地震のあと、なんとなく、というのまで含め、それとの繋がりを感じさせる小説が、続々文芸誌に掲載されている。まるで「震災」「原発」というお題が出ているかのような盛況ぶりだ。以下の作品を読んだ。
- 高橋源一郎「日本文学盛衰史 戦後文学篇(17)」(群像2011年5月号)
- 川上弘美「神様2011」(群像2011年6月号)
- 高橋源一郎「お伽草子」(新潮2011年6月号)
- 高橋源一郎「日本文学盛衰史 戦後文学篇(18)」(群像2011年6月号)
- 古川日出男「馬たちよ、それでも光は無垢で」(新潮2011年7月号)
- 高橋源一郎「日本文学盛衰史 戦後文学篇(19)」(群像2011年7月号)
- 高橋源一郎「アトム」(新潮2011年8月号)
- 古井由吉「子供の行方」(群像2011年8月号)
- 黒川創「うらん亭」(新潮2011年10月号)
- 高橋源一郎「恋する原発」(群像2011年11月号)
- 黒川創「波」(新潮2011年11月号)
- 白岩玄「終わらない夜に夢を見る」(文藝2011年冬季号)
- 高橋源一郎「ダウンタウンへ繰り出そう」(新潮2011年12月号)
- 黒川創「泣く男」(新潮2011年12月号)
- 山下澄人「水の音しかしない」(文學界2001年12月号)
- 津島佑子「ヒグマの静かな海」(新潮2011年12月号)
- 木村友祐「イサの氾濫」(すばる2011年12月号)
- 岡田利規「問題の解決」(群像2011年12月号)
- 池澤夏樹「大聖堂」(群像2011年12月号)
- 青来有一「人間のしわざ」(すばる2012年1月号)
- モブ・ノリオ「太陽光発言書」(すばる2012年1月号)
- 長嶋有「光」(文學界2012年1月号)
- 伊藤たかみ「ある日の、ふらいじん」(文學界2012年1月号)
- 黒川創「チェーホフの学校」(新潮2012年1月号)
- 佐藤友哉「今まで通り」(新潮2012年2月号)
- 黒川創「神風」(新潮2012年2月号)
- 村田喜代子「原子海岸」(文學界2012年2月号)
「まずいラーメンなんてない」とか、「まずいカレーなんてない」とか、よく言われるけれど、まずい小説なんてのも、その類ではないだろうか。めったにお目にかからない。だから珍しいと言えるのだが、上に挙げた27篇中、これは珍しいなあ、と思った作品は、川上弘美「神様2011」だけだった。
この作品については、あるインタビューで、高橋源一郎が「本当にたまげた」と語っている(「『恋する原発』――処女作への回帰と小説家の本能」、群像2012年1月号)。「川上さんの『神様2011』は、一義的には芸術としての価値を無視して書かれていますが、回り回ってすごくいいものになっている」。「もしかすると芸術表現は、いわゆる芸術的価値でない部分にも延びているとでも言うしかない。強度の問題です。つまり、一見すごく荒っぽくて、ラフで、直接的だけれども、読めば読むほど強度を感じる」。
このインタビューは、高橋源一郎の最新刊『恋する原発』をめぐってのものだ。聞き手は佐々木敦だが、すごく面白いので必読だと思う。『恋する原発』の評*1は、いくつか読んだけれど、このインタビューの面白さは群を抜いている。もちろん、書評や時評とインタビューを単純に比べることはできないけれど。
さて「神様2011」であるが、高橋源一郎が「本当にたまげた」というこの作品は、いったいどんな作品なのか。まずそれを見よう。いい方法がある。それは、この小説を、そのもとになった作品(があるのである)と並べてみることだ。この方法で、この作品の特質は、一挙にあらわになる。出だしを引こう。まずは原作(?)の「神様」、次に問題の「神様2011」。
くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持って行くのは初めてである。(「神様」)
くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌をだし、弁当まで持って行くのは、「あのこと」以来、初めてである。(「神様2011」、強調引用者)
強調した部分が加筆されている。あとはまったく一緒。つまり「神様2011」は、すでに存在する作品「神様」のところどころを書き直し、その舞台背景を震災後の世界に置換した、ただそれだけのものである。
この「神様2011」を読んで、読者の感じるであろう不満の筆頭は、マルセル・デュシャンの「泉」に対して誰もがまず抱くであろう不満のそれと、たぶん同じだ。デュシャンの「泉」は、どこにでもあるような男性用便器に署名と年号を入れただけの「作品」だが、川上の「神様2011」も、その処女作である「神様」という既成品(レディ・メイド)のごく一部に手を入れただけの「作品」で、「泉」と同様、普通の意味での創造性という観点から見た「芸術的価値」は、そのかなりの部分が放棄されている。
高橋源一郎は、この「手抜き」とも見えかねない作品に、「強度を感じる」と言っている。これは気になる。この、高橋の言う「強度」とは、何だろう。
緊急時に書かれる小説があるのです。それは通常の小説とは形が違います。表現の機能を大きく分けると、自分の芸術的基準に合わせて作品を構築するものと、危機に瀕して何か言わなければならないことで書く二つがあります。(中略)危機に瀕している場合には構築する時間がないので、そこに落ちているものを、これ、何か使えそうと拾い上げる。
「そこに落ちているものを、これ、何か使えそうと拾い上げる」やり方を、高橋は「ブリコラージュ」と呼んでいる。こうした「ブリコラージュ」は、平常時ではなく、「危機に瀕して何か言わなければならない」ときに採用される。そして、川上弘美は、「自分の芸術的基準」を顧みず、ありあわせのものを使って、とにかく声を上げた。「ブリコラージュ」だ。ということは、緊急時の書法を採用しているということだ。「強度」を感受するためには、まず、そのことを認識する必要がある。この作品は、作品として、「一義的に」受け取ってはダメなのだ。すなわちこの作品は、《書いてあること》の次元で読んではならない。《書くこと》の次元で読まなければならない。あるいは、こうも言える。川上作品の「強度」、それは、コンスタティブな次元の「強度」ではなく、パフォーマティブな次元での「強度」である。
「神様2011」には、コンスタティブな良さはない。けれど、むしろそのことが、パフォーマティブな良さを生み出している。「回り回ってすごくいいものになっている」とは、そういうことではないか。
けれどこれは、「強度」の存在条件の説明ではあるかもしれないが、「強度」それ自体の性質を説明するものではない。
新潮2011年11月号に、高橋源一郎の書いた第19回萩原朔太郎賞の選評が掲載されている(「2011年の詩」)。和合亮一『詩ノ黙礼』について評した部分に、次のようにある。
芸術としての完成度を放棄した川上弘美の『神様2011』でもっとも胸をうつのは、「結局のところ、死者は戻ってこないし、生者は死者を代弁できない」という、書かれざる哀しみだ。小説は、極度に「直接的」なのに、この哀しみは、そのことばの背骨にあって、隠れている。
たぶん高橋の考えるこれが「強度」の正体だ。「強度」は、コンスタティブな次元ともパフォーマティブな次元とも違った次元にある。川上作品の「強度」は、「書かれざる哀しみ」、「ことばの背骨にあって、隠れている」この「哀しみ」に由来する。川上は、この「哀しみ」を、文字としては、書かない。けれど、文字として書かないことによって、書いている。「作品は、そこに書かれないことをも、書かれないことを通じ、テクスト化する力をもつ」(加藤典洋『テクストから遠く離れて』)というわけだ。
書き手としての川上弘美と、読み手としての高橋源一郎の間には、ある意味、理想的な伝達の関係が築かれている。この関係は、たとえば暗示だとか、黙説法だとかいうものによる意味伝達の構えとは、ちょっと違うあり方をしている。
どこが違うか。
西欧的な修辞で、その修辞の意味するものは、語られないだけで、じつは明らかだ。言外の言葉は、それが言内に置かれたとしても、同じ姿かたちをとる。言葉で表すことができるということだ。けれど、川上・高橋間で受け渡しされる「哀しみ」は、「結局のところ、死者は戻ってこないし、生者は死者を代弁できない」という文字列で過不足なく表される以上のものの象徴になっている。この「哀しみ」は、漢字や片仮名や平仮名を使っては、どうしても表記できない。さもなくば、「強度」は生じないだろう。そういうふうに言語化できないものの裏打ちがなければ、書かないことは、ありふれた薄っぺらな修辞のひとつになり下がるだろう。
二人の小説家の間でやりとりされるこの「哀しみ」には、もうひとつ際立った特徴がある。それは、ポジティブなものの欠落だ。このやりとりの成立は、だから、客観的には証明できない。この事実は、あらゆる言語伝達についてあてはまる事実にすぎないと考える人がいるかもしれない。けれど、通常の言語伝達には、少なくとも、聞こえるものとしての言葉、見えるものとしての文字が――ソシュールの語る「形相(フォルム)」でしかないとはいえ――ある。しかし、「哀しみ」のコミュニケーションにおいては、こうした実体が、まるでないのだ。
だから、伝達が偽装されているように見える。無垢の意味ではなく、がらんどうの意味がやりとりされているように見える。いやもっと正確に言えば、二人の小説家は、じつは言葉をやりとりしていない。言葉をやりとりしている「ふり」をしているだけだ。そういうふうに見える。ここにあるのは、フェイクとしてのコミュニケーションだ。
すばる2012年1月号掲載の「change of role」というエッセイで、小説家の星野智幸が、「たまにいち早く震災・原発事故を扱っている作品が現れても、それは本質的に震災・原発事故を扱っているというより、視界に入ったものが映ってしまったというような感じだ」と書いている。上のリストで言えば、白岩玄「終わらない夜に夢を見る」で、この「感じ」を強く受けた。作中何度か「地震」「余震」といった言葉が出てくるけれど、それらには物語の背景要素のひとつという以上の特別な役割が与えられていない。だから、3・11との繋がりは、ないことはない、と言える程度にはあるのだが、ないといえばない、と言ってもかまわないくらい微弱だ。あるいは作者にとっても、これが3・11と絡めて論じられたりするようなことがあればかえって迷惑、心外なことかもしれない。いずれにせよ、この作品は「本質的に震災・原発事故を扱っている」ものではないと言える。
では、高橋源一郎の「恋する原発」は、どうだろう。これは、本質的な「震災文学」になっているか。
この点に関しては、すでに触れた高橋へのインタビューで、佐々木敦が、鋭い発言をしている。
3・11のような出来事が起きてしまうと、どうしても語り方があの出来事そのものにフォーカスした、あるいは3・11「以後」という問題に極端にフォーカスしたものになっていく。ところが、この小説は、『恋する原発』というタイトルであるにもかかわらず、3・11の問題だけを語っているわけじゃない。むしろもっと過去へと遡っていって、かつて日本が、日本人が経験した、歴史の陥没点のような幾度かの悲惨を、自ずと招き寄せていくような部分がある。だから、いかにも小説家がアクチュアルな問題に反応して矢継ぎ早に書いたもののように見えるけれども、実際には、これは単なる「以後の小説」とは違う。(「『恋する原発』――処女作への回帰と小説家の本能」)
「恋する原発」は、「恋する原発」というタイトルの「震災支援チャリティAV」の「メイキング」という体裁(?)の小説だが、登場人物はいずれも「日本人が経験した、歴史の陥没点のような幾度かの悲惨」(たとえば原爆、敗戦)と関わり持ち、「ずっと揺れてたんだから、何十年も」(『恋する原発』p.95)という認識を抱いている。
もうひとつ重要な点は、この作品が、十年前に高橋が「群像」で連載を開始し、未完成に終わった「メイキングオブ同時多発エロ」(9・11チャリティAVを作る話、らしい。読んでないので知らない)をベースとしているという事実だ。つまり、「恋する原発」の原点は、3・11に丸十年先行しているということだ。3・11は、この作品の成立のための契機のひとつではあるかもしれないけれど、起点ではない。では、起点は、どこにあるか。2001年9月11日だろうか。いや、それはさらに遡ることができるのだ。
それは、奇妙なものでなければならなかった。考えうる限りバカバカしいものでなければならなかった。最低のもの、唾棄されるようなもの、いい加減なものでなければならなかった。この世の人すべてから、顰蹙をかうような作品でなければならなかった。グロテスクでナンセンスで子供じみていなければならなかった。お上品な文学者全員から嘲られるような作品でなけれならなかった。(高橋源一郎「著者から読者へ」『ジョン・レノン対火星人』講談社文芸文庫)
「それ」とは高橋の処女作「ジョン・レノン対火星人」の原型作品「すばらしい日本の戦争」を指している。つまり、「恋する原発」の全身から放たれる「ヒリヒリした感覚」は、高橋源一郎の小説家としての出発点にあった感覚なのだ。だから、この感覚は、2011年3月11日という日付を超えている。そしてそのことが、この作品に、ある種の広がりと奥行き――普遍的価値のようなもの――を与えている。
高橋は、「恋する原発」が「ガチ震災文学」(「3・11以降の『リアル』」文藝2012年春季号)であると言っているけれど、どうやらこの「震災」は、3・11だけを指示しているわけではない。したがってこの作品は、「本質的に震災・原発事故を扱っている」ものではない。「恋する原発」は、上に並べた27篇の作品の中で一番「震災文学」らしい顔をしているけれど、そのじつ、これほど「震災文学」から遠いものもないのだ。
現実の出来事と虚構である作品との繋がり、関係には、どのような形があり得るだろう。たとえば次のような言い方がある。
「3・11に関連した小説」
「3・11に応接した小説」
「3・11に反応した小説」
「3・11にあやかった小説」
「3・11を反映した小説」
「3・11を取り込んだ小説」
「3・11を取り扱った小説」
「3・11を題材とした小説」
「3・11をモチーフとした小説」
「3・11を受けて書かれた小説」
「3・11の影響を受けて書かれた小説」
「3・11の影のある小説」
列挙してみて、気づいたのは、こういうことだ。「関係」を作り出す二者は、こうした「関係」と呼ばれる関係を築くため、どうしても、それぞれが、インテンシブな実体として、強固な独立性を持っていなければならない。これが「関係」成立の前提である。こういう強い自立性を持った二者の間に築かれる「関係」を、いま仮に「外的関係」と呼ぶとすれば、現実と虚構作品との間の外的関係は、理屈で言えば、リアクションであることに比例した自由を持つ虚構作品の側に、バランスを逸するほどの強い自立性を与えることができる。そしてこの自立性の強化による強度は、「恋する原発」について見たように、自己のカウンターパートたる「現実」を、全然なくてかまわないもの、不要なものとするくらい、高まる場合がある。で、この場合、作品は、外側の現実を切り離し、うっちゃって、強い作品としての「強度」や、普遍性や、寓意性や、象徴性を獲得することになる。起点としての現実なんて、もういらない。そういう感じが漂う。こういう感じを発散する作品は、読まれる上で、現実との関係付けを、むしろ嫌うだろう。ひも付きでない読み方を要求するだろう。つまり外的関係とは、現実と虚構との、非本質的な関係なのである。
ということは、「本質的に震災・原発事故を扱っている」作品は、現実との間に、外的関係とは逆の関係、すなわち「内的関係」を持つものがそれでなければならないということだ。では、内的関係とは、どういうものを言うか。それは、一般的に言えば、関係を構築する二者の一方が他方をその内側に繰りこんでいる場合に出現する関係のことであるが、これを作品論の範囲に限定すれば、その関係を持つことによってようやく作品としての存在を主張できるような作品が現実との間に取り結ぶ関係である。
つまり、内的関係の作品は、現実に対して、作品としての自立性を主張できない。逆に言うと、内的関係の作品は、作品として存在するため、現実という支えを不可欠とする。こういう、現実なしでは生きられない、死んでしまう、虚弱体質の小説こそ、現実との間に、本質的な関係を持つ小説なのである。このような小説として、いまここで念頭に置いているのは、もちろん川上弘美の「神様2011」である。
この作品だけが、「本質的に震災・原発事故を扱っている」。なぜそう言えるのか。理由の第一は、この作品だけが、「まずい」ことにある。読んで、尋常でなく、つまらない。この常軌を逸したつまらなさが、この作品を、単独で読むことを妨げる。だから、この作品は、その先行作品と併せて読まれなければならない。つまり「神様2011」は、「神様」との比較と偏差において読まれなければならない。しかし、それだけでは足りない。なぜだろう。
そのことを考えるには、2011年に東日本に大きな地震が起きなかった仮想世界を想定してみればいい。この仮想世界に「神様2011」を置いたとき、なぜ、この作品と「神様」との間に微細な差異が設けられているのか、なぜ、そのような微細な差異を持つ作品が書かれなければならなかったのか、その理由が、さっぱり分からなくなる。つまり、この作品、「神様2011」は、3・11という出来事が現実にあったのでなければ、その意味と意義をすっかり失ってしまうのだ。こうした意味の完全な喪失は、これ以外の作品――「強度」を持った作品――では、起こり得ない。固有の自立した面白さを有する作品は、3・11という出来事の起きなかった世界でも、その価値の大半を、そのまま保持することができる。たとえば、池澤夏樹の「大聖堂」という掌編では、「あの災害」を生き延びた3人の子供が、それが起きなかった世界を回復するため、ある計画を実行する。タルコフスキーの『サクリファイス』を思わせないでもない、なんだか洒落た感じのこの作品において、「あの災害」は――2011年12月17日付け図書新聞の時評で内藤千珠子が指摘する通り――「別の出来事に置き換え可能」である。「あの災害」を3・11と重ね合わせることで作品の深みが増すことはあるにせよ、その重ね合わせは、任意なのである。だから、この作品は、3・11が起きなかった世界でも、ほとんどその面白さを失うことはない。一方、川上弘美「神様2011」の「あのこと」は、現実の3・11でなければ、もう全然ダメなのだ。
「神様2011」で、3・11という現実は、作品を支える一番太い柱になっている。この現実という柱を失えば、「神様2011」という作品は、とても持たない。崩壊してしまうだろう。これを別の観点から言えば、川上だけが、3・11という出来事を徹底的に利用しているということだ。けれど、そのことによって川上は、3・11という出来事を、まさに取り替え不可能なものとして扱っている。この現実を、外側から表象するのではなく、かけがえのないものとして、そのまま作品の内側に引きずり込んでいる。人類は、未来永劫、この小説を読み返すたび、2011年3月11日に「あのこと」が現実に起きたという、そのことを想起することになるだろう。川上弘美「神様2011」は、文字通りモニュメンタルな作品なのである。
高橋源一郎の「恋する原発」は、3・11を指示しない。川上弘美の「神様2011」は、3・11を表象しない。極端に強い前者の作品と極端に弱い後者の作品を両極とした中間領域に、3・11の表象や指示を志向した多くの小説が散らばっている。「震災文学」の期待の地平を描くとすれば、こんなふうだ。
*1:沼野充義の文芸時評(東京新聞2011年10月27日付け夕刊)、斎藤環の書評(朝日新聞2012年1月22日付け朝刊)、安藤礼二の書評(すばる2012年2月号)を読んだ。ところで、これら3つの評は、いずれも、『恋する原発』の終りの方で唐突に出てくる「震災文学論」に触れ、そこで展開される「未来の死者」論に言及しているが、これに関して、ちょっと気になったことがある。この「未来の死者」という言葉は、カワカミヒロミ「神様(2011)」(川上弘美「神様2011」ではなくて)という架空の作品に現れる「幽霊のような子供たち」について言われたものだ。けれど、3人の評者は、これを現実の作品「神様2011」に対する読解、ないし、素の高橋源一郎による読解と読んでいるようなのだ。もちろん「未来の死者」論は、実在する「神様2011」(と「神様」)の読解としても「回り回って」妥当性を持つと思う。またこれを作者高橋本人の直接的な意見表明として読むのも当然アリだ。でも、それを言うには、もうひとつ手続きがいるのではないか。(ついでに余計なことを書けば、この「震災文学論」は、評論の文章として出来が良くない。ていうか、これ、評論的な文章のパロディだろう。柄谷っぽい。だからここに作者本人の主張が虚実皮膜的に練り込まれていると見るのはいいけれど、これをたとえば斎藤環みたいに「シリアスな」ものとして読むのは高橋源一郎に気の毒すぎる。