因であると考えることもできない。

存在と場面は、通常の読書においてこれ以上ないほど自然に感じられる転換という出来事のおかしさを、ひたすら意識的に際立たせる形で、つぎつぎと転換していく。存在は、妻子ある勤め人になり、女になり、また女になる。こうしてエピローグが来る。

エピローグは、その言葉の使い方において、明らかにプロローグと対称的な形をしている。いずれも「はみだしてゆく。しかしどこへ――」で終わっている両者は、けれど、前者に「読むことがひとたびも終わらない」とあるのに対し、後者に「書くことがひとたびも終わらない」とある通り、読み手と書き手というステータスの違いを持っている。そして、この読むことと書くことの違いが、たんなるステータスの違いを超えた違いをもたらしている。

……結局一頁として読みすすめられないまま、と消すようにして書かれはじめた何百列が糸水となってながながとつたい、ようやく、いよいよ、最終段落の最終行の最終文字列に近づいてゆく。

右の「……結局一頁として読みすすめられないまま、」という言葉は、本作品の冒頭、プロローグにある言葉とすっかり同じ。ということは、ここにあるのはひとつの総合だ。つまり、このエピローグの空間は、プロローグの空間を俯瞰する空間だ。同一の水準においてシンメトリックな関係を持つかのように見える最初部と最後部で、語りの審級が異なっているのである。

したがって、この作品の成り立ちは、最終的には、

A⊂B⊂C⊂D

となると考えられる。ここでAは本編の世界、Bはプロローグの語り手の世界、Cはプロローグの語り手の外側に立つ語り手の世界、Dはこれら3つの世界のさらに外側に立つエピローグの語り手の世界である。

この確認を踏まえ、もう一度、本編の冒頭に立ち戻ってみよう。

もののけになるか、おにになるか、不定形の渦から目をはやし、足をはやし、はじめはくにゃくにゃしていた身体がしっかりとした顔をつくって歩きはじめる。角ははやさなかった。ひとになった。

この言葉を発しているは、さて、だれか。物語に典型的な「A⊂B」構造であれば、Bの世界の住民であると決めていい。けれど、「A⊂B⊂C⊂D」の四つの世界をはらんだ『流跡』で、語り主の居所は、BでもCでもDでもあり得る。声の帰属先はいずれかひとつに決めることができない。

あるいは、こういうくだりがある。「腑分けをすればどうかしらないが、まだひとはひとのなりをしている」存在が、「さびしい寺の並ぶ辺り」を歩んでいるところ。

電撃殺虫機高電圧キケンと札の貼られた誘蛾灯が立ち並んでそこにちいさな虫がぶつかってはぜる音がする。くろぶちの猫がしっぽをたてて塀を歩いている。ゆうゆうと、ヒゲをぴんとはって。ひとになるのでなかったと思ったがもう遅かった。

「ひとになるのでなかったと思った」の主格は、名づけられぬものとしてのこの存在だとしても、その後の「もう遅かった」という判断は、いったいだれの思惟に属するのか。判断者は、存在それ自体から最高次の語り手まで、四世界のいずれの者でもあり得るだろう。『流跡』の文章の揺らぎは、「A⊂B」構造を土台とした自由間接話法のそれを二乗した値を持っていると言わなければならないだろう。

もちろん、このくだりで読み手はまた、エピローグにDの語り手のいることを知らない。けれど、すでに少なくとも三つの箱のあることは知っているのだから、それだけでもふつう以上の揺さぶりは身に受けている。

でもしかし、こうした入れ子式の重層構造そのものに、作品の揺らぎの秘密があると見ると間違う。

「A⊂B⊂C」構造の「C」の世界を読み手に示す際、作品は、プロローグ部で、たったひとつの文しか差し出さなかった。しかも、その直前部、三つの世界のあることを八割がた明かしているようで、そのじつ二世界解釈で済ませることのできる、まぎらわしい助詞の使い方をしていた。もし仮に、作品が、その構造の重層性と複雑性で、読み手を幻惑することを狙っているのであれば、こんなまぎらわしいやり方は、むしろ逆効果となるだろう。世界の重層していることは、明快かつ明確に示されなければならないのだ。

加えて、この作品が、プロローグで第三の世界を押し開いた直後、その押し開いたことを忘却させるような仕方で、言葉を編成し始めていることにも注意しておきたい。上位の語り手は、一瞬姿を見せるが、二度と姿を見せない。世界は、開いた瞬間に、閉じてしまうのだ。世界は本当に開示されたのか、じつは開示されなかったのか。たしかに開示された気がするけれど、気のせいだと言われればそうだという気もする。『流跡』の読み手は、冒頭からいきなり、こうした、ひどく曖昧な、頼りない空間に放置されてしまう。

いまや明らかだが、『流跡』の揺らぎは、存在の確定した複数の世界を行き来する言葉の放恣、すわなち二層を超えて重層する自由間接話法の奥行きがそれを生み出しているわけではない。自由間接話法を成立させるための必須条件としての、あるいは物語の基本条件としての、複数世界の存在の基盤それ自体を言葉が掘り崩している。ここに揺れの原因があると言えるだろう。トポスの帰属に関する決定不能性ではなく、トポスの存在に関する決定不能性。『流跡』の揺れ方の新しさは、単なる地形学ではなく、地形学存在論(topographic ontology)の次元に属する。この新しさは、読み手を、ある種の不安に陥れる。だからこの作品で読み手の根本気分は、不安である。新しい世界を垣間見た読み手は、常にその幻覚的な再来におびえることになるだろう。

どうやら『流跡』に書かれる日本語は、日本語の内側から、日本語を引き裂いている。しかし、切欠はもともと日本語に開いていたものなのだ。主格の小さな穴として。朝吹真理子の言葉は、この主格の穴を突く。その言葉の爪先が、日本語を縦に引き裂く。この裂け目は、揺れる大地に掘られた溝でもあるだろう。この溝には水が流れているようだ。だれのものとも知れない無名の声が流れていく。