志賀直哉の日本語廃止論をめぐって

古本屋で雑誌『重力01』を見つけた。600円だった。すぐに買って読みはじめた。大杉重男森有礼の弔鐘――『小説家の起源』補遣」に瞠目する。志賀直哉の「国語問題」に触れていたからである。

「国語問題」は志賀直哉が1946年に雑誌『改造』に発表したエッセイ。日本語は「不完全で不便」であり、そのため「文化の進展が阻害されて」いるから、これを廃止して代わりに「世界中で一番いい言語」であるフランス語を採用してはどうかと主張するもの。その内容の奇抜さから、わりと有名な随筆である。

ただ、こういった意見を表明したのは、志賀が初めてというわけではない。「国語問題」にもあるとおり、初代文部大臣の森有礼が、『日本の教育』「序文」(1873年)等で、すでに似たようなこと――「日本の言語(the language of Japan)」の廃止と英語の採用――を提言している。

また、大杉の論考を読んで初めて知ったが、徳田秋声も同様の考えを持っていたらしい。「森有礼の弔鐘」から引かせてもらうと、「日本語にはこれと云つて懐かしい何にもがない」(「病床にて」1920年)。あるいは「生半熟なローマ字よりも、寧ろ日本の国語を英語なら英語に置換へてしまつた方が寧ろ英断かもしれない」(「作者の感想」1924年)とある。

大杉がここから引き出すのは、こういう考えだ。「秋声の日本語に対する冷淡な態度は、第二次大戦後に志賀直哉がフランス語を国語にするべきだと述べたことが、決して志賀個人の夢想ではなかったことを示している」(『重力01』p.235)。

そうだ、そうだ、と思った。

志賀の「国語問題」では、末尾、「日本人の血」という気になる言葉が顔を出す。「今までの国語に別れる事は淋しい事には違いないが、それは今の吾々の感情で、五十年、百年先の日本人には恐らくそういう感情はなくなっているだろう。吾々は日本人の血を信頼し、そういう感情に支配される事なく、此問題を純粋に未来の日本の為めに考えなくてはならぬ」。

ここにあからさまなことは、日本語と「日本人の血」との間にある断絶だ。換言すると、志賀にとって、日本語は、たとえば水村美苗が『日本語が亡びるとき』で熱を込めて語ったような「自分の魂と奥深くつながっている」(同書p.47)言葉、すなわち「〈自分たちの言葉〉」(同p.44)ではなかった、ということである。

これは何を意味するか。大杉によれば、これはすなわち「国語としての日本語あるいは言文一致に対する素朴な批判が、必ずしも国民=国家批判として有効ではないということである」『重力01』p.235〜236)。

「国民=国家批判」それ自体に格別の興味はないけれど、この「有効ではない」という指摘は指摘として正しいし、これには重要な内容が含まれていると思う。

ところで、志賀の「国語問題」に対するリアクションには、どういうものがあるか。以下、代表的な意見を見ていきたい。

賛同する声は、あたりまえといえばあたりまえかもしれないけれど、多くない。というより、大半の論者が批判的な見方を示している。その筆頭として、丸谷才一「当節言葉づかひ」(1973年、『日本語のために』新潮文庫所収)と鈴木孝夫『閉ざされた言語・日本語の世界』(1975年)を挙げることができる。

両者の批判は、発表の時期も近いが、共通点も多い。たとえば次の3点がそうだ。

  1. 日本語の欠点としてよく指摘される「曖昧さ」や「非論理性」は、日本語それ自体の問題ではない。それを使う人間の使い方が悪いだけだ。実際、志賀の「国語問題」の文章はひどい。「こんな調子で書けば(中略)フランス語で書いたつて、ろくな文章はできるはずがないのだ」(丸谷p.185)。「もし同じ議論を英語なりあるいはフランス語で書いたとしても、あいまいで支離滅裂な主張になることを私は疑わないのである」(鈴木p.26)。
  2. 「国語の切換へ」は「それ程困難はないと思つてゐる。(中略)朝鮮語を日本語に切換へた時はどうしたのだらう」と「呑気(のんき)なこと」をいう志賀は、「一民族が母国語を奪はれること」(丸谷p.185)の悲劇性に対して鈍感すぎる。これは丸谷の意見だが、鈴木もまた、ドーデの短編小説「最後の授業」を取り上げ、この作品が「母国語を奪われそうになる人々の悲しみと、死んでもそれを奪われまいと決意する、自分たちの言語への愛着を見事に描き出している」といい、こう指摘する。「日本以外の国では(中略)離すまいとする努力を一瞬たりとも止めれば、自分の言葉は持って行かれてしまうのだ。このような民族と言語の関係を比べると、日本人と日本語の関係は何んとのんびりとした無風状態であろうか。(中略)挙句のはてには、もっと便利で合理的な言語があれば取り換えた方が良いなどと、文部大臣や大作家までが言い出す始末なのである」(鈴木p.195)。ようするに、志賀には、国語の保持に関する危機意識がすっかり欠落している。
  3. 丸谷、鈴木はともに、志賀の文学者としての資質を疑問視している。「本来、一文明にとつて、その国語の最上の教師は文学者であるはずなのだ。(中略)しかし志賀に至つて、文学者は国語の教師であることをやめ、(中略)自分の生存の根拠を否定する説を吐くことになつたのである」(丸谷p.186)。鈴木はこう。「どこの国でも、自国語の美しさ、かくれた能力を目ざとく見つけ、歌い上げるのが詩人であり文学者なのである」(鈴木p.29〜30)。たとえばツルゲーネフは「祖国の悩み、文化の後れを国語のせいにするどころか、逆に祖国のことばが、遂には祖国を支え救う柱になることを信じて疑わなかったのである」(鈴木p.30)。それなのに志賀ときたらどうだ?というのである。

丸谷と鈴木で違っているのは、前者が志賀的な国語観を「専門家」(役人、学者、教員、文士)」特有の考え方だとしている一方、後者がそれを「多くの日本人が持つ」(鈴木前掲書p.35)ものとしているところぐらいだろう。

さて、「国語問題」に触れた文章で、こういうストレートな批判や悪口のほかに目に付くのは、その内容の突飛であることを前提としたうえで、志賀はなぜこんなおかしなことを言い出したのか、という問いを立て、その精神状態を慮るものである。この類では、志賀の奇矯な言辞の背景に「敗戦」体験があったとするものが多い。

たとえば高島俊男は、『漢字と日本人』(2001年)で、志賀の発言を「敗戦後の日本の一般的精神情況」(同書p.193)の反映であるとしている。「敗戦後の日本人は、これまでの日本はいっさいが邪悪でありまちがっていた、と思った」。そして「戦争にやぶれたのは(中略)せんじつめれば言語と文字がおとっていた」からだと考えた。志賀の「国語問題」も「意見としてはばかばかしい、あるいはたわいないもの」であるが、そういった「当時の日本の一般的な気分を知るにはよい材料である」(同p.195)。

あるいはもっと端的に、「敗戦といふ衝撃によつて生じた一時的な精神麻痺の悪戯」(福田恒存「国語問題論争史」1962年/土屋道雄「国語問題論争史」2005年、p.223)、「敗戦のショックによる一時の気の迷い」(金谷武洋『日本語に主語はいらない』2002年、p.19)とする見方もある。

だが、こうした志賀の発言の奇矯さの原因を単純に敗戦直後の動揺に求めることを躊躇させるような事実が存在する。

『日本語練習帳』(1999年)のコラム欄で、大野晋が、こういうことを書いている。戦前「簡潔な名文を書く作家として志賀直哉を深く尊敬」(同書p.106)していた自分は、戦後、「国語問題」を読み、「敗戦という未経験の混乱状態が(中略)この作家の心まで顛倒させ、こうした発言をさせるのだと」(同書p.108)思った。「ところが」それから11年後の「随筆サンケイ」に掲載された座談会でも志賀は同じことを語っているではないか!

大野はこの事実を知り、「深く尊敬していた」志賀直哉に対する見方を変えたようだ。同コラムで、鈴木孝夫同様、志賀の議論のおかしな点をいくつか指摘した後、「志賀直哉には『世界』もなく、『社会』もなく、『文明』もありはしなかった。それを『小説の神様』としたのは大正期・昭和前期の日本人の世界把握の底の浅さのあらわれであるでしょう」(同p.110)といっている。

志賀が「国語問題」以降も意見を曲げなかったことは、阿川弘之志賀直哉』(1994年)の下巻「国語問題」で詳細に論じられている。阿川によれば、志賀は、

そして『日本語練習帳』で大野晋が取り上げた

  • 「志賀氏を囲んでの芸術夜話」徳川夢声林髞辰野隆との座談会(1957年11月「随筆サンケイ」掲載)

これら3つの機会において「国語問題」と同じ主張を展開している。つまり、その主張は「一時の気の迷い」でも「一時的な精神麻痺の悪戯」でもなかったということである。志賀はどうやら「本気」であったのだ。

もうひとつ、阿川の指摘でちょっと興味深いのは、「国語問題」が発表された直後の時期において、この提言に対する「反応」を探しても、「あまり見つからな」かったということである(同書p.172)。この事実について阿川は、福田恆存『国語問題論争史』に記されるとおり、志賀の提案は「文豪の茶番として受流されてしまった」というのが「一番真実に近いのかも知れない」(同p.174)と判定している。

それでも阿川が唯一発見した「国語問題」発表直後の批判がある。それは、「日本評論」1946年6月号の特集「ことばの革命」中の一篇で、土岐善麿という人の書いた文章である。『志賀直哉』下巻p.177に記されたその要約を読むと、「英語国民となってしまった日本人が、どうして源氏物語を『今よりは遥かに多く』読むことが出来るのか」「日本語を捨てた日本人と、日本の古典との関係はどうなるのか」など、志賀の死後、鈴木孝夫が突くのと同じ点が早くも突かれていることがわかる。

さてここまで志賀の発言に対する批判的な意見をいくつか紹介してきた。そこで次は、擁護する側の考えを見たい。こちらは少ない。すぐに名前を挙げることができるのは、たったの二人だ。

うち一人は、『反=日本語論』(1977年)の蓮實重彦である。もっとも手放しの賛成ではない。こういっている。「もちろんわれわれは、志賀直哉とともにフランス語を国語として採用すべしなどとは間違ってもいいはしない。だがこの志賀の言葉たちは、間違ってはいないと思う」(ちくま文庫版p.273)。

蓮實は、志賀の意見がたんに「間違い」というにはあまりに「荒唐無稽」であることを確認し、その「荒唐無稽ぶり」に「圧倒的な現実感」(同p.274)があると指摘する。この「現実感」への感受性がもたらす「懐しさ」と、この感受性を保持した人間のみが思い描くことのできる「夢」――この「懐しさ」と「夢」という二つの言葉を軸とした蓮實の「『制度』的思考」批判(「制度」批判ではない)は、次の著作『表層批評宣言』で主題化されることになるのだが、そのことはひとまず措いておいて、ここでは別の側面に注目することにする。

それは、この批判の構図に志賀直哉を招き入れるにあたり、蓮實がとる応接の仕方だ。蓮實は、ある特有の仕方で、「国語問題」を読んでいる。

志賀が(中略)フランス語を国語として夢想することは、実はほとんど何も夢想していないのと同じことである。ただ、そこから逃れえないことを実践によって知っているだけに、「制度」としての「日本語」と「国家」としての「日本」とに対する苛立ちに捉えられ、その「制度」が「制度」として機能しえない理想郷を「フランス語」として思い描いてみたまでのことだ。
(『反=日本語論』ちくま文庫版p.274)

つまり蓮實は、志賀の「フランス語」を文字通りの「フランス語」としては、また、志賀の日本語廃止論を文字通りの日本語廃止論としては、読んでいないということだ。

大杉重男が「森有礼の弔鐘」で蓮實を批判するのは、この点においてである。蓮實重彦は、「志賀の言説を真剣に読んではいない」(『重力01』p.237)。

この大杉の見方は、はやり正しい。蓮實は、志賀の発言を真に受けていない。志賀直哉のテキストを、文字通り・字義通りの水準では、読んでいないのだ。そしてそのことによってようやく志賀を救い出している。

なぜ蓮實重彦は、志賀の発言を真に受けないのか。この姿勢は、おそらく、「作家が作品以外の場でなにを言おうとそれは批評の問題ではない」「小説家には断念すべきものなんかなにもない。どんなことを書いてよいし、なにをしてもいいし、里田まい的な無知さえが彼らには許されている」(「批評断念/断念としての批評」第十次『早稲田文学1』2008年4月、p.375)という意識と無関係ではないはずだ。

こうした蓮實の考え方について、いま詳しく検討する余裕はない。さっと確認できることだけ確認する。

まず第一に、蓮実は、「作品」と「作品以外」を区別できると考えている。

次に、「作品以外」は「批評の問題」には含まれないので「真に受ける」必要はないと考えている。

すなわち蓮實は、「国語問題」というエッセイを志賀直哉の作品の外部と判断し、それゆえ、これを文字通り・字義通りの層から離れたポイントで受け止めてよいものとみなしている。そして実際、蓮實は、志賀の言葉を真に受けていない。どのくらい真に受けていないかといえば、志賀が日本語は「不便」といっているにもかかわらず、次のような言葉を平気で書きつけてしまうほど、真に受けていないのだ。

飽きたからでも、厭けがさしたからでも、不便だと思うからでもなくそれを無上に快適な環境として住みついているが故に、あるとき「日本語」ならざるもののさなかで目覚めてみたいと思う書く人の夢。
(『反=日本語論』p.274、斜体引用者)

ここで蓮實は、「〈自分たちの言葉〉で書いている」(水村美苗日本語が亡びるとき』)人間一般に共有されたものとして、志賀の「夢」を考えている(蓮實は、志賀の「夢」とロラン・バルトが『記号の帝国』の冒頭で語る「夢」を同根のものと見ているはずだ)。しかし、志賀直哉の「夢」は、こうした一般的・普遍的な「夢」の規格から外れているように思われる。だから蓮實は志賀の言葉を「無害なものに作り変えている」(『重力01』p.237)という大杉の主張は――三度目の確認となるが――正しいといわざるをえない。

大杉重男は「志賀のフランス語採用論は真剣に考える必要がある」(『重力01』p.238)と書いている。『トラデュイール』第2号に載せた「志賀直哉『国語問題』再考」では、この大杉とは別の視点から、志賀の日本語廃止論・フランス語採用論について「真剣に考え」てみた。その際、手がかりのひとつとしたのが、もう一人の志賀直哉擁護者、中上健次の発言である。中上はある対談で、志賀直哉について、「ドップリ浸かってる毒の意識」があったのではないかと語っている。この「毒の意識」を、蓮實のように言語一般の問題としてではなく、あくまで日本語に固有の問題として考えた。そして同時に、「国語問題」を、たんなる放言としてではなく、あくまで志賀の創作と密接なつながりを持つものとして考えた。「志賀直哉『国語問題』再考」は「翻訳論」として書いたが、日本の文芸について「真剣に考える」のなら翻訳論とならざるをえない、そういうつもりで書いた。

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翻訳とフランスに関するフリーペーパー『トラデュイール』第2号
2010年11月30日発行
A4・16頁(コピー本)
内容:
■翻訳論…中井秀明 「志賀直哉『国語問題』再考」
■オピニオン…西野幸博 「学校教育への『翻訳』の導入の提案」
■書評…『日本の翻訳論 アンソロジーと解題』(法政大学出版局
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