「雑誌『新しい天使』の予告」(2)

第3段落から第5段落までを読む。掲載される文章のジャンルが三つ示されている。「批評」と「創作」と「翻訳」。ベンヤミンの説明は極めてロジカルだ。既存の翻訳でかすんで見える部分、いくらかコントラストを上げてみた。

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まず何よりも、批評。アクチュアルな雑誌の巻頭は、それで飾らなければならない。さて、批評と言えば、昔の批評は、単につまらないものをつまらないと言っていればよかった。いまは、それでは駄目だ。なぜか。小手先の技術が向上している。最近の作品や作者は、どれも一見すばらしい。でもじつは、ごまかしが上手くなっただけなのだ。今の批評には、こういうニセモノをニセモノだと見抜くことが求められる。おまけに我が国には、どんなにへっぽこな文章でも「批評」を自称してかまわないという、百年来の伝統がある。ようするに批評は、二つの力を回復しなければならない。ひとつは言葉の力、もうひとつは判断の力である。大げさなまでに文学的な文学作品、あるいは文学作品を装った紛い物に退場を迫ることができるのは、テロルだけだろう。こうした果敢に「ダメ出し」する批評、すなわち「否定する批評」には、作品をより広いコンテクストに置いて見ることが必要となる。というのも、近視眼では、ニセモノを暴くことはできないだろうから。ではそれとは違う批評のやり方、つまり「肯定する批評」に必要なことは何か。それには、ロマン主義者たちがかつてやった以上に、個別の作品にどっぷり浸かることである。文学史の中に位置づけたり、他の作品と比較したりするのではなく、その作品に沈潜すること。哲学は真実を求める。芸術も同じ。それは、作品の真実を求めている。優れた批評とは、こうした作品の真実を開陳するもののことをいうのだ。こんなふうに批評を考えるとすれば、巻末あたりに義務的に置かれた、誰も読まない「書評欄」にそれを押しやることがふさわしくないことがわかるだろう。

本誌には、批評・哲学のみならず、創作も掲載するつもりだ。ここで、創作について、少々言っておきたいことある。世紀の変わり目のあたりから、我が国の文学は、危機の時代に入った。どんな雑誌の綱領にもあるはずの、能天気な話をするわけには、もはやいかなくなったということだ。ゲオルゲは、たしかに我が国の言葉を豊かにしてくれた。だが、その作品は、すでに過去のものだ。一方、若い作者たちの処女作が、文学の言葉をどんどん更新しているように見える。でも、巨匠の流派(この流派は、それが長く続けば続くほど、巨匠の限界を明らかにするだけだろう)に多くは期待できないのと同様、最新の文芸作品の見えすいた小賢しい工夫も、その作者たちの言葉への信頼を、あまり抱かせてくれないようだ。現在、我が国の文学を襲う危機は、かつてないほど大きな影響を、国語それ自体の命運の決定に及ぼすだろう。国語をどうするのか、国語はどうなるのか。その命運を決めるのは、知識や教養や趣味なんかではない。リスクを負った決定だ。これに関し、ここでは、これ以上、踏み込むことができない。ただ、こういうことだけ言っておく。本誌に掲載する詩と散文は、右に述べたことを踏まえたものになるだろう。とりわけ創刊号の諸作品は、右に述べた意味での決定をなすものになるだろう。以降の号に掲載される作品を書く者たちは、この最初の決定的な諸作品の庇護により、高名な作者たちの及ぼす暴力的な影響力から身を守ることができる。

我が国の文芸の現状に鑑みるに、ここに再び、ひとつの文学形式を召喚せずにはいられない。昔から大きな危機が起きるたび、救済の力を発揮してきたその文学形式を、人は翻訳と呼ぶ。ただし、ここで言う翻訳を、お手本となる外国文学の紹介という、古くさい考え方のもとに受け取ってはならない。本誌に載せる翻訳は、生まれたばかりの子供が舌を回す訓練のようなものだと考えてもらいたい。翻訳とは、ひとつの言語の成長にとって不可欠な、厳しい訓練のいいである。生まれたばかりの言語は、いまだその固有の内容を持たないので、べつの言語から、自分にふさわしい内容、似つかわしい内容を借りてこなければならないのだ。こうした内容を活かすには、死んだ言葉を思い切って捨て去り、新しい言葉を育てる必要がある。真の翻訳の持つ、こうした形式としての価値を明るみに出すため、訳文には原文を添えよう。この点に関しては、創刊号で詳細に説明する予定である。

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批評について、二つの方法が提示されている。「否定する批評」と「肯定する批評」。前者と後者は、正反対のやり方をとる。これは評価にあたってのダブル・スタンダードを意味しない。どちらの方法をとるか、その適用の判断は、作品の評価に基づく。つまり、ベンヤミンにとって、作品に対する評価、価値判断は、批評の目的ではない。それは前提にすぎない。作品の良し悪しをつけることは、批評の仕事ではないのだ。「否定する批評」が単に「貶す批評」でないこと、そしてそれ以上に「肯定する批評」が「誉める批評」でないことは、言うまでもないだろう。誉めたり貶したりは、それ自体としては、批評の関心の外にある。

創作に寄せてベンヤミンが語る危機意識――大家と新人双方への不満――は、「ジャーナリズム」的な現状把握に卑近しているように見える。危機の話は、能天気な話と同じくらい、常套句と呼ばれる資格を持っている。けれど、この部分、どうでもいい部分だ。リスクを負った言葉が国語の将来を決するというところが大事だ。ベンヤミンにおいて、個別の作品の意義は、国語への寄与の度合いで測られる。そのことの是非も、ここでは問わない。ただ、翻訳が重視されることの理由の主要な部分が、こうした国語という大きな総体に向けられた意識の強さと関係していることだけ押さえておきたい。

最後の段落に記された翻訳論は、おおむね「翻訳者の使命」の記述と重ね合わせて読むことができる。末尾で言われる詳細な説明とは、「翻訳者の使命」のことをさす。ベンヤミンは、ボードレール『パリ風景』の翻訳の序文として公にされたこの有名なエッセイを、雑誌『新しい天使』の創刊号に掲載するつもりだったのだ。

翻訳とは国語に対して課せられた不可避の訓練課程である。ベンヤミンはそう見る。こういう見方は、いまとなっては、むしろ受け入れやすい見方のような気がする。このへんを読む上で注意がいるのは、しかし、「内容」という言葉の内実であるだろう。この「内容」は、単純にある言語表現にとっての意味内容のことだと考えない方がいい。個別の語や言表、あるいは言説の内容ではなく、国語そのものの内容を指して、ベンヤミンは言っている。あるいはこの「内容」は、初期言語論でいう「本質」のことを指しているかもしれない。末尾のすぐ手前に示された、訳文と原文を対訳形式で掲載するという方針は、聖書の行間翻訳が理想であるという「翻訳者の使命」の末尾と照応している。でも、この考え方は、正直よくわからない。訳文だけでは、いけないのか。いけないのだろう。だとしたら、なぜなのか。それがいまひとつわからないのである。

<続く>