ジュリア・クリステヴァが読むジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』

楽しみにしていたジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』の邦訳がついに出た。さっそく読んだら面白くて腰が抜けた。そして、悪い意味ではなしに、もやもやした。この「もやもや」刺激部について、世の読書人はどう読んでいるのか知りたいと思った。書評など探してみたけれど、まだ突っ込んだものは日本ではないようだ。なのでネットで探したら、よさそげな動画を見つけた。2007年4月27日、パリのロラン・バルト・センター(てのがあるらしい)で開催された、『慈しみの女神たち』をめぐるシンポジウムの記録である。主催はエコール・ノルマル。スピーカーはジュリア・クリステヴァ、ロニー・ブローマン、そしてジョナサン・リテル本人。冒頭約40分にわたって、クリステヴァが基調講演のようなものを行っている。いくつか興味深い指摘があったので、ご紹介。

(動画はここにあります→http://www.diffusion.ens.fr/index.php?res=conf&idconf=1727

第一に注目すべきは、語り手であるナチ親衛隊将校マクシミリアン・アウエの「悪」に関する意見を分析した部分。クリステヴァは、アウエの考え方を、ハンナ・アーレントアイヒマンについて語った「悪の陳腐さ」という概念と比較する。作中のアウエの言葉を引用しつつ、クリステヴァが言うのは、アウエが、この「悪の陳腐さ」という概念を更新・深化しているということだ。

例えばアウエは、事務手続きと化した殺人行為について、こういうことを語る。「労働者が労働の成果から疎外されているのと同じように」、殺害者は「その犠牲者から疎外されている」。つまり、「犠牲者は(殺害者本人とは)別の人間たちによってその場に連れてこられるのだし、また、彼を殺すことを決定したのは、(殺害者本人とは)別の人間たちである。そして、殺害者は、自分が長々と連なるチェーンの最後の環のひとつにすぎないことを知っているし、そのことについて自問することもない」。こうしたアウエ流の「悪の疎外論」は、しかし、アーレントの言う「悪の陳腐さ」から大きくはみ出している。なぜなら、アーレントアイヒマンという「悪」に冠する「陳腐さ(凡庸さ)」とは、結局のところ、悪の行為や存在が「ありふれている」という意味にすぎない。しかし、「自分は絶対に人を殺さないと言える人間はいない。それは不可能だ」と断ずるアウエは、もっと踏み込んでいる。彼は、人を殺すことは人間の特性なのであり、人間とは畢竟人殺しのことだと主張しているからだ。つまり、「悪の陳腐さ」ではなく、「悪の本質性」。ここにマックス・アウエの思想の核心がある。クリステヴァは、そう指摘する。

このクリステヴァの指摘は、いわゆる「性悪説」に近いものとして受け取られる可能性がある(だから、「悪の本質性」という表現は、少々ミスリーディングだと思う)。しかし、アウエは、作中、「性悪説」や「性善説」という考え方を否定した上で、次のように語っている。

「善悪は、一人の人間がほかの人間に対して行う行為の結果を形容するためになら使うことができる。しかし、私に言わせれば、この善悪というカテゴリーは、人間の心の中で起きていることを裁断するにはまったくもって不適当である、のみならず役に立たないのだ」

ここでアウエの言っているのは、悪が人間の本質、本性である、ということではない。本性としての悪、本性としての善というものは存在しない、ということである。つまりアウエは、善悪を「モラル(心)」の次元で語ることは間違いだと考えている。善悪とは、「モラル」すなわち倫理や道徳のためのカテゴリーではない。それは、具体的に遂行された何らかの行為を即物的に分類するものでしかない。だから、アウエにおいては、「人殺しは悪だ」という言明は、道徳的な価値判断ではない。たんなる事実確認であり、突き詰めれば一種のトートロジーなのだ。

究極のところ、アウエは、倫理や道徳という観念そのものを否定しているとも言えるだろう。アウエの世界は、徹頭徹尾、「語り得るもの」からできている。「The world according to Aue」は、その意味で、底が割れているし、上蓋もない。むきだしなのだ。だから自分がした「非人間的な」ことを後悔する必要はない。というのも本当はそれは「非人間的な」ことではまったくないからだ。「非人間的なことは存在しない」、「すべては人間的である」。つまり、アウエは、「人間」という言葉が通常持っている人道的な意味合いを廃棄し、これを単なる事実確認のレベルで使っているのである。

さて、この後、クリステヴァは、この小説が「歴史小説」ではないこと、それゆえ史料や証言の歪曲や恣意的な利用を非難する歴史家たちの批判が的外れであること、歴史小説に求められる基準に従って評価するのではなく、想像力の所産である虚構作品として読まなければならないことを説いてから、いよいよ、この「犯罪人の世界」の成り立ち、構造に踏み込んでいく。

まずはアウエの性格について。アウエは、本を読むのが大好きで、サッカーの試合で自陣にゴールを決めてチームメイトの袋叩きにあうような運動音痴で、女性になりたいという願望を持ち、同性愛を志向する。こうした「受動的ホモセクシャルのいじめられ体験と女性化志向(feminisation victimaire de l'homosexulité passive)」が、他者の苦痛に対する感受性と、暴力行為に対する反感をもたらしている。

しかしアウエは、ある種の暴力性に対して拒絶感を示すものの、それを指弾したり、それに反発したりということはしない。「考えることはいいことではない」アウエは、アイヒマン的な思考停止(島田雅彦の『優しいサヨクのための嬉遊曲』に出てくる「みどり」も同じことを言っています)を指嗾する。ただし、彼はアイヒマンと違い、とても鋭敏な感受性を備えた繊細な人間だ。だから身体が反応してしまう。アウエは、始終、吐き気と便意に襲われている(過敏性大腸症候群だと思う。ちなみに老人となったアウエは便秘気味)。アウエは言う。「飲むこと、食べること、排便すること、そして真実を探すこと。あとはご自由に(le reste est facultatif。つまり、この4つの行為は必須であるということ)」。ここで言われる「真実」とは何か。あるいは彼が「血と糞便」にまみれることで見出した「真実」とはなにか。それは、クリステヴァによれば、「アブジェクシオン(おぞましきもの)によるアブジェクシオン(棄却)の真実」である。人は快楽によって人を殺すのではない。人はわけもなく、わけもわからず、ただ人を殺す。殺すために殺すのだ。つまり、悪の無目的性、純粋性、普遍性。アウエによれば、人類とは「潜在的殺人者を貯め込んだ底なしの貯め池」である。「これこそ、私が『悪の本質化』と呼ぶものです」クリステヴァは言う。

クリステヴァは、自分のスピーチを終える際、ロニー・ブローマンとジョナサン・リテルに、この「悪の本質化」というテーゼをどう考えるかという問いをぶつける。人類とは本当に「潜在的殺人者を貯め込んだ底なしの貯め池」であるのか。この質問に対し、両者は、一定の留保をつけながらも、基本的には「ウイ」と答える。)

その性的志向に由来する繊細な感受性に恵まれたアウエは、普通の人が無意識の内に押し込めている、人類の持つ普遍的な残虐性を、意識の表面に上らせる。彼は歴史に目を向けてこう考える。過去の戦争における先祖たちの所業は、「我々がやらかしたことに比べれば、ほとんど清潔なもの、正当なもの」であった。彼はこの事実を抑圧しないが、非難もしない。「私はこれがすごいこと(extraordinaire)だと思った」(この「extraordinaire」という言葉は、深い)。そして、犠牲者に対する「とめどない憐れみ」が犠牲者に対する「激しい怒りに変わる」ときの、この「激しい怒り」に、「変わることのない人類の連帯の徴」を見る。

この小説は、クリステヴァが言うように、また菅野昭正氏が「訳者あとがき」に記すように、語りの構成において二つ系列が複雑に絡み合っている。一つはナチ将校(公人)としてのアウエが祖国の戦争とユダヤ人に対する非道な行いに付き従うパート、もう一つは一個の人間(私人)としてのアウエの内的な「ファミリー・ロマンス」のパートである。クリステヴァが注目するのは、エロスやタナトスサディズムマゾヒズム、近親相姦や母親殺しに彩られた、ときに幻想的な後者のナラティブが、東部戦線や強制収容所をめぐる理性的な前者の物語を浸食し、逆説的にも、こうしたナチズムの非人間的な側面を「人間化」しているという点である。とりわけ、激戦地スターリングラードで頭に銃弾を受けてからの語り手の言葉に顕著なのは、あらゆるアイデンティティーの混交、相互浸食である。ナチがユダヤ人に、ナチがコミュニストに、ドイツの法律がユダヤ教の戒律になぞらえられる。反ユダヤ主義者がユダヤ的身体をもって現れ、そして、「シオニズムほど民族主義的なものはない」と言う言葉が飛び出しもする。

さて、終り近く、クリステヴァは、ひとつの問いを提出する。こういう問いである。この小説で、「『慈しみの女神たち』は、どこに出てきたか?」。

アイスキュロスの『慈しみの女神たち』では、母を殺したオレステスは、アレオパゴス(内容と関係ないけれど、クリステヴァは「Aréopage」を「Aéropage」と発音してる。「音位転換」の実例です。「音位転換」と「アレオパゴス」についてはhttp://www.ne.jp/asahi/chambre/claire/atm.htmlを参照)の裁判で、アテナから無罪を言い渡される。しかし、リテルの「慈しみの女神たち」では、アウエは、ニュルンベルク裁判(つまり、「復讐の女神」が「慈しみの女神」に変わる一つの契機となる裁判)を受けていない。その上で、彼は、すべての人類を「兄弟」と呼び、彼らを自分の普遍化されたアブジェクシオン思想に誘い込もうとする。

クリステヴァは、ここで、この作品で、語り手と主人公との間に距離がないことに注意を向ける(彼女によれば、「ナチが小説の登場人物となったことは以前にもある」が、「ナチが語り手を務める小説は前例がない」)。この距離の無化が、SS将校アウエの虚無的・反ユダヤ的な世界像を全面化する。その一方で、アウエの女性的・いじめられっ子的なポジションが、ナチ的サディズムの印象を和らげる。つまり、読者は、アウエ的に都合よく歪曲された世界像の中にすっかり取り込まれ、そこから抜け出すことができなくなる(この作品は「ナイーブな読者を徐々に侵す巨大なウィルス」である)。そういう効果が、この小説の構造によってもたらされている。そしてこの構造が、悪の陳腐化、そこからさらに踏み込んで悪の本質化・人類化・普遍化というアウエの思想に説得力を付与しているのだ。

「多くの批評家が問うてきた問い、それを今夜私も問うてみます」。クリステヴァは言う。どんな問いか。こういう問いである。「私たちは本当にアウエの兄弟なのでしょうか?」。彼女の答えは、こう。「断固として、ノン!」。ようするに、この小説はひとつの悪夢なのだ。それが悪夢ならば分析すればいい。つまり、解釈すること。

『慈しみの女神たち』は、「苦悩と混乱を与える(poingant et troublant)小説」である。ただし、この小説を読むことによってもたらされた居心地の悪さが、「我々は皆、殺人者である」という考え方への共感を乗り越え、あるひとつの気付きに至らない限りにおいては。では、それはどのような気付きだろうか。アウエの回想を、トラジコメディとして、カーニヴァルとして、あるいは風刺文学として読むことへの気付き? 判断感覚を呼び覚ますこと? そして、それによってカタルシスという救済/慈しみ(grâce)を得ること?

「私は、この救済/慈しみを、マックス・アウエのテクストの中に見つけることはできませんでした」クリステヴァは言う。「実際、『慈しみの女神たち』という言葉は、この本の最後の頁と表紙にしか出てきません。最初と最後だけです。(……)つまり『慈しみの女神たち』はテクストの外にいるということです。真の『慈しみの女神たち』は、恐らく、私たちが(……)解釈を始めたときにやって来るのではないでしょうか」。

以上クリステヴァの講演の概略だが、ついでにこの作品を読んでの自分の感想もちょっとだけ。

読み終えて、真っ先に思ったのは、この小説は、世評に言われるように、本当に「悪」をめぐるものなのか、ということである。例えばマックスは「悪」なのか。作中において、彼はたしかに何人かの人間を殺している。その意味では悪人なのであるが、でも、実のところ、彼はちっとも「悪」に見えない。もちろん、悪が悪に見えないことが「悪の陳腐さ」の重要な一側面であることは承知の上だ。

アインザッツグルペ(大量のユダヤ人を一か所に集めて銃殺するという、いわゆる「銃弾によるショアー」を対ソ戦開始直後から始めた特殊部隊)に属していたアウエは、上官に命じられ、死体の山をかきわけ、即死せずに苦しんでいるユダヤ人を見つけては拳銃でとどめを刺していく。彼はその際、「人々ができるだけ苦しまないように」「注意しながらやるよう心がけた」。正気を失って笑いながら撃ちまくる若い隊員を見つた彼は、その銃を取り上げ、頬を平手打ちにする。「きれいにやってくれ、わかったな!!?」。しかし、偶然目があった瀕死の「美しい娘」(アウエは最初この娘に憐憫を感じる。その憐憫はすぐに「常軌を逸した怒り」に場を譲る)の頭に何発もの銃弾を撃ち込み「果物のようにはじけ飛んだ」のを目にしてからは、彼もまた正気を失う。上官から「もういい」と言われるまで、彼は乱射をやめることができない。

このシーンは、クリステヴァに言わせれば、たぶん「悪を人間化している」ということになるのだろう。でも、自分の印象を言えば――もっとも上手くは言えないのだけれど――むしろここで「悪は相対化している」。あるいは「悪は無化されている」。

現実の世界では悪に見えない悪があり得る。しかし、虚構の世界で悪に見えない悪は悪なのか。なぜこんなふうに問うかと言えば、虚構のリアリティは、「そう見える」ことにおいて保証されているはずだから。『慈しみの女神たち』で「悪の陳腐さ」が描かれているというのは、「人殺しは悪である」という現実のロジックや前提を虚構に当てはめているだけなのではないか。虚構の殺人は「悪」でないことがありえる。だからこそそれは虚構なのだ。

ところで、リテル本人は、自分の発言(リテルの順番は一番最後。ブローマンの発言中、彼は大きなあくびをしている)の際、ボスニアチェチェンでの暴虐非道を間近で見てきた自分が「この作品で扱いたかったのは、政治的な犯罪、国家的な犯罪であり、精神を病んだ個人が犯す犯罪には関心がない」と語っている。我々と同じようにごく普通に生活していた人間が残虐行為に走るのは、それが個人の問題ではなく、社会・集団の問題であるからだと。

ちなみにリテルは、この本を執筆する前、あるNGOの一員として、世界各地で人道活動を行っていた。だから、ロニー・ブローマン(「国境なき医師団」の元総裁)とは、旧知の仲である。二人が最初に交わした会話は、アイヒマンをめぐるものだったらしい(ブローマンの発言による)。

「悪の陳腐さ」という問題は、3人の発言者に共通するテーマなのである。けれど、それでも、この『慈しみの女神たち』という小説は、こうした「悪」の問題と切り離したところで読まれるに値する作品であるし、そうしたポテンシャルに満ちていると思った。

例を挙げれば、この作品は、とりわけそのファミリー・ロマンスの部分において、いくつかの語り落としがある。もちろん、この欠落は、この作品が『オレステイア』を下敷きにしているというテクスト外的な事実によって埋めることができるし、スターリングラードで頭を撃ち抜かれ「第三の目」が開いてしまったという記述(クリステヴァによれば「バタイユへのオマージュ」)が、テクスト内においても、そうした読み方の妥当性を高めている。また、生き延びて結婚したアウエと妻の間に生まれた子供が双子だったという事実は、南仏で両親と暮らす謎めいた双子の身元を、かなりの確度でもって明かしているように思える。こうした暗示は、けれど、最終的な読みを決定づけるものではない。

ほかにも、クリステヴァが「素晴らしい場面」だと言って挙げる、古典ギリシャ語を話す不思議なユダヤ老人(「過去に起こったことをすべて覚えている」「自分が葬られる場所も覚えている」と言い張る)をめぐる挿話も、とりわけ現実的な前半部において異彩を放ち、落ち着かない気分にさせる。

とにかく、この作品には、最後クリステヴァも言うように、解釈に向けて大きく開かれた印象がある。

さらに言えば、この開かれた作品の空隙の多さは、この小説が多くの人に読まれたことと併せ、世界中で読まれている村上春樹の作品の特性を分析するための一つのヒントとなる可能性がある。そんな気がする。村上春樹をめぐっては、物語と文体(ないし言葉)の対立軸で語られることが多いようだが、はたして村上春樹の「物語」は、本当に「物語」と呼べるのものなのか。あるいは、物語と文体という軸は、分析の具として有効なのか。『慈しみの女神たち』を読み終えた余韻の中から、そういう問いが立ち上がった。

最後になるけれど、日本語訳の出来は、最高水準だと思う。

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既出の書評など:
書評 ジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』 - 越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa
渡邊一民 評 『慈しみの女神たち』 ジョナサン・リテル 著 【集英社の読書情報誌『青春と読書』より】 | 本の「今」がわかる 紀伊國屋書店
『慈しみの女神たち(上)(下)』ジョナサン・リテル|担当編集のテマエミソ新刊案内|集英社 WEB文芸 RENZABURO レンザブロー

以下のブログ「ね式(世界の読み方)」は比較的早い時期に数度この作品に言及している。

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