一九五九年型リアリズム――「語り得ぬもの」を語るやり方としての

佐々木敦『絶対安全文芸批評』に宮崎誉子の短編集『三日月』の書評があった。読んですぐ、宮崎作品の核心にとても近い場所に触れていると思った。佐々木は「記号的」という言葉を使っている。『三日月』に収められた「脱ニート」では、「靴下のことが色々書かれてあっても、それは読者に親切な『描写』とか『説明』を甚だ欠いていて、いうなれば『靴下』はただの単なる交換可能な記号として処理されている」。また登場人物も「常に完膚なきまでに表層的で、つまり実のところ誰一人として『人間』としての生彩を持たされておらず、すなわち記号的なのだ」。的確な指摘というべきだろう。問題はその先だ。こういっている。「おそらく、このやり方でしか『労働』という『人間』の営みを真に描くことは出来ないと宮崎誉子は考えているのだ」。

佐々木は、「このやり方」を選んだ宮崎誉子の「聡明さと誠実さを俺は百パーセント肯定する」というのだが、しかし、「このやり方」で「『労働』という『人間』の営みを真に描く」とは、どういう意味だろう。人間をこんなふうに記号的な存在に変えてしまうのが労働の現実なのであり、その労働の現実が、人物や物事を記号的なものとして描くという「聡明さと誠実さ」をもって活写されている、ということだろうか。つまりリアリズムだ。でももしそうだとしたら、この内面を欠落させたリアリズムが二十一世紀の今日において小説で追及されていることの意味が問われざるをえない。じっさい『群像』二〇〇七年十月号の創作合評で文芸評論家の伊藤氏貴が、「内面を持たない世代を表層的に描くのであれば、小説という表現手段は正しいのだろうか」という「根本的な問題」を提起している。佐々木は、ここまで素朴な視点をとっているのではないはずだ。なぜならこの視点をとるとすれば、宮崎誉子に対して「誠実」とは形容できたとしても、「聡明」とは形容できないからである。だとすれば、佐々木は、宮崎誉子の「聡明さ」ということで、いったいなにをいおうとしているのか。

その答えは、たぶんこうなる。宮崎誉子は、いわゆるリアリズムの作家なのではない。「真のリアリズム」の作家なのだ。換言すれば、言葉の記号性によってしか描けない現実があるということ。

「真のリアリズム」――江藤淳の言葉である。

その江藤に「リアリズムの源流」という有名なエッセイがある。

日本のリアリズム小説が坪内逍遥二葉亭四迷の写実論に端を発するという通説を「いったい理論があってそれから小説ができる、というふうにものごとが進むものだろうか?」といって退け、正岡子規高浜虚子の「写生文の運動」に着眼したこのエッセイは、画期的なものと見られているし、影響力も強い。たとえば柄谷行人日本近代文学の起源』、大塚英志『キャラクター小説の作り方』が、この江藤の論考から明らかに多くの養分を吸収している。さらには後者大塚の著作を手掛かりに最新型のリアリズム論を展開する東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生』にまで、その影響力の範囲を広げることができるかもしれない。

しかし、では、江藤が「リアリズムの源流」を「写生文の運動」に見出す、その根拠はなんだろう。じつはそれはもっぱら、文章の「『活(い)』き」の問題にかかっている。江藤によれば、逍遥の実作『当世書生気質』、そして二葉亭『浮雲』第一篇の文章は「『活(い)』き」ていない。逆に、子規・虚子の手になる創成期の写生文は「『活(い)』き」ている。

この「『活(い)』き」という概念は主観的に響くし、じじつ中村光夫などは、やはり二葉亭の評論「小説総論」に見られるこの「『活(い)』き」という言葉を引き合いに出して、『浮雲』第一篇の文章が「全作を通じてもっとも『活きて』い」ると記していたりもする(『二葉亭四迷伝』)。が、ひとまずは江戸期以来の旧弊な漢文体や戯作調の「枠がはずれた自由さを感じさせる」文体の特性をさしていると考えていい。エッセイの中身を読む限り、こうした江藤の立論に格別の問題はないように思える。けれど、それは、江藤の手が、通説を覆すプロットを成立させるにあたり、二つの重要な歴史的事実をそっくり落としているからだ。

秋九月中旬というころ、一日自分がさる樺(かば)の林の中に座していたことがあッた。今朝から小雨が降りそそぎ、その晴れ間にはおりおり生ま煖(あたた)かな日かげも射して、まことに気まぐれな空ら合い。あわあわしい白ら雲が空ら一面に棚引くかと思うと、フトまたあちこち瞬く間雲切れがして、むりに押し分けたような雲間から澄みて怜悧(さか)し気(げ)に見える人の眼のごとくに朗(ほがら)かに晴れた蒼空がのぞかれた。自分は座して、四顧して、そして耳を傾けていた。木の葉が頭上で幽(かす)かに戦(そよ)いだが、その音を聞たばかりでも季節は知られた。それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌(しゃべ)りでもなかッたが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であった。

これは二葉亭が翻訳したツルゲーネフ「あひゞき」の冒頭部である。『浮雲』第二篇と同じ明治二十一年に発表されたこの翻訳は、言文一致の創始として名高いものだ。子規の「小園の記」や虚子の「浅草寺のくさぐさ」の文章を「『活(い)』き」ているというのなら、これもまた「『活(い)』き」ているといわざるをえない、そういう性質の文章でつづられている。ところが江藤は、「リアリズムの源流」で、この翻訳に、奇妙なことに、まったく触れていないのだ。

比較のため、江藤が「『活(い)』き」ている文章の実例として引用する「小園の記」の一節を次に掲げる。こちらの成立は明治三十一年である。

つぐの年、春暖漸く催うして鳥の声いとうらゝかに聞こえしある日病の窓を開きて端近くにじり出て読書に労れたる目を遊ばすに、いきいきたる草木の生気は手のひら程の中にも動きて、まだ薄寒き風のひやひやと病衣の隙を侵すもいと心地よく覚ゆ。これも隣の嫗よりもらひしといふ萩の刈株寸ばかりの緑をふいてたくましき勢は秋の色も思はる。真昼過より夕影椎の樹に落つる迄何を見るともなく酔ふたるが如くうつとりとして日を暮らすことさへ多かり。

つまり江藤は、子規・虚子による「写生文の濫觴」に十年先立ち、「文壇から大きな驚異をもって迎えられ、藤村、独歩、花袋、蘆花のようなやがて新しい文学の世代を形づくる若い作家たちには、『浮雲』以上に清新な感銘をあたえ」(中村光夫『日本の近代小説』)、さらには「わたしたちがいま用いている日本語の原型とでもいうべきもの」(高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』)を達成したともいわれる「あひゞき」の存在を、その文章の「『活(い)』き」にもかかわらず、完全に無視している。これが「リアリズムの源流」第一の欠落である。

次、第二の欠落だが、それは、子規と逍遥の接点である。江藤は、子規と虚子のリアリズム観の相違について触れた部分で、「子規は、期せずして逍遥にかなり近いところに立っていた」と書いている。でも、これはほんとうに「期せずして」といえたかどうか。「叙事文」に「実際の有のまゝを写すを仮に写実といふ。又写生ともいふ。写生は画家の語を借りたるなり」とあるとおり、子規の写生論が中村不折ら洋画家たちとの交流によって育まれたことはよく知られているが、その未完の随筆「天王寺畔の蝸牛廬」を読むと、子規が逍遥の『当世書生気質』に対し、「極度に達した」「驚きと喜び」を感じていたともある。「書生気質を見た時に文章の雅俗折衷的なる所から、趣向の写実的でしかも活動しておるところから、其上に従来の小説の如く無趣味なものでなく或る種の趣味を発揮しておるところから、何れ一つとして余を驚かさぬものは無かった」。「其上に坪内氏は小説神髄などいふ書物に自己の思ふ所を議論的に発表せられたので」、「この議論と実際の小説と相待つて非常に我心を動かした」。そういうわけで子規は逍遥に「ぞつこん惚れ込んで仕舞た」というのである。

ここで、これら二つの欠落の意味をただちに裁断する前に、別の角度からも切り込みを入れておくことにする。

江藤は、同じ写生文の運動にあっても、子規のリアリズム観と虚子のそれとの間には本質的な違いがあったといい、その「証拠」として、虚子の随筆「写生趣味と空想趣味」に記された有名な「夕顔の花」論争の話を持ち出している。表題中「写生趣味」とは、「夕顔の花」の「形状等目前に見る」ものから生じる感興のことで、これは江藤の言葉を借りれば、「自然科学の客観性」に依拠した鑑賞の産物である。他方「空想趣味」とは、「源氏以来の歴史的連想」に支えられた花の美しさを意味する。虚子によれば、子規は、後者「空想趣味」を切り捨て、もっぱら「写生趣味」で満足することができると主張した。これに対し虚子は、「空想的の感じを除き去る」ことには「何処迄も不平であつた」という。

このエピソードは虚子の証言に基づくもので、事実かどうかわからないのは無論だけれど、そのことはどうでもいい。いま吟味しようとしているのは、両俳人のリアリズム観ではなく、江藤淳のそれである。江藤はいう。言葉の持つ連想を「排斥」せよという子規において、「言葉は言葉としての自律性を剥奪されて、無限に一種透明な記号に近づくことになる」。しかし、はたして言葉はそんな「純粋な記号」でありえるだろうか。そうでありえるというのは「一種のイデオロギー的誇張」ではないか。「言葉が言葉(自然言語)にとどまるかぎり、それは決して過去からの連想を完全に脱却することはできない」。

江藤はここで、じつにまっとうなことをいっているように思える。でもこれは、この話に至るまでの江藤の論述の流れからいえば、ちょっとおかしな言い分なのだ。

というのもこのエッセイの前段で江藤は、病膏肓に入る子規の写生論に「悲壮な心境」を読み込み、子規が「ものに直面し、それをとらわれぬ眼で認識」し、それを描くために写生という「新機軸」を打ち出したと主張していたからである。

この主張によれば、むしろ言葉は、江藤の唐突な正論と逆に、「無限に一種透明な記号」でなければならないはずである。「連想」は、こうした直接的な認識を曇らせるものでしかない。そして、もし言葉が「透明な記号」でありえないのなら、「もの」を描くという意味でのリアリズムは、ついに不可能ということになる。それなのに江藤は、子規の主張をイデオロギーと断じ、リアリズムの土台を崩しかねないこの「連想」、すなわち言葉の曇り、濁り、乱反射を擁護する虚子の側に就く。江藤のロジックは、ここで奇妙に折れ曲がっているように見える。けれどそうではないのだ。

問題は、江藤のリアリズムの対象である「もの」にある。江藤は、その最初期の理論的著作『作家は行動する』において、「ことばでいいあらわせないから、いわないですませる。これは日常生活者の論理である。ことばでいいあらわせないから、いわなければならない。これが文学者の論理である」と書いている。つまり「リアリズムの源流」の江藤は、この「文学者の論理」を子規の写生論に重ね合わせているのだ。写生とは、江藤によれば、「崩壊のあとに出現した名づけようのない新しいものに、あえて名前をあたえようとする試み」である。ようするに江藤のいう「もの」とは、ただの「もの」、客観的に記述可能な「もの」ではない。それは、ロマン主義以来の芸術理論でおなじみの、あの、「語り得ぬもの」をさしている。そういうことだ。

この「語り得ぬもの」の表現論の横に、前述した二つの欠落、「外発性の排除」の一語に要約できる欠落を並べ、考えると、「リアリズムの源流」で江藤がいわんとしていたことが、たんに、「リアリズムの源流」は「写生文の運動」にあった、ということではなかった、ということがわかる。そうではなく、江藤は「リアリズムの源流」を、言葉の不可能性に直面した個体の内側に起因する自発的な表出への意志、あるいは危機と認識と表現をめぐる臨界の出来事として描き出したかった。そういうことがわかるのだ。

江藤は、この「語り得ぬもの」を語るリアリズムを、『作家は行動する』において、「いわゆるリアリズム」とは異なるものとして、「真のリアリズム」と呼んでいる。この二つのリアリズムが、後年の「リアリズムの源流」において、子規と虚子のリアリズム観の相違として捉えなおされている。江藤によれば、子規流の「いわゆるリアリズム」は、そもそも言葉が透明になりえない以上、不可能である。けれど江藤のいう「真のリアリズム」にもまた、常識的にいって、不可能性が刻印されている。なぜならそれは、「名づけられぬものに名前をあたえること」であるからだ。けれど江藤は、このアプリオリな不可能性を解消するためのやり方をちゃんと用意している。どんなやり方か、見たい。

虚子は前掲「写生趣味と空想趣味」で、写生とは眼前の景色を機械的に写すことではないといっている。写生とは、「作者の脳中に醸し成された空想趣味の働き」に従って、「目前に在る数限り無き事実」の中から特定の「事実を探り出す事」だ。ここで虚子は正当にも、写生には不可避的に意思的な選択が伴うと指摘しているのだが、この意思的な選択を支える「空想趣味の働き」のことを、江藤は「リアリズムの源流」で、さりげなく、「想像力の作用」という言葉で引き取る。「この撰択が、結局想像力の作用によっておこなわれるのであってみれば、『写生』そのものがすでに想像力を内包するとしなければならない」(強調引用者)。この言葉は、またもや読み手を江藤淳一九五九年の著作に引き戻すことになるだろう。『作家は行動する』にこうある。「真のリアリティーはイメイジによってしかとらえられない」。つまり「真のリアリズム」は「想像力の作用」によって実現されるということだ。

『作家は行動する』の江藤淳は、サルトルの『想像力の問題』を踏まえ、イメージ発生の契機をこう説明する。「眼の前にあるものをみようとしたらイメイジは生まれない。イメイジはものをみないことによって生まれる」。ところで「ものをみる」とはどういうことか。それは、「ことばの構造を通じてまわりにある客観的な実在を認識すること」である。そして「ことば」とは、江藤にとって、あるがままの現実、「多面的な、立体的な構造をもった現実(中略)を、ひとつの『平面』と錯覚させる」「『わな』」である。こうした「ものをみる」態度を基調とした「日常生活は一つのフィクションにすぎない」。しかし、この虚構的な「日常生活のある瞬間に、われわれはある違和感におそわれること」がある。この「違和感」を抱くとき人は、あるがままの「現実の世界に接触しかけている」。この「現実の世界」を表現すること、それこそが文学者の仕事だと江藤は考える。けれど、これは事の性質上「ことば」によっては表現できない。ではどうすればいいのか、「ことばの『わな』」から逃れるには。簡単なことだ、「ものをみる」ことをやめればいい。これが江藤の答えだ。「ものをみないこと」、すなわち「想像力」を行使して「イメイジをつくりだす」こと。これによって「文学者と読者」は「ともに現実に到達する」ことができる。

ここにおいて、「文体」の持つ意味もまた明瞭なものになるだろう。江藤の考えで「文体」とは、「個々に孤立しようとする恣意的なイメイジの自己運動を抑制」し、それらに「秩序や統一や運動をあたえ」、「主導的なイメイジ」の周囲に組織することによって、それを「ひとつのヴィジョン」にまで高めるための工夫だ。すぐれた小説とは、こうした「文体」を備え、「現実」の「ヴィジョン」をもたらす、「真のリアリズム」に立脚した小説のことをいう……。

以上が「想像力」と「真のリアリズム」をめぐる江藤の思考の大筋である。これがひどくありふれた考え方に見えるとすれば、それは、この江藤型リアリズム思想の形骸が、いま、まるでひとつの基本的了解事項みたいに、日本の文学的環境にあまねくいきわたっているからに違いない。たとえば「二十一世紀型リアリズムの可能性を語り合う」とリード文にうたった座談会「『リアリズム小説』への挑戦状」(『文學界』二〇〇八年七月号)で、「いわゆるリアリズム」系ではない小説家たちが一様に、自分はリアリズムのつもりで書いているといい、一九五九年型リアリズムの申し合わせを再確認している。あるいは「新しい言葉」と「新しい現実」のカップリングに「新しい文学」の可能性を読み込む読み方や、現代詩みたいな「自己表出」(吉本隆明)の勝った表現の背後に「語り得ぬもの」を透視するクレヤボヤンス的読解も、このリアリズムに包含されるといっていい。佐々木敦が、宮崎誉子の作風について、「このやり方でしか『労働』という『人間』の営みを真に描くことは出来ない」というのも同じだ。宮崎誉子は人やモノを記号的に描いていて、「いわゆるリアリズム」の手法を採用していないけれど、じつのところこれこそが「真のリアリズム」なのであり、彼女はこの「真のリアリズム」を採用することで、「子どもだって毎日が『労働』」という意味での「労働」の「ヴィジョン」を作り上げている。佐々木が宮崎を「聡明」と形容しているのは、こういう意味においてだろう。

こうした思考のパターンそれ自体は、べつに江藤淳が開発したものではない。たとえば小林秀雄が一九三五年、「私小説論」の末尾にこう記している。「私小説は亡びたが、人々は『私』を征服したろうか。私小説はまた新しい形で現れて来るだろう。フロオベルの『マダム・ボヴァリイは私だ』という有名な図式が亡びないかぎりは」。この有名な小林の図式のもとでは、あらゆる非私小説的な企て、反私小説的な企てが、そうであることをもって、ぜんぶ私小説になる。つまり「真の私小説」となるのだ。この豊穣すぎて不毛な図式が江藤のリアリズム論にあるというのでは、もちろんない。江藤は「いわゆるリアリズム」ではない作品をぜんぶ「真のリアリズム」と呼んでいるわけではない。たとえば「インテリゲンツィアの自己表現」を批判する江藤が「自分にとっての現実」(円城塔)なんていう言い草を認めるとは思えない。けれど、江藤のリアリズム論から、彼が「真のリアリズム」をえぐりだす論証の過程をそっくり欠落させて、その構えだけ、すなわち非リアリズムを「真のリアリズム」へと機械的に読み替える図式だけを借りだせば、その借り主は、あれにもこれにも安心して適用できる、高度にジェネリックな評価ツールを手にしたことになる。

宮崎誉子の小説に対して「真のリアリズム」、円城塔の小説に対して「自伝的」とレッテルを張るのは簡単なのだ。おまけにそれは、「絶対安全」な内輪の言葉として、過不足なく文学的な言説を構成する。これを安直な思考といって批判するのは、けれど、同じくらい安直なことだ。「そんなところに落ちこんではいけない」。江藤型の思考を涵養する土壌、その条件をこそ、問いたい。


注記:引用元で傍点が振られている言葉は太字で示した。