吉本隆明『言語にとって美とはなにか』について

吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』は、若い頃なんとなく避けていたけれど、三十半ばを過ぎた頃、読んでみて、こんな面白い本はないというくらい引き込まれた。噛めば噛むほど味が出てくる本という気がする。

吉本隆明の文章は、独得の用語と体系のなかで意味をもっている。どんな文章についても同じことがいえるとしても、『マス・イメージ論』のような書物に関して、とりわけそのことが注意されねばならない。むろんそれは本書をよりよく理解するための注意書きではない。本当は、私は本書をまったく理解できないのだ。本書を了解するためには吉本氏の「体系」を受けいれなければならないが、その気がまるでないからである。
柄谷行人「モダニティの骨格」『批評とポストモダン』)

たしかに、その言葉の使い方は癖が強く、アクも強く、読みにくいったらありゃしない。けれど、不思議に、読んでいて楽しい。『源氏物語論』や『論註と喩』の文章の気持ちよさといったら、どうだろう。類例が思いつかない。でもなにが書いてあるのか、ぜんぜんわからないのだ。なにが書いてあるのだろう。そんなことはもうどうでもいい。そういう気にさせるのが吉本隆明の散文だといえばいえるのかもしれない。でも、知りたかった。そこになにが書いてあるのかを。

理由はある。『言語美』の序に置かれた「文学は言語でつくった芸術だ」という考えが、もうずっと、自分の気に入らないのだ。昔からずっとそうだった。今もだめ。「文学は言語でつくった芸術だ」。誰の口からでも出そうな言葉だ。吉本じゃなくても。だから吉本も、こう考える立場のことを「たれも不服をとなえることができない地点」と呼んでいる。けれど、本当だろうか。本当に「文学は言語でつくった芸術」なのだろうか。

ひとつこれに不服をとなえてやりたい。そう思った。そのため、まず、この「前提」から出発して、文学について原理的に考えた場合、思考はどのあたりまで行くのか、それをその足跡とともに、きちんと確認しておきたかった。で、「吉本氏の「体系」を受けいれ」ようと思った。もちろん、やさしいことではなかった。いまだに難しい。

『言語美』は、難しい。その難しさは、どういう類のものか。たとえば「自己表出」「指示表出」という概念がある。二つの概念は、「意味」というターム、「価値」というタームを規定する場面で、それぞれ次のように使われる。

言語の意味とは意識の指示表出からみられた言語の全体の関係だ。

意識の自己表出からみられた言語の全体の関係を価値と呼ぶ。

ここで陥りがちな誤読の筆頭は、「言語」や「全体」や「関係」という言葉を、構造主義的な意味で理解してしまうことだろう。じっさいそのように誤読していると思われる文章を見たことがある。少なくとも自分は最初そういう風に読んでしまった。「吉本氏の「体系」を受けいれ」ていなかったのだ。しかし、それでは、この二つの命題から、まともな読みを引き出すことはできない。『言語美』の読書で、余計な知識は役に立たないばかりか、むしろ邪魔になる。そのことの顕著な例がこれだ。

「自己表出」と「指示表出」という概念に対する論者の態度は、いろいろ読むと、おおよそ三つに分けられるようだ。

その第一は、両概念を、すっかり理解可能なものとして、すっかり理解されたものとして、まるで自家薬籠中のものみたいに使うやり方だ。余計な説明はしない。これは、その文章が吉本の言語論や文学論の解説を目的としていないのであれば、いちばん賢明なやり方だろう。ただし、そうじゃない場合、まったく不親切な態度というしかない。

第二は、「自己表出は誰それの唱えたXに似ている」「指示表出はYと呼ばれる概念に近い」という形で両概念に迫るもの。

たとえば柄谷行人が「僕は吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』には、漱石の影響があると思います」「つまり、彼は漱石のいう(F+f)という図式を自己表出と指示表出と言い換えている。」(「飛躍と転回」『文学界』2001年2月号)といったり、竹田青嗣が「吉本の〈指示表出/自己表出〉とソシュールの〈ラング/パロール〉はほぼパラレルなかたちをとっている」(『世界という背理』)、「吉本の『自己表出』と『指示表出』という概念は、その意味内容として言えば、フッサールの〈意味(ジン)〉(いわんとすること)と〈指標(ベドイトウング)〉(指示性)にいちばん重なり合うが、方法上の核心は、むしろヘーゲルの〈意識〉論に響き合っている」(同)といったりするのがこれに該当する*1

こういう態度は、いうまでもなく、吉本の概念を吉本の「体系」から切り離して理解することだ。これで吉本の概念がなんとなくわかるようになるかもしれない。わかったような気がするかもしれない。でも、その先があるかといえば、ない。ゼロだ。

三つ目の態度は、ネガティブな規定の仕方をとるものだ。『鑑賞日本現代文学』第30巻の「言語にとって美とはなにか」の解題にこうある。「吉本は、単純に〈自己表出〉の概念を、自己意識の表出や自己感情の表出の意味で使っていないし、言語の本質が〈自己表出〉にあるとはどこでも述べていない」。

三浦雅士も同じようなことを書いている。「自己表出は(中略)いわゆる自己表現ではない。個別的な自己のその個別性、個性を強調する自己表現ではない。むしろそのような自己表現に奉仕するのは言語の指示表出の側面であって、自己表出の側面ではないと考えた方がいい」。(『批評という鬱』)。

三浦は、「自己表出」という概念を「自己表現」との違いから考えようとしているのだが、その際、吉本自身が『言語美』で述べた「表出と表現の違い」が手掛かりとなると見ているようだ。じっさい『言語美』に次のような記述がある。

文字の成立によってほんとうの意味で、表出は意識の表出と表現とに分離する。あるいは表出過程が、表出と表現との二重の過程をもつようになったといってもよい。
(『言語にとって美とはなにか』)

けれど、「自己表出」と「自己表現」の違いは、はたして「表出」と「表現」の違いに基づいて、平行的に考えていいものだろうか。「表出」と「表現」は、いずれも吉本の概念である。「自己表出」もまた同じ。けれど、三浦が「自己表出は(中略)いわゆる自己表現ではない」というときの「自己表現」は吉本の概念ではない。一般的な概念にすぎない。『言語美』にはたしかに「自己表出とすべきところで自己表現という言葉を用いている」箇所がある。でもこれは重く見るべきではない。吉本が特定の文脈で用いる「表出」と「表現」の二項対立を「自己表出」と「自己表現」の対立に重ね合わせ、そこから「自己表出」の概念に迫るのには、ちょっと無理だと思う。言葉の形は同じでも、位相が違う。吉本の「体系」を受け入れることの難しさは、こういうところにも現れている。

この問題に関しては、あるインタビューの中で、吉本自身が明確に答えている。

――吉本さんの言語論の言い方だと、言語の芸術性を決めるのは自己表出としての価値ですが、村上さん[村上春樹のこと(引用者)」の世代は自分ことは語らないよという、否定のかたちで自己表出してきたところがあると思います。いまの作品には、そういう意味での自己表出性さえほとんど感じられないということですか。

吉本 「自己」の意味が質的にちがいます。僕のいう「自己」は「私」ということではなくもっと抽象的な意味ですが、そういうある意味で古典的な考え方を残している見方からすると、文学の芸術性を保障するものは、言語の自己表出とか自己「表現」といった面だということになります。ところがメディアが変わってきたということもあるんでしょうが、最近ではそうじゃなくて、僕が指示表出と呼んでいる物語的な起伏みたいなものが作品の主体になっていて、詩の方でもそういう傾向があります。
(『群像』2009年1月号)

つまり肝心な点は、「表出」と「表現」の区別にではなく、「自己表出」の「自己」という言葉の捉え方にあるということだ。吉本のいう「自己」とは「私」のことではない。右でインタビュアーの田中和生は、その点を分かっていない。「自己表出」の「自己」を「自己表現」の「自己」の意味、つまり「自分のこと」という意味で理解している。

「自己表出」は、『言語美』にそう書いてあるとおり「自発的な表出」の意味である。もちろん、「自発的な表出」といったところで、その難しさが解消されるわけではない。今は、でも、概念の深みにはまるときではないので、先に進むことにする。吉本隆明の難しさについての話をしていたのだった。

上で「意味」と「価値」の定義を引用した。じつは、『言語美』には、その定義ととてもよく似たな定義が、別の概念に対してなされている。

文学(作品)を言語の自己表出の展開(ひろがり)としてみたときそれを形式といい、言語の自己表出の指示的展開としてみるときそれを内容という。

定義の類似性は、それがたんに類似しているだけなら、とりたてて問題とならない。問題となるのは、吉本の「体系」において、「価値」と「意味」の区別が死活的に重要である一方、ほとんど同じような定義を持つ「形式」と「内容」の区別が、「なんの意味もない」と退けられているからだ。

念のためいっておけば、吉本は「意味」や「価値」という概念を検討する際、文学作品の構造上いくつかのレベルを区別している。引用部に出てくる「展開(ひろがり)」という言葉は、作品の全体を指すものとして使われている。一方、先ほど引用した定義は、構成要素のレベルに関する。だから、両定義の比較においては、「展開(ひろがり)」という言葉は捨象して構わない。けれど、そうすると、恐るべき事態が生じる。両定義の違いが、ほとんどゼロに近づいてしまうのだ。読み手は頭を抱えるしかない。吉本の「体系」の恐ろしさが、ここにも垣間見えるといっていいのではないか。

もっとも、この問題は、吉本の「体系」から離れると、じつはそれほど難解なものではない。意味の内実が言葉なのであれば、ある言葉の「意味」として提示された言葉の列は、それがすでに別の言葉であることによって、当の言葉から不可避的にずれる。意味は、異なる二つの言葉が等しいと見なされるとき、つまり意識が弛緩するとき、ようやく人の眼に触れる形で現れる。そしてこの意識の弛緩の産物を「意味」と見れば、言葉、すなわち「形式」と密着しているはずの「意味」は、もう「意味」と呼ぶことはできない。「内容」とでも呼ぶしかない。だから「もとより、内容と形式とが別ものでありうるはずがない。あえて文学の内容と形式という区別をもちいるのは、スコラ的な習慣にしたがっているだけだ」という考え方は、この見地に立てば、それほど奇抜ではない。じっさい、よく見聞きもする。けれど、こういう見方は、繰り返すが、吉本の「体系」から、離れてこそ可能となるのだ。あるいは、こういう見方は、吉本の「体系」の見地でも、正解なのかもしれない。しかしそうであるとしても、それを吉本の「体系」に落とし込む手間をかけなければ、そしてその作業に成功しなければ、安心できるものではない。

ことほどさように、『言語美』は難しい。でも、それ以上に、『言語美』は面白い。どんな点が、そしてなぜ、面白いのか。それはひとつには、この本の主張が、常識を打ち破ろうとしていることにある。吉本自身は、こう語っている。

それまでの文学批評の考え方でいえば「比較ならできないことはないけど、この作品の価値はこういうことで決まっちゃうんだよって言うのは無理なんだ」っていう既成概念があったわけです。ただ、僕はそんなことはないと。非常に本質的なとこだけで言えば、基本的に文学作品の価値は作者の価値、作者の持っているあらゆる技術から精神性までを含めたものの総和で決まるということなんです。つまり、文学作品の価値は(中略)“自己表出”という価値に最後は収斂していくと、そう僕は言い切っているわけですね。
(『吉本隆明 自著を語る』)

吉本の「体系」で、この「価値」の「総和」は、「感銘」の関数になるとみなされている。そして、この「総和」は、吉本の「体系」で、客観的に計算可能・比較可能なものとみなされている。『言語にとって美とはなにか』は、この計算のためのマニュアルなのだ。

それにしても、この常識との真っ向勝負は、どうしたって負け戦だろう。ロシアのフォルマリストたちが昔、似たような戦いを戦ったことがある。けれど彼らは、きちんと逃げ道を用意していた。ヤコブソンは、形式主義の分析では「詩を形づくっていると考えられる、微妙で捉えがたいあのいわく言いがたい何かを把握することが決してできない」という批判に対して、こう答えている。「そのいわく言いがたい何かは、言語活動、社会、生命、物質の神秘などの科学的研究においてもまた依然としてとらえがたいものなのである」(「詩学の諸問題」)。はなから、その気がないのだ。でも吉本は違う。吉本に逃げ場はない。なぜなら吉本は、感銘の源泉、すなわち「いわく言いがたい何か」のよって来るところを探るために、この勝負を始めたのだから。

でも、そんなことはたいした問題ではない。なぜなら、この本は面白い。楽しい。そして、笑いがこみ上げるほど、難しい。

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以上は吉本隆明『言語にとって美とはなにか』について漠然と考えていたこと。ちょっと書いてみた。後で直すかもしれない。

*1:もっとも竹田は引用部に続けて「しかしそういったことはここで、さほど重要ではない」と付言しているほか、「『自己表出』や『指示表出』という術語が、ほかのどんな言葉とも“交換”されないような『あいまいさ』を含んでいる」ことを認めつつ、同書で非常に踏み込んだ解釈を示している。その解釈は首尾一貫しており、とても参考になる。