『表徴の帝国』の誤訳――ロラン・バルト雑感その2

バルトの著作の翻訳については、とりわけ日本に紹介され始めた頃の翻訳のひどさがよく指摘される。前出のユリイカ2003年12月増刊号では、やはり松浦寿輝宗左近訳『表徴の帝国』その他いくつかの書名を挙げ、「ああいう欠陥商品を平然と刊行して本屋に並べているのは出版社の恥だ」と容赦ない。でも、こうまで言われると、逆に読んでみたくなる。いったいどれだけひどいのか。

同じ誌面で、丹生谷貴志宗左近訳の一部を取り上げ、原文と対照させた上で批判している。ちょうどいいので見てみよう。批判されているのは、「かなた」という見出しを持った、『表徴の帝国』冒頭の断章に含まれる箇所である。該当部分の原文は下の通り。

Je ne regarde pas amoureusement vers une essence orientale, l’Orient m’est indifférent, il me fournit simplement une réserve de traits dont la mise en batterie, le jeu inventé, me permettent de « flatter » l’idée d’un système symbolique inouï, entièrement dépris du nôtre.

このあたり、宗左近訳『表徴の帝国』では、こう訳されている。

わたしは東洋の本質などに、憧れのまなざしを注がない。わたしには東洋など、どうでもいい。ただ、こちらが対処のしかたを考えて狙いをつけるならば、東洋は西洋と完全に断絶した、思いもよらぬ象徴世界の存在をかいま見せてくれる特徴線(トレ)の貯蔵庫となりうる。

丹生谷はまず、上の2つ目の文「わたしには東洋など、どうでもいい。」を問題視する。「翻訳‐解釈が不正確であるように見える」というのだ。もっとも、この訳文は「辞書的な誤訳とは言えない」。けれど、「この単純な一節にはこれもまた辞書的に可能な他の訳の可能性もある」。では、どういう訳がありえるのか。こういう訳がありえるだろう。丹生谷は言う。「オリエント(東洋)は私に対して冷淡(無関心)である」。

え?

というのが、この指摘を読んでの私の率直な感想。でもまあ、先に行こう。丹生谷は、もうひとつ批判している。宗左近の訳文には、「ただ、こちらが対処のしかたを考えて狙いをつけるならば」という語句が見られるけれど、これに対応するような言葉は、原文にはまったく存在しない。「まさか、原文には〈 〉つきの強調語としてあって、邦訳文にはまったく訳されない『< flatter >』という語がこのような訳に置き換えられたとも思われない」

ようするに、丹生谷はこう考えている。まず宗は、本来ならば「オリエント(東洋)は私に対して冷淡(無関心)である」と解釈しなければならなかったところ、主語を反転させて「私はオリエント(東洋)に対して冷淡(無関心)である」と解釈してしまった。そしてこの解釈の誤りのせいで、「それに続くバルトの文章との整合がつかなくなり、訳者は折り合いをつけるために、原文にはない」言葉をでっちあげるはめになった。つまり、第1の誤訳(主語の反転)が、第2の誤訳(原文に存在しない表現の恣意的な追加)を招いたというわけだ。

誤訳の連鎖と重篤化。よくある話だけれど……。

ところで、丹生谷自身は、この部分、どう読んでいるのか。こう読んでいる。

「私は一瞬の恋に惹きつけられてといった訳でもなく彼女を(彼を)見る、彼女(彼)はといえば、私のさして熱意のない視線に対して無関心のままである。だから私の視線が彼女(彼)に見出すのはその身振りのちょっとした厚みのない線分・輪郭線の集積だけであるけれど、私はその身振りの重層した絡み合いや思いがけない動きに、思いもよらない象徴的なシステムがあるのではないかという思いに〈妄想を膨らませる(フラッテー)〉ことになる。何かわたしにはまったく思いも寄らないシステムがあるかのように」

おもしろい。じつに。言い忘れたが、丹生谷のこの文章の標題は「無関心の恋」である。

以下、野暮は承知で、バルトの原文に対して、語学的・文法的な説明を加えてみたい。

第2の誤訳から検討する。宗の訳文は、たしかに間違っている。決定的に。けれど私は、丹生谷とは違い、この箇所、原文に書かれていない内容が恣意的に付け加えられたものとは見ない。宗の訳文にある「ただ、こちらが対処のしかたを考えて狙いをつけるならば」という日本語は、その解釈が決定的に間違っているとはいえ、それに対応する表現は、ちゃんと原文中に含まれている。そう思う。具体的には、関係代名詞「dont」に続く「la mise en batterie, le jeu inventé,」の部分がそれである。この原文が、宗の解釈で、「ただ、こちらが対処のしかたを考えて狙いをつけるならば」という日本語に変換されてしまった。今から、その誤訳のメカニズムを想像してみよう。

まずは、「mise en batterie」の解釈。これは、「あるものをbatterieの状態に置く」という意味であるが、宗はどうやら、この「batterie」を「砲列」という意味に取っている。実際「mise en batterie」は、慣用表現で「砲列を並べる」という意味を持つ。恐らく「狙いをつける」という日本語は、この語義を起点に隠喩的な思考を展開することによって、あるいはこの表現それ自体をひとつの隠喩とみなすことによって導かれたのではないか。

次に、「le jeu inventé」だが、原文のこの3語が、訳文の「こちらが対処のしかたを考えて」という言葉に対応していると思われる。つまり宗は、「jeu」という語の持つ様々な語義の中から「行動の仕方、事の運び方」ないし「手のうち」(いずれの日本語も新スタンダード仏和辞典の「jeu」の項にある)という意味を選び出し、これを文脈に合わせる形で「対処のしかた」と解釈したのだ(「inventer」は「発明する、でっちあげる」という意味だから、「考える」いう日本語で、さしあたり問題ない)。

さらに宗は、以上の語義レベルの誤りに加えて、統語論的にも誤った解釈をおかしている。宗の原文解釈において、関係代名詞節のシンタックス構造は、次のように理解されていると想像される。

la mise en batterie (, le jeu inventé,) me permettent de ...

つまり宗は、述語「permettre」に対応する主語を「la mise en batterie」であると考え、上で括弧にくくった「le jeu inventé」を、主語と述語の間にはさまった挿入句であると考えた。そして、この挿入句を、「条件」ないし「仮定」を表す「絶対分詞」(主節の主語とは別の主語を持つ分詞)として解釈した。「le jeu inventé」を「le jeu étant inventé」と読んだということである(絶対分詞の「étant」はよく省略される)。

恐らく以上のメカニズムによって、「ただ、こちらが対処のしかたを考えて狙いをつけるならば」という訳文が導かれたと考えていいだろう。もちろん、これは誤訳である。

まず注目しなければならないのは、動詞「permettre」の活用形である。この動詞は、なぜ「permettent」という形、すなわち三人称複数形の主語に対応する形をとっているのか。仮に主語が、宗の解釈の通り、「la mise en batterie」であるとすれば、三人称単数形の主語に一致する「permet」(ないし「permette」)という形でなければならないはずである。逆に言えば、動詞が「permettent」であるからには、主語は「la mise en batterie」ではなく、「la mise en batterie, le jeu inventé,」であると考えざるを得ない。

しかし、この読み方にも問題がある。というのも、「le jeu inventé」の後に「,」がある。このコンマは何か。これは普通に考えれば、「le jeu inventé」の3語が挿入句であることのマークだろう。つまり、「le jeu inventé」は、それが分詞構文でなければ、直前部「la mise en batterie」の同格的な言い換え、ないし補足的な説明である。となると、やはり、主語は「la mise en batterie」であると考えていい。

もし「le jeu inventé」が「la mise en batterie」の同格的な説明であるとすれば、両者の間には、何らかのつながり――アプリオリなつながり、アポステリオリなつながり、内包的なつながり、外延的なつながり――が見出されなければならないだろう。ここで読み手は、両者の間に、その種のつながりを見出すことができるだろうか。できる。「la mise en batterie」の「batterie」、「le jeu inventé」の「jeu」には、いずれも「ひと組」「セット」という意味があるからだ。そしてこうした意味の重なりに立脚すれば、「la mise en batterie」が「ひとまとめにする」「組み合わせる」という意味になること、および、「le jeu inventé」が、こうして「ひとまとめにする」という行為、ないしその行為の結果としての「ひとまとめにされたもの」が「でっちあげられたもの」であることを意味していることが見えてくる。

しかし、述部の「permettent」の問題がまだ残っている。この動詞は、なぜ三人称複数形なのかという問題である。

この問題を解決するには、「la mise en batterie」を、関係代名詞「dont」節の外に出してみればいい。そうすると、次のような文節が得られる。

la mise en batterie de traits ... me permettent ...

主部に相当する「la mise en batterie de traits」は、複数の「trait」を「ひとまとめにする」「組み合わせる」という意味になる。ここで、述部の動詞が三人称複数形の主語に対応する形をとっているのは、バルトの脳内における言語化の局面で、「batterie」を構成する個別の「traits」の具体的なイメージの強さが、「la mise en batterie」という動作のそれに勝っていたからだと考えられる。

こういう現象は、よくあるとは言わないが、それほど珍しいことでもない。例えば「大多数の」という意味を表わす「une foule de」という句は、これを主語に立てた場合、対応する動詞は、語り手が言語外現実のイメージのどの部分に着目するかによって、単数形にも複数形にもなる。「Une foule de questions(たくさんの質問)」という主語は、「たくさんの質問」が「ひとかたまり(foule)」なっているというイメージに留意した場合、対応する動詞は単数形となるが、その「ひとかたまり」を構成する個別の「質問」の多数性に着目した場合、複数形になる。つまり、「Une foule de questions se présentèrent à son esprit.」でも「Une foule de questions se présenta à son esprit.」でも、どちらでもいいということだ(いずれも「たくさんの質問が彼の頭の中に浮かんだ」という意味。例文は新スタンダード仏和辞典より)。

以上まとめると、「... traits dont la mise en batterie, le jeu inventé, me permettent de...」という原文は、「私には、traitsをうまいこと組み合わせて〜することが許されている」というような日本語に置き換えることができるだろう。

ここまでの検討から言えるのは、こういうことだ。宗の誤訳②は――何度も繰り返すが――たしかに誤訳である。しかし、その訳文は、原文に存在しない内容を宗が勝手に、強引に付け加えたというようなものではない。おかしな言い方だが、この誤訳には、きちんとした根拠がある。つまり、宗は、きちんと原文を読んで、その原文の解釈に基づいて、「ただ、こちらが対処のしかたを考えて狙いをつけるならば」という訳文を作り上げている。ただ、残念ながら、その解釈に誤りがあった。

もうひとつ言えることがある。見たように、宗の誤訳②には、独立的な原因がある。とすれば、この誤訳は、誤訳①の結果として生じたものではない、ということになるだろう。そして実際、丹生谷の指摘する誤訳①は、まったく誤訳ではないのだ。むしろ、ここで誤訳をしている、誤った解釈をしているのは、丹生谷の方だと私は思う。「l’Orient m’est indifférent」は、「オリエント(東洋)は私に対して冷淡(無関心)である」というようには読めないのである。

たしかに「être indifférent à A」という言い回しは、①「主語がAにとってどうてもいい(Aは主語に対して無関心である)」という意味(宗の解釈)のほか、②「主語がAに対して無関心である」という意味(丹生谷の解釈)にもなる。たぶん、どんな仏和辞書にも、そう書いてある。その意味では、丹生谷の言う「オリエント(東洋)は私に対して冷淡(無関心)である」という解釈も、「辞書的に可能」ではあるだろう。

けれど、後者②の意味において、「à A」が代名詞で表現される場合、それは必ず強勢形をとるのではないか? つまり、「オリエント(東洋)は私に対して冷淡(無関心)である」という日本語に対応するフランス語は、「l’Orient est indifférent à moi」となる。少なくとも私の感覚ではそうだ。

これは感覚の話なので、説明が難しい。「à+人」を人称代名詞で受ける場合、動詞の前で無強勢形を使うか、動詞の後で「à+強勢形」を使うかという判断は、デリケートな問題である。

例えば、「Je pense à Paul」は、「Je lui pense」ではなく、「Je pense à lui」となる(これは初級文法でも教わるはず)。ほかにも、「faire attention à+人」や「avoir affaire à+人」、「aller à+人」や「venir à+人」等で、強勢形が使われることが知られている。

この場合、説明としては、まず間接他動詞だから、というのがある。つまり、「penser à+人」の例で言えば、これは「penser」+「à+人」という形に分析されるのではなく、「penser à」でひとかたまりなのだ、という見方。

けれど、「penser à+人」の「à+人」は、人称代名詞の無強勢形で受けることはできないが、中性代名詞の「y」で受けることはできる。この「y」は「人」を単独で受けたのではなく、「à+人」を受けたはずだ。つまり、話者の頭の中では、「penser」+「à+人」という分析が生きていることになるだろう。

もうひとつの説明としては、こういうものがある。「aller, arriver, courir, penser, renoncer, rêver, faire attentionのようにある方向への運動・思考の動きを示す動詞は無強勢形lui, leurをとらない」(新スタンダード仏和辞典の「lui」の項より)。

フランス語学の西村牧夫は、「自立性」という概念から、この現象を説明している。

(……)『人』のようにもともと自立している間接補語名詞の場合、主語や動詞との関連において『自立性』を発揮していればluiで受け、『自立性』が抑制されればà luiで受ける、という説明が可能である。
この『自立性』の抑制とà luiの関係は、間接補語をà luiで受ける一連の動詞や成句を考察すればはっきりする。この種の動詞は、「心の中の思い」を表すもの、「援助を求めて呼びかける」もの、「移動」を表すもののおよそ3つに分類され、faire attention・penser・rêver・songer・tenir/avoir cours・faire appel・recourir/aller arriver courirなどがある。いずれも主語の一方的な働きかけを示しており、間接補語の『自立性』が抑制される場合はà luiで受ける、という説明を裏づけている。
(「間接補語 y vs à lui vs lui」『フランス語を考える』p.114)

この説明は、三人称を対象としたものだが、一人称にもそのまま適用できると思われる。

(無)関心の対象としての「私」においては、「『自立性』が抑制」されていると考えられる。ゆえに、これは「à lui」形、すなわち「à moi」で受けることになる。逆に(無)関心を差し向ける主体として十分な『自立性』を備えた「私」は無強勢形となる。

したがって、「l’Orient m’est indifférent」は「私はオリエントに関心がない」(オリエントは、私にはどうでもいい)という意味にしかならない。もし「オリエントは私に関心がない」という意味だとすれば、それは、「l’Orient est indifférent à moi」でなければならない。

さて、丹生谷の解釈上の誤りは、ほかにもあるようだ。先に丹生谷の解釈を引用したが、なかに「(身振りの)重層した絡み合いや思いがけない動き」という言葉が見える。この解釈は――あくまで想像にすぎないが――「la mise en batterie, le jeu inventé」の読解に対応するのではないか?

丹生谷の解釈では、「身振りのtraits」に動きを与えるものが、主体として「彼女(彼)」、すなわち「オリエント」の側であるように読めるが、すでに見たように、こういう「traitsの組み合わせ」(「動き」ではないと思う)を作り出しているのは、あくまで「私」である。「私」が恣意的にいくつかの「traits」を拾い集め、それを恣意的に「まとめあげ」、恣意的に「象徴システム」を想像しているのである。

丹生谷は、「私は東洋に関心がない」「東洋も私に関心がない」という「相互的無関心」が、この「かなた」という断章で基調となっているいうけれど、こうした対照性は、少なくとも原文からは読み取ることができない。この丹生谷の読み方は、「創造的誤読」(誤読芸?)の一種であり面白くもあり、否定的に見るつもりはないが、やはりそれは誤読であり誤訳である。そしてその意味では、丹生谷貴志宗左近は、結局、同じ穴のムジナであると言えるだろう。

正しく読んでいる人はいないのか。

バルトの著作には、たくさんのキーワードが出てくる。「neutre」、「bête」、「plaisir」、あるいは前回見た「amateur(アマチュア)」もそうだし、今回検討している一節に含まれる「traits」もそうだ。じつは同号のユリイカでは、野崎歓が、「箸と筆――『記号の帝国』と翻訳体験」という文章を寄せていて、その中で、この「traits(トレ)」というキーワードに注目している。丹生谷と同じく、『L’Empire des Signes』の最初の断章「かなた」を取り上げて野崎は、その2つ目の段落の内容を、次のように敷衍してみせる。

(……)バルトはこう述べる。東洋は自分にとって「諸特徴(トレ)の蓄え」を与えてくれる、その一そろいがあれば「象徴のシステム」のうちに変革を引き起こすという目標に「狙いを定める」ことだってできる――そのときたちまち、「トレ」は線分、まさしく「矢(トレ)」と化して西洋的な「象徴のシステム」に攻勢をかけようとするのである。

とりわけ前段を見ると、「… il me fournit simplement une réserve de traits dont la mise en batterie, le jeu inventé, …」のあたり、正確に読んでいることがわかる。

「traits」という単語は、「かなた」という短い文章の中で、次々と意味を変えていく。その移り行きを丁寧に追った上で、野崎は言う。「ぼくにとってバルトを読むというのは、どうやらそんな単語の揺れ動き反転するさま、つまりは『翻訳』の様態に眼を凝らすことの愉しみとしてあるらしい」

バルトの語彙は、かなり限定されている。同じ言葉が、著作の敷居を超えて、いろいろな場所に出てくる。けれど、不思議に飽きさせない。バルトの文章では、同じひとつの言葉が、いろいろな顔を見せるからだ。こんな表情があるのか、という驚き。この驚きの体験のことを、野崎は「翻訳」と呼んでいるようだ。

「traits」という単語を、宗は「特徴線」と訳した。これを丹生谷は「座りの悪い造語」だと言う。では、どう訳せばいいのか。丹生谷の解釈では、「ちょっとした厚みのない線分・輪郭線」となっている。たった一つの単語が、こんなに長くなる。

もともと「traits」は、さまざまな意味を持つ。そしてバルトは、その意味の範囲の、そこれそ端から端まで利用する形で、「かなた」という断章を書いている。一方の端で、この単語は「特徴」という意味を持つ。他方の端で、この単語は「線分」という意味を持つ。「特徴」と「線分」の双方を含意として持つ日本語の単語はあるだろうか。あるいは、「特徴」という概念を、「線分」という形状においてイメージすることができるだろうか。

ただひとつの日本語で訳し通すことにこだわる必要はない。そうした学者的・語学的に律義な直訳は無意味である。そう考えることも可能だ。けれど、その場合、バルトを読むことの「愉しみ」の多くが翻訳により失われる。おまけにバルトは、原文において、この単語の意味の複数性について、メタ言語的に言及してもいる。「traits (mot graphique et linguistique)」というように。つまり、「traits」という単語の意味領域は、「図画」と「言語」の双方にわたっていると。「traits」は、例えば似顔絵を描くとき、モデルから抽出された顔の特徴を構成するひとつひとつの描線であると同時に、文字を書くとき、当の文字を構成するひとつひとつの線分でもある。あるいはそれは、文体を備えた文章を構成し、その特徴をなすと感じられる個々の言葉、表現のことでもある。

私は野崎の解釈にすっかり同意しているわけではない(例えば「traits」に「矢」という意味を読み込むのは、やりすぎである気がする)。けれど、バルトを読むことの「愉しみ」が、「単語の揺れ動き反転するさま、つまりは『翻訳』の態様に眼を凝らすこと」にあるというのは、その通りだと思う。

ある一つの単語が持ち得る意味のréserveを余すことなくexploiterするバルト。野崎によれば、「ぼくらは自分たちに彼のフランス語を読むことが本当にできているのかとたえず問い直さなければならない」

「あらゆる意味を廃棄」するだの「記号を空っぽにする」だとのいったスローガンの方に注意を奪われすぎると、バルト・イメージの固定化にしかつながらないだろう。そもそもバルトのテクストが「意味を廃棄」することなどあるはずもない。それはそうした題目をまさに「空虚な中心」として据えた上での、精妙かつ意欲的な、意味のたえざる書き換えの試みとして成り立っているのだから。
野崎歓「箸と筆――『記号の帝国』と翻訳体験」『ユリイカ』2003年12月臨時増刊号 総特集 ロラン・バルト

しかし、バルトの文章には味わいがある、読む快楽がある、そこから理論的なものを引き出そうという態度はむなしい、というのもまた、「バルト・イメージの固定化」ではないのか。むしろ日本では、「テクストの快楽」が、バルトをいい加減に読むことのプレテクストになっていると言えるのではないか。