「雑誌『新しい天使』の予告」(4)

最終回。最後の二つの段落を読む。この雑誌を制約するもうひとつの制約と、その制約の帰結について。また、この雑誌が『新しい天使』と名付けられていることの意味について。「この私」が、雑誌の統一性の妨げであると同時に、いやそれゆえに、雑誌の統一性の靭帯をなすということ。そして、結び目としての「この私」の歴史性と一個性が、この雑誌の果敢なさの源にあるということ。「近しさ」という概念の複層性を活用した論述の展開は、精読するとややアクロバティックかとも思えるが、そんなことはあまり気にせずに読めるし、気にせずに読んだほうが却っていいようでもある。

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この雑誌は、まだほかにも特有の制約――右のそれよりもずっとクリティカルな制約――を抱えている。それは、この雑誌の編集者が一個の人間として不可避的に備える限界、すなわち、この私の視野の限界である。私は、それが不可避的である限り、この限界を引き受けざるを得ない。そもそも私は、自分が、この時代の知の全体を見下ろすことのできる高みに立っていると言い張るつもりはない。夕刻仕事を終えてから、翌朝仕事に出かけるまでのあいだ、眼前に広がる見慣れた景色を見渡して、その中から、とりわけ目を引いた新しいものを、ひょいとつまみ上げるだけだ。つまり私は、自分の仕事である哲学の材料を、自分の限られた視野に収まる、ごく近しいもののうちに求める。換言すれば、本誌に掲載されるものの中に、この私にとって完全に疎遠なものはなにひとつない――そんなものを載せる理由はないのだから――ということだ。それにしても、この近しさの感覚を、私は、読者大衆と共有することができるだろうか。たぶんできないのではないか。そしてまた、この近しさの感覚が、お互い独立した意志と意識を有する寄稿者たちの間で共有されることも、まずないと思われる。読者大衆に媚びへつらうことも、寄稿者どうしの仲間ボメや馴れ合いも、この雑誌とは無縁だ。虚飾を捨て去り、あるがままを語ること。この精神を共有する者たちの間には、どんなにがんばっても、どれだけそれを望んだとしても、統一性や連帯や共同性を打ち立てることなどできないだろう。本誌に寄稿される文章は、お互い異質で、よそよそしいものとなるほかないだろう。だがしかし、じつは、このよそよそしさは、本誌に掲載される文章が共同性を形成しないことを意味しているわけではないのだ。そうではなく、こんにち、こうした共同性がきわめて語りにくいという事実を語っているだけなのだ。つまりは、共同性が、試されている。一見ばらばらな作品や論考の間に、それらを結び付ける絆がたしかにあることを明かすものがあるとすれば、それは、編集者であるこの私の存在を措いてないだろう。

ゆえに本誌は、果敢なくあらざるを得ない。そして本誌は、その果敢なさを自覚している。真のアクチュアリティを求めようとする以上、これは当然の報いなのである。タルムードの伝説によれば、天使たち――絶えず新たに生まれ、無数の群れをなすこの天使たちは、神の前で賛歌を歌い、歌い終えると、ただちに無の中に消えていく。この雑誌の名前が、こうした唯一真なるアクチュアリティへの希求の表現になってくれていれば、これに勝る喜びはない。

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まず第8段落の「近しさ」の用法を腑わけしておこう。ベンヤミンは、以下のように考えている。

読者は恐らく、この雑誌に掲載される文章が、なぜ一冊の雑誌のもとに集められているのか、疑問に思うはずである。読者は、これら掲載作の間に、いかなる統一性も関連性も、すなわちいかなる「近しさ」も見出すことはできない。なぜかと言えば、それは、これら異質な作品を「近しさ」において結び付けるものが、編集者であるこの私にとっての「近しさ」でしかないからだ。したがって、掲載される論考や作品の間には、客観的に証明できる連関がない。私的なものと公的なものとの間に走る、この一本の深い溝、通約不可能性という溝は、同時に、自他の間における心理的な溝を深める。編集者であるこの私は、この雑誌の読み手との間に、社交的な意味での「近しさ」を求めない。仲良くなりたいわけではないのだ。

この私と対象との間の「近しさ」を介した、対象間の「近しさ」が、この私と読者大衆との間の「近しさ」を遠ざけるという構造である。そしてこの認識上の「近しさ」の欠落に、心理上の「近しさ」の欠落が直結されている。公私間に深い溝を掘るこの二重の「近しさ」の否定の関係と構造が、そのまま、寄稿者間の関係にも適用される。寄稿者たちは、自己に固有の「近しさ」の感覚を他の寄稿者たちに期待してはならない。そしてこの通約不可能な「近しさ」の感覚を内に秘めた「この私」の複数である寄稿者たちは、お互い、感情的な「近しさ」に彩られた偽りの社交性を拒絶しなければならない。

認識的な「近しさ」の否定は、告白の誠実さにおいて、心理的な「近しさ」の拒絶に帰結する。さもなくば、そこに誠実さはなかったということになる。そういう厳しい考え方を、ベンヤミンはここでしているものと見える。

私の最深部の暗がりに潜む親密さの領域において見出される私秘性、それに由来する共同性は、私以外の誰にも理解できない。ゆえに本誌の共同性は「きわめて語りにくい」。同時に、共同性の根拠であり源泉である「この私」は、特定の時空間に制約された、最上級の果敢ない存在にすぎない。通約不可能性の集合を束ねる紐は、だから、たしかにある。しかし、この紐は、このように目に見えないほど細く、切れやすい。端的には果敢ない。この果敢なさは、「この私」の存在論と価値論に支えられた「真のアクチュアリティ」をこの雑誌が狙うことの余儀ない代償なのである……。

以上でヴァルター・ベンヤミン「雑誌『新しい天使』の予告」を読みとおしたことになる。最後に率直な感想を言えば、この文章は、典型的な机上の空論であるという印象が強い。自分がいいと思うものを、詰め込めるだけ詰め込んでいる。発刊の辞の類は、どれもだいたいこういうものであって、こういうものであることを免れないのかもしれないけれど……。その一方で、また、こうも思う。これが思い入れの強すぎる空論であることを、ベンヤミンが意識していなかったはずがない。むしろ彼は、雑誌の予告として、このエッセイが机上の空論であることを十分に意識しつつ、存分に楽しみながら、これを書いたのではないか。あるいは書いている途中は本気だったとしても、書き終えて読み返し、ひとり苦笑したのではないか。

すでに書いた通り、この雑誌は結局、実現しなかった。理由は、依頼主の経済状況の悪化によると言われている。雑誌を創刊するという計画は、ほかにも、ブレヒト、ブレンターノをパートナーに持った『危機と批評』の構想をはじめ、彼の周囲で何度か持ち上がったようだ。けれど、残念ながら、「結局どれも、ベンヤミンの人生に典型的だが、実現しなかった」(三島憲一ベンヤミン――破壊・収集・記憶』p.179)。