ベンヤミンの中動態、ヘイドン・ホワイトの誤解

中動態というのは印欧語に見られる態のひとつで、それがどのようなものかといえば、その名の通り「能動態と受動態の中間にある態」ということになる。用語自体は古典ギリシャ語の文法に由来するようだが、実例を挙げれば、ラテン語の「受動形式動詞Deponentia」などがこれにあたる。すなわち「形式は受動であるが、その意味は能動である」(河底尚吾『改訂新版 ラテン語入門』p.137)ような、そういう態のことをこう呼んでいる。古典ギリシャ語の場合、中動態は受動態と同形で、その区別はもっぱら文脈によった。また、バンヴェニストによれば、「受動態は、中動態の一様相であり、後者から発生した」(「動詞の能動態と中動態」)。つまり歴史的にいえば、まずは能動態と中動態の対立、次いで能動態と中動態と受動態の対立、その後、現代印欧語に見られるような能動態と受動態の対立が生じたということらしい。

といっても、現代印欧語に中動態が存在しないというわけではない。

ラテン語ギリシャ語で態は動詞の屈折によって表示されたが、印欧語由来の現代語では、態は多く迂言的な形をとる。例えば古典語の受動態は動詞の活用で示されるが、ドイツ語の受動態は「werden+動詞の過去分詞」、フランス語のそれは「être+過去分詞」といった形で表される。これと同じく、中動態も迂言的な形で現代に生き延びている。例えば独仏語でいえばそれは「動詞+再帰代名詞」という形をとる。このように再帰代名詞を伴う動詞形態のことを、ドイツ語文法では一般的に「再帰動詞」、フランス語文法では「代名動詞」と呼んでいる。けれどこれらは「中動態」の現代的な現れのひとつであるから、その側面に着目し、「再帰態」「代名態」といった言い方がなされることもある。

ここでひとつ注意しておくことがある。

再帰態では自己(主語)の動作を、自己(再帰代名詞)が受ける。動作の出発点をみれば能動的だが、帰着点をみると受動的である。だからこの態は能動と受動の中間にある、中間態とよばれるのはそのためである。
(島岡茂『フランス語統辞論』p.551)

「中間態」は「中動態」のことである。この記述はフランス語の代名動詞に関するものだが、ドイツ語の再帰動詞にも概ねそのままあてはめることができる。つまり、中動態は、ギリシャ語・ラテン語の文法で言われるような「形式は受動、意味は能動」のほか、現代語においては、「形式は能動、意味は受動」の場合があるということである。

細見和之ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』は、ベンヤミンの「媒質(Medium)」概念に触れるに際して、初期言語論に見られる「中動相的なもの(Das Mediale)」(この「中動相」も「中動態」と同義)という言葉について丁寧に説明を加えている。のみならず、「中動相的なもの」について語るベンヤミンの記述それ自体において当の「中動相」が効果的に使われていることに注目しており、すいぶん共感を覚えた。ベンヤミンは、その「神秘的」と形容される言語論において、「中動態」という印欧語の文法特性を概念と書法の両面にわたって十全に活用しているのであり、この態の特性を把握することが彼の初期言語論および翻訳論を読み解く上で重要な鍵となることは論をまたない。

ただ、いくらか気になったのは、中動態の説明にあたり、英語の言い回し「be interested in」や「be born」が引き合いに出されている点である。もちろんこれは中動態そのものの説明としては適切であって、実際、上に掲げた『改訂新版 ラテン語入門』の「受動形式動詞」の欄外注にも、英語の「I am delighted」「He is surprised」が例として挙げられている。おそらくこうした例示は、より多くの読み手に対して「能動と受動の中間」ということをイメージをしてもらうための親切であるに違いない。日本でドイツ語よりも英語の方がよく知られているのは紛れもない事実なのだから。

けれどベンヤミンの中動態の理解において重要なのは、英語の例やドイツ語の「状態再帰」等に見られる中動態の形、すなわち再帰代名詞を欠いた「形式は受動、意味は能動」のほうではなく、再帰代名詞を加えた「形式は能動、意味は受動」のほう、すなわち再帰動詞のほうだと考えられる。もちろん細見は、ドイツ語の再帰動詞についてもきちんと解説しているけれど、英語の事例を併記するその親切は――徒になるといえばいいすぎだが――若干の混乱をもたらす恐れがあるのではないかとは感じた。

再帰動詞や代名動詞(以下「再帰動詞」で代表させる)は、古典語の中動態と同様、さまざまな意味合いを持つ。細かい話をすればきりがないので、ここではあくまでベンヤミン初期言語論の読解に必要な限りにおいて、このタイプの中動態の用法について簡単に見ておくことにする。

再帰動詞の用法は、その内的構造の違いから大きく2つに分けることができる。

1.再帰的用法
2.受動的用法

再帰的用法」とは、主語の行う動作の効果が何らかの意味で主語自身に帰って来る(再帰する)ような、そういう再帰動詞の用法を指す。仏語の例でいえば、「lever(起こす)」という他動詞に再帰代名詞「se」が加わった「se lever」という形式がこれにあたる。この「se」は「自分」という意味で考えてとりあえずは問題ない。そうすると「se lever」は、これを分析的に読めば「自分を起こす」ということになるが、ようするに「起きる」という自動詞的な意味を持つ。ただし、再帰代名詞は、この場合のように直接補語(直接目的語)であるほか、間接補語(間接目的語)であってもよい。例えば「acheter(買う)」という他動詞は再帰動詞では「s’acheter」となるが、この表現で再帰代名詞は間接補語である。だから「s’acheter」は「自分を買う」(?)という意味ではなく、「自分のために買う」という意味となる。「自分のために買う」という言い回しには不足感が伴うが、それはこの構文が直接補語(直接目的語)を要求していることの証であると考えられる。つまりこの再帰動詞は他動詞的に機能している。「中動態の機能は他動詞を自動詞化することにある」と言われることがあるが、この説明は十分ではない*1

次に「受動的用法」であるが、この用法においては、主語が動作主を表さず、被動作主(動作を受ける対象)を表す。したがって、「受動態」と同じく、受動的な構文であるといえる。やはり仏語の例を出せば、「La porte se ferme à 6 h.」。「La porte」は「門」、「fermer」は「(を)閉める」という意味の他動詞、「à 6 h」は「6時に」という副詞句であるが、この文は、上で「se lever」に関してしたのと同じやり方で分析することができない。つまり「この門」が「自分」を「閉める」という意味にはならない。そうではなく、全体として「この門は6時に閉められる」という意味になる*2

この用法が再帰的用法と著しく相違する点は、再帰代名詞が意味的な内容を欠いていることに求めることができる。「La porte se ferme à 6 h.」で、「La porte」と「fermer」と「à 6 h」は、それぞれ「門」、「閉める」、「6時に」という充実した内容を伴っているが、再帰代名詞の「se」にはこのような当てはめができない。いわばそれは意味の上で空欄になっている。そしてこのことが――後で見るけれど――ベンヤミン読解において重要な意味を持つ。

さらにもうひとつ、ベンヤミンの言語論・翻訳論を読み解く上で大切だと思われることをいえば、この受動的用法の再帰動詞は、ある種の文脈において、「自発」という意味合いを強く帯びることがあるということである。

「自発」とは日本語の「る」「らる」によって表されるのとだいたい同じで、ある出来事が動作主の存在を前提とせず、あるいは動作主が意識されず、おのずから生じているように見えることを文法的にとらえたときの呼称である。独仏語の受動的用法の再帰動詞は、「受動態」と違い、「par」や「von」によって動作主を明記することができないが、それはこの用法に特有の「自発」の意味合いと齟齬を来すからだと考えられる*3

要点をまとめよう。中動態には以下の区別がある。
1.「形式は受動、意味は能動」と「形式は能動、意味は受動」の区別:ベンヤミンの中動態は、後者の、それも「再帰動詞」に関係する。
2.再帰動詞の用法における「再帰的用法」と「受動的用法」の区別

これらの区別をきっちりつけることが、ベンヤミン読解で肝要である。

ところで、中動態というのは、どこか謎めいたところのある概念で、バンヴェニストも指摘するように、容易にその機能の本質を明かしてくれない。そのせいかしらないけれども、この態が、表象不可能なものの表象、あるいは語り得ぬもの語りといったテーマとの関わりで持ち出されることがある。いわくいいがたい心の動きの表現だとか、主客未分の純粋経験の表象だとか、ある種の人たちが日本語のテニヲハに無理やり負わせるような、そういう便利な機能を持つことが、得体の知れないこの態にも期待されているようなのだ。

例えばヘイドン・ホワイトの「歴史のプロット化と真実の問題」(ソール・フリードランダー編『アウシュヴィッツと表象の限界』所収)という論考に、こうした語り得ぬものと中動態の胡散臭い連結の典型を見ることができる。

その主張のあらましはこうである。

ホロコーストは「表象の限界」に位置するといわれている。しかし、それは実のところ19世紀的リアリズムによっては表象できないということにすぎない。ホロコーストのような「新しい現実」には、新しい表象形式が必要なのだ。参考になるのは、アウエルバッハがヴァージニア・ウルフ灯台へ』から抽出したモダニズムの文体である。この文体の特徴は、ロラン・バルトが「書くは自動詞か?」において、またジャック・デリダが「差延」において指摘した、「中動態」の特徴と重なっている。ようするに、ホロコーストという新しい出来事は、この新しいリアリズムの様式、すなわち「中動態」というモダニズム的表象様式によって表象できるはずである。モダニズムとはリアリズムの否定なのではなく、古いリアリズムに対応できない新しい現実に対応した、新しいリアリズムなのである。

ヘイドン・ホワイトは、しかし、この論考でどうやら3重の混同を犯している。語り得ぬものを語る中動態というそのアイディアは、この混同を曖昧に放置することによって、ようやく主張としての形をなしているといえるのだ。ではそれは、どのような混同か。

第1に、ヘイドン・ホワイトは、すでに見た中動態の2つの用法――再帰的用法と受動的用法――を区別していない。そのことは、バルトとデリダの「中動態」をいっしょくたに扱っていることから明らかである。バルトとデリダは、いずれも「中動態」という言葉を使っているが、その注目している側面は、下に見る通り、まったく別である。

バルトが「書くは自動詞か?」で注目しているのは、中動態の再帰的用法である(なお、これはよく誤解されている――ホワイトも誤解している――ようだが、この論考でバルトは「書く」が「自動詞」であると主張しているわけではない)。バルトは、現代の書き手は、「書く」という動作の外側に立っているのではなく、その内側に立っている、つまり「書く」ことによってはじめて生成されるのだと主張する。したがって「書く」という動詞も、純粋な能動態の他動詞として、主語の行為が直接補語、例えば「テクスト」に作用する(テクストを生み出す)のみならず、再帰的に主語=書き手にも作用する(書き手を生み出す)ものと考えなければならない。バルトはそういう、いわゆる「作者の死」につながる話をこの論考でしている。

一方、デリダが「差延」(『哲学の余白』所収)で用いる中動態の比喩は、もっぱらその受動的用法の側面に関係している。

差延」によって指し示されるものは単に能動的でもなければまた単に受動的でもないのであって、それはむしろ何か中間態[=中間の声voix moyenne]のようなものを告知ないし想起する。つまりそれは単なる作用(オペラスィオン)ではないような作用のことを言っているのであり、言い換えれば一主観の一対象に対する能動としても受動としても考えられないような、作用を及ぼす側から出発しても作用を受ける側から出発しても考えられないような(中略)そうした作用のことなのだ。
ジャック・デリダ差延」、高橋允昭・藤本一勇訳、『哲学の余白』上巻p.44)

引用した文章は、デリダが「語でも概念でもない」「差延」という時間的・空間的な差異を生み出す純粋な運動について「語義分析」したくだりだが、この中で、「主体の行為の効果が主体に及ぶ」という再帰用法的な事態が語られているわけではないことははっきりしている。「差延」は「動き」ではあるが、その動きの原因である動作主や、その動きの対象である被動作主を持たないとデリダは語る。なぜなら、動作主(主体)や被動作主(客体)といった「存在者」は、この「差延」という運動の効果なのであり、この運動それ自体においてはそれらは「存在」しないからである(ゆえに「差延」それ自体は「語でも概念でもない」)。つまり、「差延」は「自発」的な運動であるといえ、デリダが「中動態」という言葉を持ち出すのは、その受動的用法が備える、この「自発」の意味合いを借りるためであるといえる。

デリダは「差延」には「名称がない」といっている。すなわち、「差延」は「語り得ぬもの」であるといっている。その意味では、ヘイドン・ホワイトによるデリダの「差延」への参照は、「語り得ぬもの」の話とは一切無縁なバルトへの不当な参照による減点分を差し引いたとしても、いちおうは正当だといえるレベルに達しているといっていいのではないか。この潜在的な問いに対しては、しかし、否と答えるしかない。なぜなら、デリダの「語り得ぬもの」は、「歴史のプロット化と真実の問題」でいわれる「語り得ぬもの」とまったく水準を異にするからである。ヘイドン・ホワイト第2の混同は、この「語り得ぬもの」の水準の相違において確認される。

「語り得ぬもの」という言葉は、様々な局面やコンテキストで使用されるようだけれど、その中には、よく考えるとじつは「語り得るもの」とは呼べないものが紛れ込んでいる。

例えばホロコーストの証言をめぐる「二重の不可能性」(高橋哲哉)などは、これを理由にホロコーストを「語り得ぬもの」と呼ぶとすれば、それは言葉の濫用である。「二重の不可能性」とは、「徹底した証拠隠滅」によるホロコーストの「痕跡の消失」の帰結としての証言者の不在、ならびに、過大な精神的ダメージを受けたことによる生還者の失語をいうのだが、こうした語り手の不在は、出来事それ自体の性質としての「語り得なさ」とは無関係であるだろう。しかるべき証言者が存在すれば、この語り得ぬものは容易に語り得るものに変化する可能性があるからだ。したがって、これは正しい意味での「語り得ぬもの」ではない。

あるいは、死後の世界等の不可知な対象について、それが「語り得ぬもの」であると形容されることがあるが、これもやっぱり話が違う。死後の世界はたぶん存在しないが、仮に存在することを認めたとしても、それを経験した者はすでに死んでいる。つまり、上の「不可能性」と同様、これもまた語り手が存在しないということにすぎない。「知り得ぬもの」は、そのままでは「語り得ぬもの」であるといえないのだ。

では「知り得ぬもの」はどのような場合に「語り得ぬもの」と呼べるだろう。それはなにより、知の対象が「人間の言葉の限界を超えている」場合である。つまり条件によるのではなく、対象の性質による「語りえなさ」を刻印されたものだけが真の意味で「語り得ぬもの」なのだ。そして、「アウシュヴィッツの世界は(中略)言語の外部に横たわっている」というジョージ・スタイナーの言葉を引用するヘイドン・ホワイトがホロコーストの表象不可能性について考え、中動態によるその乗り越えを示唆するのは、まさにこの正真正銘の「語り得ぬもの」の次元においてである*4

ところが「差延」においてデリダが問題にする「語り得なさ」は、前述の通り、こうした対象レベルとは無関係なのである。「差延」が「語り得ぬもの」であるのは、それが一個の対象として語り得ない性質を有するからではなく、こうした「対象」の成立それ自体に先立つという先験的性格によるのだ。ホロコーストという「存在者」の「語り得なさ」について語るヘイドン・ホワイトが、「存在者」ではない「差延」をめぐるデリダの文章から「中動態」という言葉を平気で借りるとき、彼はいわば「存在論的差異」に無頓着なのである。

「語り得ぬもの」と「中動態」をつなぐ細い糸は、この時点ですでに断ち切られているといえるのだが、検討を続ければ、2つの中動態を混同しつつ、「語り得ぬもの」のレベルを混同し、概念的なアマルガムを捏ね上げてからヘイドン・ホワイトが及ぶ最後の混同は、技法ではないものを技法と呼ぶというqualification上の混同である。

バルトは、「書くは自動詞か?」で、「書く(エクリール)」という特定の動詞が今日とり得る態のあり方について語っているのであって、何らかの「書き方(エクリチュール)」について語っているのではない。また、デリダは、「差延」において、「差延」を「原エクリチュール」と言い換えるが、この「原エクリチュール」は、特定の語り手が何らかの対象について語るための技術ではない。したがって、アウエルバッハが『ミメーシス』で明らかにした『灯台へ』という小説の「様式的特徴」(客観的事実の語り手としての作者の不在等)を、「バルトとデリダが『中動態』の様式と呼んでもよかった」はずのものだと語るホワイトには、なんというか、根本的な誤解がある。

「新しい現実を表象するための新しいリアリズム様式としての中動態」と要約できるヘイドン・ホワイトの主張は、「中動態」をめぐるこうした根本的な取り違えの産物なのだ。

「語り得ぬもの」は論外としても、「中動態」を比喩としてではなく、ある特定の事態や事物を表象するための具体的な技術として考える考え方は、眉つばものだと思う。こうした考え方は、新しいリアリズムの可能性に向かうほか、逆に、中動態が発達していた古典語には容易に表象できたものが現代語においては表象できなくなっている、というようなノスタルジアユートピアが入り混じった発想に結び付く場合もあるだろう。でも、ヤコブソンのいう通り、「諸言語が本質的に相違するのは、それらが送達しなければならないことにあるのであって、それらが伝達し得ることにあるのではない」のではないか。特定の形式と特定の内容を結び付ける考え方には、それがどんな考え方であれ、一定の留保が必要だ。ある言語によって語りえるものは、それが言語である限りにおいて、別の言語によっても語りえる(さもなくば翻訳は不可能ということになる)。「語り得ぬもの」があるとすれば(あるのだが)、特定の言語においてあるのではなく、言語一般においてあるのでなければならないだろう。

それでベンヤミンの中動態であるが、ベンヤミンはそういうことはいわないけれど、これもまた明らかに「語りえぬもの」に関係していると考えなければならない。けれどこの「語り得ぬもの」は、デリダの「差延」がそうであったように、特定の対象、「存在者」とは関係を持たない。ベンヤミンの中動態は、「存在者」ではなく、「存在」それ自体の「語り得なさ」、その神秘、その真理をいいあてようとするために持ち出されていると思われる。「言語一般および人間の言語について」の原文から引用する。

Jede Sprache teilt sich selbst mit.
(tout language se communique lui-même)

上の独語(括弧内はその仏訳)で再帰代名詞「sich」+他動詞「mitteilen」(「se」+「communiquer」)は、普通であれば受動的用法と解されるだろう。日本語に訳せば、「それぞれの言語は自ずから伝わる」という意味になる。しかし、ベンヤミンは、これに先立つ場所で、以下のように書いている。

ドイツ語という言語は、私たちがそれをつうじて表現しうる――と推定している――すべてのものを表現するものではけっしてなく、ドイツ語において自らを伝達しているものを直接的に表現するものである。この「自ら」が精神的本質である。
(「言語一般および人間の言語について」、細見和之訳、『ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』p.243)

こういうことによって、ベンヤミンは何をいおうと、いや、何をしようとしているのか。ひとまずいえるのは、この言い回しの工夫によって、受動的用法と解される場合において意味構成上ブランクとなる再帰代名詞「sich」に、「精神的本質」という積極的な意味を押し込めているということである。そしてそのことによってベンヤミンは、通常ならば受動的用法として解釈されるこの表現を、再帰的用法であるものとして理解させようとしているということである。

つまり、ランプや山やキツネが人間に「自ら」を伝達している、というベンヤミンの魔術的言語論の根底には、たんなるアニミズム、たんなる秘教的な思想ではなく、ドイツ語の構文に基づいた文法的な事実がある。といって、ベンヤミンが、この伝達のありように、まったく神秘的な事態、神学的な事態を見ていなかったわけでもないだろう。むしろ、ベンヤミンは、言語にきざす神秘的なもの、「語り得ぬもの」に促されたからこそ、こうした読み替えを行ったはずなのだ。ベンヤミンの見ていた神秘は、おそらく言語の「自発」性の側面に関係する。だからこそ、あえてこれを能動的な伝達という事態に強引に読み替えたのだ。この文法的な読み替えは、同時に、伝達そのものの意味合いをも読み替えることになった。細見和之の言葉を借りれば、言語の「水平的な関係」から「垂直的な次元」へ。ここにおいて、ベンヤミンの思考は、ウィトゲンシュタインの思考と一瞬だけ交わる。そしてすぐに別れる。この一瞬の交錯の地点から延びたベンヤミンの道をゆっくり、ひそかに、着実に辿ること。その結果見えてくるものをこの目で確かめること。それが私の課題である。

*1:いわゆる「相互的用法」(「Diese Leute hassen sich.連中は憎み合っている」や「John et Yoko s’aiment.ジョンとヨーコは愛し合っている」の類)は、この「再帰的用法」のヴァリエーションであると考えられる(ドイツ語では、この場合の再帰代名詞を「相互代名詞」と呼んでいる)。

*2:「受動的用法」で主語は必ず「物」であるという説明も見られるが、「Les criminels se pendent. 罪人たちは首を吊るされる」のように、主語が人の場合もないわけではない。

*3:なお、フランス語文法では、「自発」の意味合いを有し、かつ潜在的な主語(On等)が想定されない場合に、これをとりわけ「中立的用法」と呼び、「受動的用法」と区別することがある。また、代名動詞と日本語の「る」「らる」の類同性は、春木仁孝「代動名詞−受動的用法と中立的用法を中心に−」(大橋保夫他編『フランス語とはどういう言語か』所収)で示唆されているが、金谷武洋『英語にも主語はなかった』によれば、細江逸記という学者が早くも1928年に「印欧語の中動相は日本語の助動詞『る・らる』と基本的に同じものだ」と指摘しているようだ。

*4:この種の「語りえぬもの」「表象できないもの」に関しては、そもそも言語その他の表象手段は、正確な意味ではいかなる場合においても対象を再現などしていない、あるいは何らかの手段で正確な意味での再現が果たされるとすれば、それはすでに「表象」とは呼ぶことができない、つまり、表象可能/不可能の分割は、そのような分割を作り出すレジームの問題に属するというジャック・ランシエール的な批判を付きつけることができるが、いまはそのときではない。