死の恐怖をめぐって――中島義道、大江健三郎、森岡正博を中心に

ホリエモンが収監される前、あるインタビューで、こんなことを語っていた。

ボクは6歳の頃から、死について考えていました。いつか死ぬ、明日かもしれない。そう考えると怖い。でも気付いたんです。考えるから怖い、考えなければ怖くないと。しかし何かの拍子にふと心の隙間に入り込む。だから自分を忙しくしてきた。
アエラ2011年6月6日号)

堀江貴文を「6歳の頃から」捕らえて放さないこの恐怖は、哲学者の中島義道を「六歳のころから」捕らえて放さない恐怖と、たぶん同じだろう。

私は六歳のころから、心のうちでたえず「死ぬのが怖い!」と叫んでいた。何が怖かったのか。それは、けっして父や母と別れるから怖いという感情ではなかった。幼い私が震えていたのは、私が完全に「無」になるということ。それは何なのかわからないながらに、ほんとうに冷や汗が出るほど怖かったのである。
(中略)
私が何億年のあいだ「無」であり続けるというイメージに、私はのたうち回るほど苦しんだ。二度とふたたび生きるチャンスを得ることはできずに、私はずっとずっと無であり続けて何十億年後に世界は終焉してしまう! こうしたイメージが次第に私の中で鮮明になり、それが一つの疑いえない直感となって私の頭を荒らし回り、私は「なんって残酷なんだ! なんって残酷なんだ!」と心のうちで絶叫している。その後しばらくは、放心したようになって、何をする気も起こらない。こんなことが、数日に一回くらいの割合で襲ってきた。
街を歩きながら「もう駄目だ!」と私は観念し、涙さえ出てくることもあった。
中島義道「『死』を突き抜けて」『生きにくい……私は哲学病』)

現実的に差し迫った死の危険があるわけでもないのに、観念的な死の恐怖にたびたび襲われるという人の話には、いくつか共通点がある。例えば、いちばん最初この恐怖に襲われた年齢は、小学校に上がる頃であることが多い。ホリエモン中島義道も六歳といっている*1。小説家の柴崎友香は「小学6年生」(『文藝』2008年冬号)と書いているが、これなどは遅い方だろう。

こうした年齢の若さは、死の恐怖が自我の芽生えと密接な関係を持つことを暗示している。自我の濃度がある極点に達した後、何かの拍子で不図、よりによってこの自分が死ぬことに気付き、その気付きが、恐怖をもたらすのだ。そしてこの最初の一撃に襲われた人間は、ほとんど残らず全員、その後も、それこそ死ぬまでずっと、この恐怖に襲われ続ける。逆に、この時期、死の恐怖の到来を受けることなく過ごし、そのまま成人してしまった人間は、具体的な死のリスクに曝されること(裁判で死刑を言い渡される、医師から余命半年を告げられる等)がなければ、これに襲われることはまずないのではないか。『死の壁』という本で「自分の死で悩んだことがありません。死への恐怖というものも感じない」という養老孟司のような人は、たぶんこの幸福なグループに含まれる。「一人称の死」が存在しないとか、死んだ後のことは死ななきゃわからないとか、養老がこの本で書いているような話は、死への恐怖を思索の中心に置いている哲学者や思想家ならだれでも知っている。こうした人々は、それにもかかわらず、激烈な恐怖に襲われるのだ。

死の恐怖が「この私」の死の恐怖であること、そして、人生の比較的早い時期に始まること、それらに加え、これが、このように、ことのほか激烈であるということも、その顕著な特徴のひとつだ。そのせいであるだろう、この恐怖の表現は、ある種の痛切さ、執拗さ、醜悪さを帯びる。なんとかその激しさの大きさをいい当てようと、たくさんの言葉が費やされる。あるいは、短い表現ならば、グサリと突き刺さってくるような、鮮やかな言い回しが工夫される。中島義道によれば、大森荘蔵は、この恐怖を「あの、どかーんと来るヤツですね」と表現している(「哲学と癒し」『たまたま地上にぼくは生まれた』)。また、小説家の大西巨人は、「夜、死について考えると以前はガバッと起き上がって眠れなかった」(「文芸の風」2005年3月16日付け朝日新聞朝刊)といっている。こうした「どかーん」とか「ガバッ」とかいうオノマトペは、この恐怖のもたらす切迫感を鮮明に伝えてよこす。

たんに「死の恐怖」ということでいえば、それは、必ずしもこういう差し込んで来る痛みのような形をとらない。丸山圭三郎は、『言葉と無意識』『生の円環運動』『ホモ・モルタリス』といった著書で、「死の恐怖」を次の通り四つに分類している。

  1. 肉体的苦痛に対する恐怖:末期ガンや心臓発作の患者の苦痛を自分に当てはめたもの。
  2. 精神的苦痛に対する恐怖:家族や友人、恋人との別れが恐ろしいというもの。
  3. 地位、名誉、知識、財産の喪失の恐怖:それらに対する執着心によるもの。
  4. 死という<非知>への相対の恐怖

「死がまったく人間の予測や思考の枠を超えた存在であり、死後の世界は不安と謎に満ちたブラックホールなのである。死んだら自分はどうなるのか、という問いは、現世の人間関係とか財産の喪失とはまったく次元の異なる恐怖を呼び起こす」(『言葉と無意識』)。「自分の死ぬことを考えると総身に膏汗の流れるような恐怖感にとらわれる」(『ホモ・モルタリス』)。丸山は、四番目の恐怖を「最大の恐怖」としている。つまり、「死の恐怖」が人をある種極限的な状況に追い込むのは、四番目のそれ、丸山のいい方では「不条理としての死」の場合だ。

先に、死の恐怖についての、中島義道の表象の仕方を見た。中島は哲学者として多くの著作で死の恐怖について語っているが、小説家として、やはり多くの作品で死の恐怖を描き続けている人間に大江健三郎がいる。大江の描く死の恐怖は、例えば、こんな感じだ。

眠りにおちいるまえにおれは恐怖におそわれるのだ。死の恐怖だ、おれは吐きたくなるほど死が恐い、ほんとうにおれは死の恐怖におしひしがれるたび胸がむかついて吐いてしまうのだ。おれが恐い死は、この短い生のあと、何億年も、おれがずっと無意識でゼロで耐えなければならない、ということだ。この世界、この宇宙、そして別の宇宙、それは何億年と存在しつづけるのに、おれはそのあいだずっとゼロなのだ、永遠に! おれはおれの死後の無限の時間の進行をおもうたび恐怖に気絶しそうだ。おれは物理の最初の授業のとき、この宇宙からまっすぐロケットを飛ばした無限の遠くには<無の世界>がある、いいかえれば<なにもない所>にいってしまうのだということを聞かされ、そのロケットが結局はこの宇宙にたどりつくのだ、無限にまっすぐに遠ざかるうちに帰ってくるのだ、というような物理教師の説明のあいだに気絶してしまった。小便やら糞やらにまみれ大声で喚きながら恐怖に気絶してしまったのだ。
大江健三郎「セヴンティーン」)

記述はこの調子でもうしばらく続く。だいぶグロテスクだが、これによって恐らく大江は、死の恐怖を「異化」しようとしているのである。とりわけ80年代までの大江作品には、こうした「死の恐怖」の描写がよく出てくる。例えば、『日常生活の冒険』の斎木犀吉は、「死への恐怖についてかなりの量のカードを書いている」。彼は「夜になって、いざ眠ろうとすると、肛門を鬼に咬まれるみたいに」死を恐がり、「いったい死の恐怖は、年をとるにしたがって等比級数的に増大するものかなあ?」と嘆息したりする。あるいは、やはり死をひどく怖れる人間として造形された『懐かしい年への手紙』の「僕」において、その恐怖の程度は、「数えで五つの時に、ああ、もう生きる年の全体から、五年も減ってしまった、と嘆きの心をいだいた」ほど強い。

もちろんこれらは小説の登場人物の話である。けれど、『大江健三郎・再発見』という本での井上ひさし小森陽一との鼎談や、その他の場所での大江の発言を読むと、「セヴンティーン」等で描かれた死の恐怖のありようが、本人のものでもあったことがわかる*2

ところで、「セヴンティーン」の主人公(高校生)は、こうした恐怖から抜け出すため、とても簡便なやり方をとる。「股倉をいじりまわしてあれをや」るのだ。ようするに、死から目をそらす、という、ある意味パスカル的な方法である。ホリエモンの「自分を忙しく」するというのも、このバリエーションだろう。けれど、いうまでもなく、これらの方法は対症療法にすぎず、根本的な解決にはならない。

死の恐怖の、もっと持続力のある克服法は、古今東西いろいろ提案されている。

よくあるのは、自分の帰属先として、なにか自分よりも大きな存在を想定し、この存在が不死であると仮定するというものである。つまり、個人としての自分は死ぬとしても、この大きな存在は決して死ぬことはない、自分の命は、この大きな存在の生命に継承されるのだ、と考えるやり方である。

この発想は、大江の小説にも親しい。例えば「セヴンティーン」の高校生は、次のように考える。

ああ、おれはどうすればこの恐怖から逃れられるだろう、とおれは考えた。おれが死んだとも、おれは亡びず、大きな樹木の一分枝が枯れたというだけで、おれをふくむ大きな樹木はいつまでも存在しつづけるのだったらいいのだ、と俺は不意に気づいた。

こうして彼は、自分にとっての「大きな樹木」として、「天皇陛下」を見出すことになる。『河馬にかまれる』の一篇「死に先立つ苦痛について」に出てくる「タケチャン」もほぼ同様の方法をとる。「自分の死が積極的な意味を持つと信じることができるような、ひとつの仕組みを作りたかった」タケチャンは、「個としての自分は死によってなくなってしまうのだから、自分の死後も、個のそれとはちがう生命をそなえた共同体を作り上げておきたいと考えた」。「個の死によってちょっと痩せるかも知れないけれど、すぐにまたもとに復する、共同の生命をそなえたもの。葉が一枚落ちてもまたもとに復する樹木というような、共同体を考えていた」。

そのほか、ある種の宗教のように、信仰の力で死後の世界の存在することを信じ込むというのも、代表的なやり方のひとつだろう。これは、その教えを丸飲みできれば、お手軽でいいのだが、疑り深い人には通用しないのが玉にきずだ。

中島義道大江健三郎による死の恐怖の表象は、その中心に、明らかに、無限やゼロという極限的な状況がある。恐怖の源泉かつ原因である「この私」という存在のことと併せ、ここから、死の恐怖の著しい特徴を引き出すとすれば、それは、こういういい方で表すことができる。

死の恐怖は、無限の「時間」にわたって、この「私」が「無」になってしまうという観念に由来する恐怖である。

したがって、現状、不死そのものが考えられないとすれば、死の恐怖を克服する鍵は、上で括弧に括った3つの概念にある。そう考えるのは、とても自然な考え方だ。

つまり、これらの概念の全部といわず、そのうちのいくつかを解体することができれば、死の恐怖はそのぶん小さくなるはずだ。

この道を、最も真剣かつ緻密に辿ったのが、中島義道であるだろう。中島の哲学は、上の3つの概念の全部に狙いを定め、そが錯覚であること、虚構であることを、執拗に論証しようとするものだ。「『私』が存在していると思うからそれが無くなるのが怖いのであって、もともと存在していないとしたら無くなることもありません」(『哲学の教科書』p186)。なるほどその通りだ*3

その最新作の『明るいニヒリズム』には、これまでの中島哲学の集大成のような趣がある。タイトルのせいか、装丁のせいか知らないけれど、一見、安手の人生論の本みたいに見えて損をしているが、内容は深いし、気取りの見えない淡々とした記述が心地よい。死の恐怖への感受性が高すぎて困っているという人には一読を勧めたい。

さて、中島の著作では、以前から指摘されているし、『明るいニヒリズム』でも指摘されているが、こうした論理的な思考による「私」や「時間」の解体は、それだけでは、死の恐怖を消し去ることができない。中島は、この本の「まえがき」で次のようにいっている。

哲学を続けるうちに、[中島を長いあいだ苦しめてきた(引用者)]この宇宙論的・客観的図式こそ、最も手ごわいように見えて、そのじつ最も脆い図式なのだということが次第にわかってきた。それは、「哲学の力」で破壊することができる。そう予感し、少なくともこの図式が消滅するなら、死ぬのはそれほどの恐怖ではなくなり、生きるのはずいぶんラクになるだろう、虚しさにがんじがらめになって生きることだけは避けられるように思われた。
しかし、客観的世界がまやかしであるという了解は「頭で」わかっただけではだめなのだ。身体全体で了解しなければならないのである(強調引用者)。

ちなみに、これと似たようなことは、二葉亭四迷もいっている。唐突だが備忘のため引用しておく。

例えば「死」なる問題は、今の所到底理論の解決以外だ。が、解決が出来たとした所で、死は矢張り可厭だろう。ただ解決が出来れば幾分か諦が付き易い効はあるが、元来「死」が可厭という理由があるんじゃ無いから――ただ可厭だから可厭なんだ――意味が解った所で、矢張り何時迄も可厭なんだ。すると智識で「死」の恐怖を去る事は出来ん。死を怖れるのも怖れぬのも共に理由のない事だ。換言すれば其人の心持にある。
二葉亭四迷「予が半生の懺悔」)

最終的な問題は「其人の心持」にある。死の恐怖を解消するには、「全身で実感する」(『明るいニヒリズム』)ことが必要なのだ。論理的な解決と心理的な解決は一致しない。中島の場合も、両者の間に、結構な時差があるようだ。やはり『明るいニヒリズム』の「まえがき」から引けば、

死んだら、漠然と永遠の無が待っていると考えている人は多いであろう。私も六歳のころからそう考えていた。そう考えて、何をしても死ぬのだからと打ちひしがれていた。しかし、このすべてはまさに一つの思い込み以外の何ものでもない。(中略)
そう思い始めたのは、二〇年くらい前であるが、それがありありと実感されるようになったのは、ごく最近のことである。

では、この「実感」とは、具体的には、どういうものか。「『死』を突き抜けて」の末尾、中島は、この上なく興味深い体験談を披露している。そっくり引用しよう。

ずっと前のことだが、ミュンヘンからミラノへ鉄道でゆっくりと下っていたときのこと、澄みわたった空にゴツゴツした岩山が車窓間近に聳えていた。そのとき、フッと変な感じが湧きあがってきた。眼に染みるような青空と太陽に光り輝く雄大な山を見つめているうちに、ほんの一種のことだが「私は<ここ>にではなく<あそこ>にいる」というまぎれもない実感がした。私は見ている場所ではなく見られている場所にいる。私はこの身体を飛び出てあの山に貼りついているのだ。「ああ、こういうことなのだな」と思った。そして「私は死なないのだな」とも思った。(強調引用者)

中島はこの「実感」が中島の思索の結論と完全に一致する性質を持っているとは断言していない。ただ、そうであるかもしれないという含みを持たせて、このエッセイを終えている。

ところで、ここで素朴な疑問は、こういう形をとる。この「変な感じ」は、中島がその実感に至るまで絶え間ない思索を続けてきたからこそ生じたものなのか。中島のこの時の体験と同様の体験をすれば、それだけで得られることはないのか。

中島の哲学の道では、論理的な解決が、心理的な解決に先行している。しかし結局、最終的な目標が心理的な解決ならば、論路的な解決を求めるのは、単なる遠回りにすぎないようにも思える。いや、もちろん、直接的な実感の到来をひたすら待つということができないからこそ、どうしても考えざるを得ないからこそ、人は思索に向かうのだろう。では、問い方を変える。心理的な解決は「論理的」と形容される解決を絶対に必要とするのか。実感に至る道は、論理の道以外にないのか、ということだ。

若いころの大江健三郎が、やはり興味深いことを書いている。

たとえ永つづきしないにしても、(中略)想像力を激しく喚起する読書のさなか・直後、いったん書物のページからあげたわれわれの眼に、周囲の人間と事物が新しい相貌をおびて映ることがある(中略)。われわれはこの宇宙・世界・社会を新しく見ているのである。また、われわれは書物を膝においたまま、自分がその時現在、死を恐怖しなくなっていることに気付いたことがなかったであろうか? それもまたたとえ永つづきしない経験にしても。
(「創造の原理としての想像力」)

この論考の本題から離れていえば、ここで大江は、想像力をフルに働かせた能動的な読書には、「たとえ永つづきしないにしても、」死の恐怖を治める力がある、といっている。つまり大江は、中島が哲学という営為に見た破壊力を、バルザックの小説を読むという読書行為のうちに見ている。大江の考えるこの読書が、論理的に考えるという呈のものでないことは明らかだ。恐らく、「変な感じ」に至る、こうした論理以外の道は、たぶん、まだほかにもあるのではないか。

大江健三郎の話を続けると、大江は、2007年の『大江健三郎 作家自身を語る』という本でで、「おかしな二人組」三部作を書くうち「自分の死生観が変わった」と話している。「年齢ということがおおいに力を及ぼしてい」るにせよ、「死ぬことに対する恐れが、かつてなく少ない」。

この三部作の第一作、2000年に発表された『取り替え子(チェンジリング)』には、主人公であり小説家である古義人が書いた「なぜ子供は学校に行かなければならないか?」というタイトルの文章を、登場人物の一人が読み上げる場面が出てくる。文中の「私」は古義人を指すが、この「私」は、戦後教育の欺瞞に嫌気がさして、学校に行かなくなり、朝から夕方まで一人で森の中で過ごすようになる。ある秋の日、森で激しい雨に襲われた「私」は発熱し、そのまま気を失ってしまう。翌々日、消防団員に救助され、自宅に運ばれた「私」は、ずっと寝込んでいたところ、ふと覚醒し、看病していた母親にこう問いかける。

――お母さん、僕は死ぬのだろうか?
――私は、あなたが死なないと思います。死なないようにねがっています。
――お医者さんが、この子は死ぬだろう、もうどうすることもできない、といわれた。それが聞こえていた。僕は死ぬのだろうと思う。
母はしばらく黙っていました。それからこういったのです。
――もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。
――……けれども、その子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?
――いいえ、同じですよ、と母はいいました。私から生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話してあげます。それから、いまのあなたの知っている言葉を、新しいあなたも話すことになるのだから、ふたりの子供はすっかり同じですよ。
私はなんだかよくわからないと思ってはいました。それでも本当に静かな心になって眠ることができました。そして翌朝から回復して行ったのです。とてもゆっくりとでしたが。冬の初めには、自分から進んで学校に行くことにもなりました。
大江健三郎『取り替え子』)*4

その後「私」は、学校などでぼんやりとこう考えるようになる。「いまここにいる自分は、あの熱を出して苦しんでいた子供が死んだ後、お母さんにもう一度産んでもらった、新しい子供じゃないだろうか?」。そして、「この教室や運動場にいる子供たちは、みんな、大人になることができないで死んだ(中略)子供たちの替りに生きているのじゃないだろうか?」。さらには、自分たちが学校で勉強するのは「死んだ子供らの言葉を受け継ぐために必要」だからであり、学校に通わなければ「死んだ子供の替りに、その子供と同じ、新しい子供になることはできない」と結論する*5

哲学的にいえば「人格の同一性」をめぐるこの挿話で重要なのは、「私」に生じた思考の反転にある。「私」は、母親の語る「自己=記憶」説を聞いて、「よくわからない」ながら安心した。安心の理由は、仮に自分が死んだとしても、母親の手によって別の肉体に同一の記憶がコピーされることによって、自己が再生され継続するから、というものだろう。ここで自分の死は、まだ到来していないものとして、未来の時点に置かれている。けれど、その後、「私」に芽生える直感は、それと百八十度違っている。自分はじつはすでに死んだのではないかという疑念において、「私」の死の時制は、未来から過去に移行している。

この時制の反転、つまり、自分はもう死んでいるのではないかという実感は、その裏に、死の恐怖が、死をいまだ到来していないものとして考えることに拠るという事実への悟りを隠している。「死んだ後のことはわからない」という<非知>に由来する恐怖は、この時制の反転により、大幅に縮減するだろう。なぜなら、自分はすでに死を経験しているわけだから。もはやそれは<知>の領域に属する。「自分はすでに死んでしまった」、あるいはもしかすると「今この状態において、自分はもう死んでいるのかもしれない」、そう考えることが、強力な「慰め」となることは、中島義道との対談で、大森荘蔵も語っている。

中島 (中略)未来というのは私が死ぬときですね。われわれは生まれる前は何でもなかった。そして、そのとき不幸ではなかった。だからまたもとの無に返っても痛くも痒くもない。不幸でも何でもないという議論がギリシャ哲学以来ありますけれど、これは大きな間違いです。もともと無いのと在るものが無くなるのとは違うのであって、私が今存在するからこそ単純にこれが無くなることが不安であり恐怖であるわけですね。つまり、私が無くなることが、いちばん外側で私の未来をつくっているわけです。(中略)
大森 (中略)そのギリシャの慰めよりもっといい慰めを見つけてきて。このごろ自分に言いきかせているんですが、つまり、死ぬのが怖いのは今生きているのが死ぬから怖い。じゃ逆に今すでに死んでると思えばどうだ。そして私は今もう死んでいると思っています。この世界は生き生きしたところが全然ない。
中島 それがなかなかそうは思い切れないところが苦しいところであって……。
大森 この慰めの手は日本の昔からの、はかなさとか無常の言い抜けです。今お前の生きているのが諸行無常なんだ。今生きているんだ、そう思ってもじつは生きていない。死んでいるんだ。だから二度死ねないぞ。あるいは死んでも同じことだから怖くないだろうという言い方ですね。
中島義道『哲学者のいない国』、強調引用者)

ギリシャの慰め」は、最初の方で挙げた大西巨人が採用している(「啄木が生きていた時代には、大西巨人はいなかった。それを怖いとは思わない。なんだ、元に戻るだけなんだ」)のだが、それはさておき、けっして強いもの、ありありとしたものではないにせよ、この自分が死んでいるという境地に入るのは、じつは、中島の考えるほどには難しいものではないのではないか。死後のことが誰もわからないのだとすれば、今現在自分が死んでいないとは誰も否定できないことになる。じつはこの生の状態こそが死の状態かもしれないのだ。

そういえば、柴田元幸に「死んでいるかしら」という短いエッセイ(『死んでいるかしら』所収)があって、それはこう始まっている。

自分はもう死んでいるのではないだろうか、と思うことがときどきある。
朝早く、駅へ向かって自転車のペダルをこぎながら、角を曲がるときなどに、ふと、ぼくはこないだの朝こうやってここの角を曲がろうとして、実は大型トラックと正面衝突して死んだんじゃないだろうか、という思いに襲われたりするのである。

この奇妙な思いを、三浦雅士のように、自分が「幽霊であることを忘れている」(『村上春樹柴田元幸のもうひとつのアメリカ』)と解くのはちょっとつまらない(そういう面白い映画が2本くらいすぐに思い浮かぶけれど)。柴田の文章から受ける印象は、そうした明確な言語化を拒むところがある。「何か大事なことを忘れてる気がするんだけど何だったっけかなあ、といった、脳味噌の背中のかゆい所にもうちょっとで手が届きそうなんだけどいま一つのところでどうしても届かない、そんな感じなのである」*6

つまり、「変な感じ」なのだ。

さて、ここまで、運悪く最初の一撃に打ちのめされた人間が、その後、たびたび襲ってくる「死の恐怖」から逃れるやり方を見てきた。けれど、死の恐怖への対処法は、絶対に恐怖を消すという方向に進むわけでもないようだ。最後に見たいのは、『無痛文明論』で森岡正博の提案する、いわば「恐怖に同伴する」というやり方だ。

まずは森岡による死の恐怖の描写から。

死の恐怖は、不意に私を襲う。まったく予想もしないときに、暴力的に襲ってきて、私を徹底的に打ちのめす。最初に死の恐怖に襲われたのは、小学校高学年から中学生にかけてのころだった。「私が死んだら、どうなるのか」「私は無になる」「そしたら、私がいま見ている世界はすべて消え去ってしまって、もう二度と現れることはない」。そこまで考えたときに、全身が痺れるような恐怖に襲われた。その恐怖が、あまりにも激しかったので、私はそれを大人たちに聞くことすらできなかった。これは、私ひとりだけの秘密にしておかなくてはならないんだ、と思った。それと同時に、私がまだ子どもだから怖ろしく感じているだけで、大人になったらきっと解決されているにちがいないとも思った。「大人になったら、この恐怖は解決されているはずだ」と思うことによって、私はこころの平安を取り戻そうとした。
しかし、私はしばしば死の恐怖に襲われた。そんなとき、私は自分の部屋を飛び出し、テレビを見ている両親の膝元にすり寄って、甘えた。母親は、そんな私を何も知らずに撫でてくれた。寝入り際に、死の恐怖が突然襲ってきて、頭を掻きむしったりした。「考えないようにしよう、考えないようにしよう」とつぶやきながら、恐怖が去るのをひたすら待った。
(『無痛文明論』p.294)

この『無痛文明論』という本は、読み始めると、ところどころ現れる過度にエモーショナルな言葉づかいや「われわれは無痛文明と戦わなければならないのである!」(文字通りこう書かれているわけではないが)みたいな威勢のいい口調が辟易させるし、一種の超人思想が説かれていると読めなくもないし、あるいは「本当の自分を見つめて悔いのない人生を送れ!」というありふれたメッセージが慎重な言い回しで説かれているだけのようにも思われるし、少々うんざりするかもしれないけれど、そのうち、だんだん、分かって来る。この「われわれ」は、すべての人間に差し向けられているではない。ある特定のグループ、すなわち、不幸にも最初の一撃に見舞われてしまった人間集団を指しているのだということに。そしてそれが分かるや否や、いろいろ、すうっと腑に落ちる。この本は、メメントモリを説く自己啓発書でも自分探し本でもなく、忘れたくてもそれが忘れられない人に向けた、よりよく死の恐怖と付き合うための実践書なのだ。

「私の死」についての思索は、第七章で集中的に行われている。ここではまず、死が恐ろしい理由が詳細に分析される。森岡は、これを五つに分けている。

  1. 「持続する私」が切断されるときの恐怖
  2. 「私の世界」というあり方が消滅してしまう恐怖
  3. 「回顧的な私」というあり方が消滅してしまう恐怖
  4. 「永遠の無」の恐怖
  5. 「連れ去られてゆく無慈悲さ」の恐怖

以上五点の恐怖の態様は、中島義道その他の論者がいろいろな場所で語っているものを総合したものにすぎないともいえる。したがって、この段の分析は丁寧ではあるけれど、それほど目を引くものではない。目を引く箇所は、次のような部分にある。

「死の恐怖」に耐え難くなったときに、いっそのこと、この恐怖を感じないような薬を飲むことができたらいいのにと思うことがある。だが、それを想像してみると、今度は別の恐怖が襲ってくる。すなわち、私にとって、「死の恐怖がなくなることもまた、大きな恐怖」なのである。なぜかと言えば、「私の死」について正面から考えても「死の恐怖」を感じないなんて、本来の私ではないような気がするからだ。
(同p.319)

したがって森岡のテーマは、「いま『死の恐怖』を消すことなのではなくて、『死の恐怖』を感じる私を保持したまま、その恐怖によって振り回され続けることなく、どのようにすればこの一回かぎりの人生を悔いなく生き切れるのか」ということになる。

森岡がこう考えるのには、ひとつのきっかけがあったようだ。かつては「死の恐怖、とくに『永遠の無』の恐怖に襲われたとき」、『自分が完全消滅するときに後悔しないように、今この瞬間をせいいっぱい生き切らないといけない』と考えることで恐怖を散らそうとしていたと森岡はいう。「ところが、あるとき以来、この恐怖の感情が少し違う性質のものに変わり始めた」。あるホテルの一室で、

激しい恐怖に襲われ、バスルームに入って石鹸を掴み、床に伏した。そのとき、世界が急に明るく輝きはじめたような気がした。私はバスルームのトイレの便座を握りしめながら、「ああ、なんてこの便座は愛おしいのだろう」と思った。私の目の前にあって、ふだんなら注視することなどまったくない陶器の便座が、いま私にとって、こんなにも愛おしい。ここに便座がある、という言葉にならない感動。(中略)もういつまでもそれに触っていたい、撫でていたい、頬を押しつけていたい、という衝動に襲われた。それは、目の前にある変哲もないものから、光が溢れ出ているとしか表現できない情景だった。
(同p.325)

しかし、こうした感動を味わいながらも、それと同時に「まだ永遠の無がもたらす死の恐怖には震えていた」(p.326)。この体験から森岡は、死の恐怖と存在の愛おしさが「表裏一体である」(同)という直感を得る。「むしろ、恐怖があるからこそ、その愛おしさを感じることができるとさえ言える」(p.327)。さらには「死を想像したときに私は大きな恐怖に襲われる。そのことすら愛おしい」(p.330)という境地に至る。

目の前に乾いたばかりの洗濯物が揺れているということ、ベランダに出る私の頬を風が伝うということ、そのひとつひとつが、私にとって驚愕の非日常であり、かけがえのない時空であり、切なくて胸が痛くなる出来事であり、日常性からかぎりなく遠く離れた宝石のような体験なのだ。日常性それ自体が非日常性となる。
(同p.384)

最終章で森岡が語るこの世界像は、大江が語る読書行為によって異化された世界の見え方に近い。

電車のなかで一冊の文庫本を熱中して読んでいた若者が一瞬窓から外の風景を見て、魂をうばわれたように放心している。(中略)かれは、または彼女は、いま風景を見ているにはちがいないが、それまでの読書によって洗われた眼・感受性、活気づけられ勢いをあたえられた心の動きで、風景を見ているのである。それまで読んでいた本の「異化」する力・文体が、窓の外の風景にまで、かれの躯のうちから滲み出ているのである。
(「新しい文学のために」p.58)

たぶん大江が読書に「死の恐怖」を治める力があるといったのは、単に集中した読書がパスカル的な気晴らしになるということでは当然なくて、異化がもたらすみずみずしい世界と死の恐怖との拮抗のことをいおうとしていたのではないか。『無痛文明論』と大江の想像力論・異化論を突き合わせると、そういうことが思われて来る。

死の恐怖に駆動された思索は、これら以外にも、たくさんの奇抜な着想を生み出している。例えば、死を恐れることと死を望むことが逆説的に結び付けられたりすることがある。映画『ソナチネ』で北野武が演じるヤクザは、「あんまり死ぬのを怖がるとな、死にたくなっちゃうんだよ」といっている。森有正は「城門のかたわらにて」の中で「死にたいから、本当に死にたいから、死を許さない死を恐れるのだ」と書いている。死に至る病が絶望であるとすれば、進んで絶望に身をゆだねる人がいてもおかしくない。

*1:ただし中島は、これ以外の文章では「七歳」としていることが多い。例えば、『哲学の教科書』、『「時間」を哲学する』、『哲学者のいない国』、『「死」を哲学する』で「七歳」だ。ただし最も新しい著作『明るいニヒリズム』では「六歳」。

*2:なお、この鼎談で、大江がベンヤミンについて語っていることは、よく呑み込めないが、とても興味をそそる。「今、次の小説を書こうとしていて、(中略)ヴァルター・ベンヤミンを読んでいます。それも、ベンヤミンという人は、『何もなくなった状態が持続することへの恐怖』の、僕が持っている感情と似たものを持っていた人じゃないか、という気がするからです。(中略)ベンヤミンを読んでいる。そうすると、自分が当の恐怖からいくらか解放されているという気持ちが、思いがけずある」

*3:「死もまた言葉である」という丸山圭三郎も同じ部類に属すると見えるが、丸山はひたすら「言葉だ言葉だ」というばかりで、議論に深まりがなく、物足りない。

*4:クエスチョンマークを除いた「なぜ子供は学校に行かなければならないか」というほぼ同一文章のエッセイを大江は実際に書いている。また短編「メヒコの大抜け穴」に、この話と極めて類似したエピソードが出てくる。

*5:福田和也は「大江健三郎と自殺者たち」(『現代文学』)で、この「論理」に「反論を許さない強さ」があるとし、これを批判しているが、むしろこの「論理」は、とても真に受けることができないという意味で容易に反論可能であると思う。この「論理」は、たぶん「死の恐怖」という極限状況から導かれたのであり、この恐怖に駆動された者が持つ「実感」から演繹されたものだ。福田和也は「死人の真似は甘い快楽だった」というエッセイ等で、「かなり幼い時期から、私は死の怖れに捉えられた」ことを語っているが、現在はもうこの恐怖とは無縁だともいう。きっと「年齢ということがおおいに力を及ぼしてい」るのだとは思うが、やや早すぎるのではないか。福田のこうした不自然な老生ぶりは気になるが、いずれにせよ、たぶん福田に「実感」が訪れることはなかった。だから大江の論理が「けちくさいいかさま」に見えてしまうのだろう。

*6:柴田は、この同じ感覚をモチーフに、「原っぱで」という表題の、これもまたかなり不思議な魅力を持った文章を書いている。やはり『死んでいるかしら』所収。