声を水に流す――朝吹真理子『流跡』の話法について(前編)

幸田文の小説『流れる』は、こう始まっている。「このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった」。ふつうの日本人であるならば、この文を読んで、格別のひっかかりを覚えることはないはずだ。けれど、このとてもやさしい短文も、これを英語なりフランス語なりに翻訳しようとすれば、だれでも、ちょっとは考え込むはずだ。たとえば、主語はどうしよう。あるいは、この言葉は、いったいだれが語っているのか。日本人が日本語を日本語の内側で読んでいる限り、まず問われることのない問いが、翻訳の場面で、こうしてのっそり、立ちあがる。

この事実が教えてくれることは、でも、なにか。日本人は、日本語は、言わなくてもわかることは言わない。そういうことだろうか。けれど、言わなくてもわかることを言わないのは、どの国の、どの言葉でも同じではないか。言わなくてもわかることを、くだくだしく言わなければならない。そんな不経済な言語があるだろうか。

翻訳するにあたり、ちょっとは考えるはずの日本人は、だれもみな、『流れる』冒頭の一文を読んで、すっかり理解したという手ごたえを感じるだろうか。むしろこの一文には、どこか不明瞭なところがあるのではないか。

事実、『日本語の作法』の多田道太郎は、「一見やさしそうなこの文章が、じつはかなりむずかしい」と言っている。その上で、幸田文が「省略」したはずの文字列を、次のように復元してくれる。

(私のさがし求める家は)このうちに相違ないが、(私が)どこからはいっていいか、(その家には)勝手口がなかった

「提示部(題目)が省略され、主格も省略されている」そう多田は言う。「『題目』や『主格』は英語などでいう主語ではない。だから、動詞をつよく拘束することもない。省略することも自由である」

そうだ。その通り。

であるのなら、言わなくてもわかることは言わない、この回答に、内容の次元と形式の次元の短絡のあることが悟られる。「言わなくてもわかる」から言わないのではない。「言わなくてもいい」から言わない。いや、そうではなくて、「言わなくてわかることは言わない」より先に、「言わなくてもいい」がある。

それにしても。多田は、『流れる』の書き出しの言葉が「私」を起点とすることを、いったいどのように推察したのか。それは結局、このように文中、語りや動作の主体が明示されていない場合、ふつう動作主が「私」となり、語り手が「私」となることを、日本語が、「かくされた文法」として持っている、そのことによるだろう。

『流れる』の冒頭部、もう少し長く引用してみよう。

このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。
往来が狭いし、たえず人通りがあってそのたびに見とがめられているような急いた気がするし、しようがない、切餅のみかげ石二枚分うちへひっこんでいる玄関へ立った。すぐそこが部屋らしい。云いあいでもないらしいが、ざわざわきんきん、調子を張ったいろんな声が筒抜けてくる。待ってもとめどがなかった。いきなりなかを見ない用心のために身を斜によけておいて、一尺ばかり格子を引いた。と、うちじゅうがぴたっとみごとに鎮まった。どぶのみじんこ、と聯想が来た。もっとも自分もいっしょにみじんこにされてすくんでいると、
「どちら?」と、案外奥の方からあどけなく舌ったるく云いかけられた。目見えの女中だと紹介者の名を云って答え、ちらちら窺うと、ま、きたないのなんの、これが芸者家の玄関か!

梨花」という名前の中年女性が、住み込みの女中として働くため、紹介された芸者置屋の前に立つ。けれど、勝手口が見当たらず、仕方なく表玄関に回る。恐る恐る格子を引いて中を覗き見ると、たたきには脱いだ下駄が散乱し、飼い犬の垂れ流した糞尿が放置されている。これが芸者家の玄関か! と、そういう場面である。小説のナレーションは、このあともずっと、この調子とこの視点を保ったまま、ずんずん進む。けれど、新潮文庫では6頁ほど過ぎたあたり、次の一節を目にして、読み手はたぶん、だれでも、ちょっと驚くはずである。

手のひらの薄い美人は雪丸さんというのだそうな。主人のかさにかかった云いかたにもおとなしい挨拶をして起ちあがった。うろうろしている梨花に、「お折角お勤めなさい。あたしまた寄せていただきますが、そのときに又ね。」
(太字は引用者)

梨花」が出てくるのだ。地の文に。けれど、冒頭からここまでずっと、読み手は、この地の文をぜんぶ、梨花その人が語っているものとして読んできたはずだ。たとえば多田道太郎は、『流れる』の語りを「内的独白」と見ている。「幸田文さんの文章は、一種の内的独白である。ひとりごと、みたいなものだ。だから、直接話法でかかれている」。けれど、地の文における「梨花」のたった一語が、読み手に、その読み方を、根本的に変えるよう迫る。語り手は、梨花とは別にいる。つまり、この小説は、三人称の作品だった。そういうことになる。そしてそういうことになるのなら、『流れる』冒頭の一文は、次のように復元されていても、ちっとも問題がなかったはずである。

梨花のさがし求める家は)このうちに相違ないが、(梨花が)どこからはいっていいか、(その家には)勝手口がなかった

右の復元で、「私」が「梨花」に置き換わっていることを除外して、あとはぜんぶそっくり、多田の復元のままだということに、ちょっとは驚くべきだろう。この事実が意味しているのは、日本語の文章で、主格が明示されないとき、特別な指示力を備えた文脈に置かれた場合を除外して、語り手が語っているのか、登場人物が語っているのか、まるで確定できないという事実である。

そしてこの事実をもとにして、さらに思い切れば、こういうことが言える思う。日本語は、主格を非表示とすること、ただそれだけで、比較的容易に、西欧の近代小説に見られる「自由間接話法」の効果を実現することができる。

おまけに、主格の非表示は、日常言語でも頻繁に起きる、ありふれた事象なのである。そのことを考えあわせると、比較的容易もなにも、この話法と主客の融合が、ほとんど日本語の発話や談話における常態、基礎条件であるとさえ言うことができるのだ。

自由間接話法を駆使した外国の作品、たとえばヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』のような、文章スタイル上、精緻な工夫の凝らされた作品が、日本語への翻訳で、それがうまくなされていればなされているほど、むしろ違和感が失われ、自然な印象になる、どこがすごいのかわからなくなる、そういう可能性のあることは、この事実から推論できる。日本語の小説で、語りにおける主客の融合、あるいは声の起源の喪失は、よく指摘される通り、技法として意識されるほど格別の技法によらずとも、じゅうぶんに実現できるし、実際、実現されている。

たとえば、川端康成の『雪国』の冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は、三人称のナレーションを背景とした自由間接話法の一種と見ることができる。読み手は、ここに、語り手の声とも主人公島村の声とも確定できない声が響いているのを聞き、そして、語り手の声と島村の声の渾然一体となっている様を見る。したがって、この文の主語を「The train」と確定し、かつ時制を「came」と過去形に置いたサイデンステッカーの英訳で、仕方のないものとはいえ、忠実さからの逸脱が生じているのは、主に話法の次元においてである。

もっとも、自由間接話法を使った作品の日本語への翻訳が、だからといって易しくなるというわけではない。ただ、難しさのポイントが変わる。それは、声の融合や混交の効果を確保することそれ自体から、曖昧さの度合い、つまり原文の語り手の濃度の、黒から白までのグラデーションを訳文で丁寧にすくいあげる、そういったポイントへと移行する。

繰り返そう。日本語の文章は、主格を省くことで、だれが語っているか、不明瞭となる。それを明らかにするには、主格を明示するほか、それなりの文脈を設定する必要がある。はなから主格が現れない場合、語りの主はおおむね「私」である。そのように読まれる。けれどこの「かくされた文法」は、「あかされた文法」ではない。小説の冒頭部などでの文脈の欠落もまた、ひとつの文脈にすぎない。語りの帰属先は、別の文脈、たとえば当初語り手と思われていた人物の名前が地の文に現れることによって、容易に覆される。

すなわち日本語で、ナレーションの不安定は、ひとつの安定である。地盤は絶えず揺らいでいるが、やはりそれは唯一無二の地盤である。揺れていること、それだけでは、日本語の読み手は、びくともしない。動じないのだ。だから、朝吹真理子の小説『流跡』を読んで、その文章に強い揺らぎを感じる、そのことが、奇異な経験となるのだ。この作品を読んで、なにか揺れ方がこれまでと違う、この揺れは、いままで感じたことのない種類のものだ、そう感じるのは、なぜなのか。それは、『流跡』の文章に主格が欠落しているからではない。それは、日本語で、ごくあたりまえの現象なのだ。ならば理由はほかにある。それを探らなければならないだろう。


(後編に続き鱒)