ベンヤミンの翻訳論については考えたくない

私は四十二歳。人生の折り返し地点を過ぎている。ここらで、ベンヤミンの翻訳論について、ちゃんと考えなおしておかないとダメなんじゃないか。このまま死んだらやばいんじゃないか。そういう気が、近頃している。もう十二月だ。

去年から今年にかけて、ベンヤミンの名前は、「純粋言語」という言葉とともに、読んでいる雑誌などで、よく見かけた。でも、とりわけこの「純粋言語」という概念は、おおむね誤解されている。「純粋言語」は「普遍的な言語」ではないし、「理想的な言語」でもない。「聖なる言語」といったところで、トートロジーでしかないだろう。

こういう誤解や意味のない言い換えは、この言葉の出てくる「翻訳者の使命」というエッセイの難解さから来ている。そして、この難解さを受け継いだ日本語訳の難解さから来ている。

山城むつみユリイカ2010年1月号に書いた「来るべき万葉のプログラム」に、「翻訳者の使命」の日本語訳からの引用がある。よく知られたを比較したくだりだが、この引用された訳文は、どう考えても誤訳だろう。

面白いのは、山城が、この誤訳から、それなりに意味のある考えを引き出している点だ。いわゆる文芸評論を読んでいると、よくあることだ。間違ったからこそ生まれる面白みがある。文芸評論は、きっとこの面白みに賭けている。だから文芸評論は、その細部の誤りや事実誤認について指摘されても、びくともしない。よくいわれることだが、そのとおりだと思う。

けれど、ベンヤミンについていえば、多くの場合、それを引き合いに出した文章を、つまらなくするようだ。それはたぶん、「純粋言語」という、人間性という枠を逸脱した概念が、人間性の範疇で考えられているせいだ。こうした常識的発想は、ベンヤミンの規格外の思考に比べると、どうしても見劣りしてしまう。

ベンヤミンの「純粋言語」は、まだ、ベンヤミンの思考から切り離さない方がいいような気がする。切り離すのは、ベンヤミンの思考を、もうちょっと噛み砕いてからのほうがいいのだ。

その意味では、エッセイの全文を隅から隅まで読みとおす細見和之ベンヤミン「言語一般および人間の言語について」を読む』のような試みが、もっと出てくればいいと思う(この本は、ベンヤミンの翻訳論や言語論に興味のある者には必読文献だ)。翻訳ももっと欲しい。最近、三ッ木道夫が『思想としての翻訳』で「Die Aufgabe des Übersetzers」を訳しなおしているが、まだまだ、いくらあってもいいと思う。

ベンヤミンの翻訳論について自分なりに考えたことの一部が、だいぶまえに書いた「変な気持」(『群像』2004年6月号)という文章の一画を占めている。自分の足場を確認する意味を込め、ここにそれを引用する。

(高浜)虚子は、(中略)萩原朔太郎西田幾多郎らのように「俳句は翻訳できない」といったわけではない。(中略)俳句の翻訳は可能だが、それは無益だ。虚子はそういっている。(中略)これを別の面から見るとどうなるか。たとえば、俳句の翻訳可能性に、翻訳不可能性を見ること。両者は矛盾しない。それは、翻訳に対する虚子の見方が「厳密」であるからだ。「厳密」というのはヴァルター・ベンヤミンの言葉である。無論この「厳密」はある強い信仰に支えられている。この強い信仰が二つ目の系を要請したのだ。その意味で、無益な翻訳を考える虚子の態度は、翻訳可能性という言葉に両義性を見るベンヤミンのそれと相似している。「翻訳不可能なものの翻訳可能性」という言葉に逆説を見てはならない。二つの「翻訳可能性」は、属する系が異なっているにすぎない。ジャック・デリダは、この両者に別々の言葉を与えた、traduisibleとtraductibleである。ベンヤミンのいう「翻訳不可能なもの」とは前者の否定形、intraduisibleであり、その「翻訳可能性」とは後者、traductibleだ。では虚子のいう「翻訳が無益なもの」とは? ここでデリダにならって新しい言葉を与えてみたい、それはこうだ、「intraductible」。traduisibleな俳句はintraductibleである。俳句の翻訳可能性に、翻訳不可能性を見ること。俳句は翻訳できる、それゆえ翻訳できない。この「それゆえ」を「しかし」と取り違えてはならない。

簡単に注釈を加えるが、デリダは、そのベンヤミン論「Des tours de Babel」で、いずれも「翻訳可能性」を意味する「traduisible」と「traductible」という二つの言葉を区別して使っている。後者は、普通の辞書には存在しない。なぜ、デリダは、こんな言葉まで使って両者を区別するのか。それは、ベンヤミンのいう「翻訳不可能なものの翻訳可能性」という言葉を不必要に深遠な「逆説」と考えてしまうことを回避するためだ(「逆説」の多くは、概念把握の粗雑さから生じる)。上で著者はそう考えた。そして、デリダにならい、「翻訳不可能性」という概念と「翻訳の無益さ」という概念を日本語で分別している。それが日本語の文芸作品にとって必要だと考えたためだ。

右引用部に続いて、ヤコブソン批判が見える。その後、再度ベンヤミンの名前が言及されている。

ヤコブソンが逆接を通じて信仰を表現したとすれば、「翻訳者の使命」のベンヤミンは、順接を通じてそれを表現したといえる。

なぜ逐語訳することが純粋言語に近づくか。それは端的にその行為が「意味」を廃棄するからである。なぜ意味を廃棄する必要があるのか。それは意味がローカルなものだからである。ローカルというのは、人間的ということだ。意味とは人間の手垢のことだ。そして意味とは信仰であった。ベンヤミンは、この不十分な神学を神学的に廃棄する。人間の手垢にまみれた諸言語を洗浄すること。手垢の落ちた純粋な言葉そのものを求めること。つまり彼は一つの信仰を徹底している。見るべきはこの徹底性にある。ベンヤミンの逐語訳は、いわゆる直訳と呼ばれる、意味と手を切れない折衷様式とは無縁だ。

ベンヤミンについて考えていると胃が痛くなる。先日、胃潰瘍かと思って内科で調べてもらった。でも大丈夫だった。この痛み(ベンヤミン痛)は、いつも夕方ころに始まり、五六時間続く。そういう状態が三日続く。三日たつと、おさまる。規則性があるのだ。痛いのは嫌だ。だからベンヤミンについては、本当は考えたくない。でも仕方がない。あきらめるしかないだろう。