「雑誌『新しい天使』の予告」(3)

第6段落と第7段落。ここで主に語られているのは、対象を論じる際の姿勢と、書き手の資格についてである。とりわけ、哲学的および宗教的取り扱いの重視、そして哲学的および宗教的普遍性と科学的普遍性との違いを掴むことが読解のポイントとなる。ベンヤミンは前者の普遍性を「歴史的なもの」、後者の普遍性を「非歴史的なもの」と見ている。アクチュアリティの観点からベンヤミンが雑誌に求めるのは、もちろん前者の、限りなく果敢ない普遍性だ。

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この雑誌に普遍性が宿るとして、その普遍性は、いささかも、そこで扱われる対象そのものが持つ普遍性に由来するものではない。普遍性は、対象を哲学的に取り扱うことから生じる。こうした哲学的な取り扱いを心掛けさえすれば、科学的な対象すなわち実利的な対象であれ、政治的な対象であれ、数学的な対象であれ、それに普遍性を付与することができる。逆に、この雑誌に一番おあつらえ向きと思える文学的対象や哲学的対象であっても、それをきちんと哲学的に取り扱うのでなければ、掲載するわけにはいかない。哲学的普遍性という形式を展開することによってこそ、本誌が真のアクチュアリティの感覚を有していることを、正しく証明することができるのだから。さて、もうひとつ、この雑誌の知性が、それにふさわしい普遍性を備えているかどうかを測るための試金石がある。この試金石は、次のような問いの形をとる。「いままさに生まれ出ようとしている、この新しい宗教的構造、そのうちに生きることの覚悟が、お前にはできているのか」。この構造がどのようなものであるのか、それはまだ正確に描くことはできない。それでも、これだけはいえる。新しい宗教的構造のないところ、そこに、真の意味での新しさは、ぜったいにない。ならば、既存の構造に首までつかり、甘い汁をちゅうちゅう吸い、右顧左眄、東奔西走、掘り出し物だ、目っけもんだ、すげえすげえ、と騒ぎ立たてる連中は放っておこう。この雑誌が耳を傾けるべきは、静かに、控えめに、訥々と自らの苦悩と困窮を語る者たちの、沈黙に近い、低い、地を這うような言葉である。本誌に大きな人間はいらない。これはつまり、小さな人間はいらないということだ。いっている意味がわかるだろうか。とにかく、この雑誌の書き手は、宗教的な魂の探求と哲学的な事物の考察の交わる点、すなわち「信仰の告白」において、ようやく、その対象が更新されることを、よく知っている者たちであるだろう。しかし、この告白は、それが告白であるならば、断固としてあからさまでなければならないのだ。いっておこう。本誌で、主義や信仰を隠れ蓑とした韜晦や煙幕に出合うことがあるとすれば、それは、情け容赦のない批判の対象としてのみである。率直に語れ。曖昧さはこれを排除する。といっても、告白を装ったメロドラマに特有の好奇心の刺激、ぐいぐい読める読みやすさ、読み出したら止まらない面白さに就こうというわけではない。逆に、その文章は、そっけないほど抑制の効いた、しかし、滋味と歯ごたえのあるものとなるだろう。本誌に、慰めや癒し、単なる娯楽は期待しないでもらいたい。そのかわり、合理性をお見せしよう。そしてこの合理性は、自由な精神の下で発露する。そしてこの自由な精神が宗教を語るのだ。この雑誌は、自国語の圏域、西欧の圏域を超え、異なる宗教に関心を抱くことになるだろう。本誌で国語に縛られるのは、創作だけとなるだろう。

しかし、普遍性を追求するとはいうものの、この雑誌には、いわゆる普遍性をそのまま表すことは、たぶんできない。それは本誌が、科学から身を引き離すことになるからだ。なぜか。例えば、本誌の物理的外形は、造形芸術をそのまま表すことを許さない。それと同じく、本誌のアクチュアリティへの志向という本質が、科学性をそのまま誌面に取り込むことを拒絶するのだ。つまり、科学においては、アクチュアルであることが、本質的であることの不可欠な要件を構成していない。科学においては、アクチュアルでなくとも、本質的であることがあり得るということだ。といってもこれは、科学的対象を扱わない、という話ではない。科学的対象は、前段で触れた通り実利の問題に卑近するのであり、それに対して哲学的な濃縮を施さなければ、そこから真のアクチュアリティを取り出すことができない。ということは、哲学的な濃縮を経た科学的対象が本誌に顔をのぞかせる可能性はゼロではない。そういうことである。

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論述の対象がある特定の領域に属していることと、論述それ自体が属している領域が、明確に区別されている。哲学的な対象を論じたからといって、その論述がそのまま哲学的になるわけではない。ベンヤミンはこの区別の上に立って、本誌の論述それ自体が、おのおの哲学性を、したがって普遍性を備えることを求めている。

さらに、普遍性をめぐるベンヤミンの思考は、「真のアクチュアリティ」の問題とも、分かちがたく結びついている。すなわち、ベンヤミンの普遍性は、時間性ないし歴史性を、その概念の内蔵の部分に押し込めている。むしろ、「哲学的普遍性」が選ばれるのは、この意味でアクチュアルであることへの執着の効果だと考えると、すんなり理解できるはずだ。

ベンヤミンが、もうひとつ、形式的普遍性(というのも、ベンヤミン的な普遍性は、内容ではなく、哲学的な語りの形式のうちに宿るのだから)を論述に与えるものとして、第6段落で挙げているのは、「宗教的構造」である。「宗教的構造」とはなにか。それは、特定の宗教や宗派の具体的な教理が形成する、あるいはそうした教理に反映する、この世の秩序を指しているのではないだろう。そうではなく、「宗教的構造」とは、全体的な世界観、統一的な世界像、あるいはそうした「世界」を「世界」として認識させる視角そのものの喩としての言葉であると考えたい。

そしてこんなふうに考えると、ベンヤミンが、「普遍性」という言葉を、存在論(哲学)と価値論(宗教)の意味の重なりのうちに捉えていたことがはっきりと見えてくる。この超越論的な二重性は、その根源性において、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で語った二つの「語り得ぬもの」、すなわち「論理」と「倫理」を、その上に置くことを促している。この促しを素直に受け取ることには、そんなに躊躇がいらないと思う。もちろん、二人の哲学者の体系は同じではない。でも、ひとまず、重ね合わせることで濃度を高めた両概念の輪郭に、じゅうぶんな注意を払うことだけはしておいても損はない。

「宗教的構造」は、だからもっとはっきりいえば、「価値観の体系」ということだ。価値観は転倒する。大きな人間こそが小さな人間に、低い声こそが高い声になる。そのような価値の転倒の場を用意することが、雑誌の狙いである。既存の価値体系の内側で、物陰にひそむ無名の存在を表に引きずり出すことに、『新しい天使』は関心を抱かない。存在さえしていないものを存在せしめる存在論的なシステムの新設と、擦り切れた価値体系を一新する強力な価値論的パースペクティブの投下、この二つの仕事が、ベンヤミンの雑誌に課せられた使命だ。

付言すれば、宗教が、価値の体系の同義であることは、この段落の最後、自国の言語と文化の圏域から離脱することと、異なる宗教へ関心を持つこととが、連続的に考察されていることを見ても明らかではないか。

第7段落は、「科学」がもたらす「科学的普遍性」との違いから、この雑誌の求める「普遍性」の特質をはっきりさせようという意図を持っているものと読める。科学の普遍性は、アクチュアリティと無関係だ。だから、アクチュアルであることを本質とする雑誌で、科学的な意味での普遍性、すなわち歴史的瞬間性を免れた普遍性を狙うことはできないし、狙うべきでもない。ベンヤミンは、このこと――非科学性――を、この雑誌に課せられた制約と見ている。けれど、この制約がなければ、「真のアクチュアリティ」もまたないのだ。したがって、この制約は両価的である。次の段落で、ベンヤミンはもうひとつの制約について語るが、それもまた、これと同じ両価性を持っている。


<続く>(次回が最終回です)