吉本価値論への批判

吉本隆明の「像」概念を批判する文章を書いている最中だった。

以前書いた「山崎ナオコーラの論理学(ロジック)」という文章から、「言語にとって美とはなにか」の「価値」論を批判した部分を引用しておきたい。

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さて、いまから、この吉本の価値概念を批判する。『言語美』第Ⅲ章で、大塚金之助の短歌「国境追われしカール・マルクスは妻におくれて死ににけるかな」が、こう分析されている。

「国境追われしカール・マルクスは」


「国境追われし」までは、作者の表出意識は、マルクスになりすまして国境を追われている。そして「カール・マルクスは」で、作者と、それをある歴史的事件としてうたっている対象の表現は分離する。


「妻におくれて」


ここでマルクスに観念のうえで表出を托した作者は、じぶんにかえって、マルクスは妻が死んだあとも生きのびて亡命者としての生涯をとじたな、と思っていると解してもよい。


「死ににけるかな」


のところへきて、作者は表出の原位置にかえり、マルクスの死の意味に感情をこめている。

加藤[典洋]は、『テクストから遠く離れて』で、大江健三郎『取り替え子(チェンジリング)』に対する渡部直己のテクスト論的読解(作中「三」という数字を追うもの)に触れ、「『だからどうしたのだ?』とでもいうような苛立ちが起こる」といっている。右の吉本の逐語的な分析を追う者は、苛立ちは別にしても、似たような感慨を抱かずにはいられないのではないか。このベタ塗りの分析作業を通じて吉本が確認していることは、こういうことだ。「ちょっとかんがえるとある歴史上の事実を客観風にのべただけのような一首が」、つまり意味として見れば単純きわまりないこの歌が、「高速度写真的に分解して、表出としてみるとき(中略)、かなり複雑な主客の転換をやってのけていることがわかる」

ようするに吉本は、「なにが書かれているか」を見れば単純だが、「どのように書かれているか」を追えば複雑だといっている。そしてこの「転換の複雑さ」が、「作品に言語表現としての価値をあたえている」というのだ。

複雑なものは単純なものより価値が高い。さわやかなくらい明快だといえる。たぶんこの明快さが、吉本に、ひとつの作品を一人が百回読めば百人の評価も一致するのだと、いろいろな場所で、くりかえし語らせている。けれど、この明快さの代償は、小さくない。

A わたしの表皮は旱魃の土地よりも堅くこわばり、(「貝のなか」原文)

B わたしの表皮は堅くこわばり

『言語美』の「言語の価値」について説明したところから引き写した。Aは倉橋由美子「貝のなか」の文章の一部だ。吉本は、このAが、それから「旱魃の土地よりも」という表現を取り去ったBよりも価値が高いと考えている。いま注目したいのは、そのことを告げるときの吉本のいい回しの細部である。吉本は、こういっている。「AはBよりも言語の価値があるとすべき」(強調引用者)

吉本が「価値があるとすべき」といい、「価値がある」といい切らないということに、両者の言葉じりの違い以上にはっきりと示されているのは、価値の決定が感銘とすっぱり切れているという事実である。もし吉本がAの表現に、たしかな感銘の手ごたえを感じているとすれば、このような言葉は出てこないはずなのだ。この「すべき」は、価値の比較において、探究の出発点にあったはずの感銘が見失われている、なによりの証拠なのである。すなわち吉本の「価値」は、読み手の感銘と無関係に、なかば自動的に決定されるものとしてある。これを「価値」が感銘という後ろ盾を失っているといっても同じだ。「言語の価値」はただちに「文学の価値」だといえない、「構成」という要素を加味した上での積分が必要だというのなら、ここで失われているのは、文学的感銘の予兆、あるいは微分された文学的感銘であるといってもいい。百人の評価が一致する場所で、文学の感銘は消えざるをえない。