ベンヤミン「翻訳者の使命」を読みなおす(1)――「常識的な翻訳観を疑う」

湯浅博雄『翻訳のポイエーシス』に収められた「翻訳についての考察を深めるために」という70ページ余りの論考。ベンヤミン「翻訳者の使命」の読解を梃子に展開されるこの論考から抽出可能な命題に、次の二つがある。 1.文学作品は語り得ぬものを語る。 2…

波動言語論、あるいは煙幕としての言語について

吉本隆明が亡くなってすぐ、新潮と朝日新聞に、中沢新一が追悼文を書いていて、どちらも読んだ。吉本の言語論に触れたくだり、うなずける部分とうなずけない部分がある。 吉本さんは『言語にとって美とはなにか』以来、言語を「指示表出」と「自己表出」とい…

哲学の欺瞞性――國分功一郎『暇と退屈の倫理学』から考える

國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を読んで、「退屈の第三形式」をめぐる議論に興味を持った。國分によれば、ハイデッガーは『形而上学の根本諸概念』で「退屈」を次の通り三つの形式に分けている。(※以下、「ハイデッガーは」とあるのは「私の読んだところ…

声を水に流す――朝吹真理子『流跡』の話法について(後編)

(承前)朝吹真理子の小説『流跡』は、一見、次のような構成をとっている。「プロローグ」→「本編」→「エピローグ」つまり、一人の語り手がいて、その語り手が前口上を述べ、物語を語り出し、やがて語り終え、最後再び顔を出す。この場合、作品は2つの層から…

声を水に流す――朝吹真理子『流跡』の話法について(前編)

幸田文の小説『流れる』は、こう始まっている。「このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった」。ふつうの日本人であるならば、この文を読んで、格別のひっかかりを覚えることはないはずだ。けれど、このとてもやさしい短文も、これを…

吉本価値論への批判

吉本隆明の「像」概念を批判する文章を書いている最中だった。以前書いた「山崎ナオコーラの論理学(ロジック)」という文章から、「言語にとって美とはなにか」の「価値」論を批判した部分を引用しておきたい。***さて、いまから、この吉本の価値概念を…

複雑系翻訳論

※ 以下の文章には高野和明『ジェノサイド』についてのネタバレが含まれます。 機械翻訳についてきちんと勉強したいなあ、と思いつつ、なかなかまとまった時間が取れないので、文献だけ集めて木村屋アンドーナツ食べながらパラパラ拾い読みしているのだけれど…

震災文学その期待の地平――「時局と文脈」のためのメモ

地震のあと、なんとなく、というのまで含め、それとの繋がりを感じさせる小説が、続々文芸誌に掲載されている。まるで「震災」「原発」というお題が出ているかのような盛況ぶりだ。以下の作品を読んだ。 高橋源一郎「日本文学盛衰史 戦後文学篇(17)」(群…

「作者の死」?――ロラン・バルト雑感その3

ロラン・バルトが描いてみせた「作者の死」の光景には、作者の死体と並んで、批評家の死体が転がっている。 ひとたび「作者」が遠ざけられると、テクストを<解読する>という意図は、まったく無用になる。あるテクストにある「作者」をあてがうことは、その…

『表徴の帝国』の誤訳――ロラン・バルト雑感その2

バルトの著作の翻訳については、とりわけ日本に紹介され始めた頃の翻訳のひどさがよく指摘される。前出のユリイカ2003年12月増刊号では、やはり松浦寿輝が宗左近訳『表徴の帝国』その他いくつかの書名を挙げ、「ああいう欠陥商品を平然と刊行して本屋に並べ…

小説を書かないことの幸福――ロラン・バルト雑感その1

澄み切った秋空がひろがっている。今朝から何も食べていない。空腹の中、山崎ナオコーラのエッセイ「小説を書くに当たって」(文學界10月号)を読んだ。小説が人間を描くこと、小説家が人間であることが、ともにいさぎよく否定されている。なんておもしろい…

死の恐怖をめぐって――中島義道、大江健三郎、森岡正博を中心に

ホリエモンが収監される前、あるインタビューで、こんなことを語っていた。 ボクは6歳の頃から、死について考えていました。いつか死ぬ、明日かもしれない。そう考えると怖い。でも気付いたんです。考えるから怖い、考えなければ怖くないと。しかし何かの拍…

ベンヤミンの中動態、ヘイドン・ホワイトの誤解

中動態というのは印欧語に見られる態のひとつで、それがどのようなものかといえば、その名の通り「能動態と受動態の中間にある態」ということになる。用語自体は古典ギリシャ語の文法に由来するようだが、実例を挙げれば、ラテン語の「受動形式動詞Deponenti…

ジュリア・クリステヴァが読むジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』

楽しみにしていたジョナサン・リテル『慈しみの女神たち』の邦訳がついに出た。さっそく読んだら面白くて腰が抜けた。そして、悪い意味ではなしに、もやもやした。この「もやもや」刺激部について、世の読書人はどう読んでいるのか知りたいと思った。書評な…

「雑誌『新しい天使』の予告」(4)

最終回。最後の二つの段落を読む。この雑誌を制約するもうひとつの制約と、その制約の帰結について。また、この雑誌が『新しい天使』と名付けられていることの意味について。「この私」が、雑誌の統一性の妨げであると同時に、いやそれゆえに、雑誌の統一性…

「雑誌『新しい天使』の予告」(3)

第6段落と第7段落。ここで主に語られているのは、対象を論じる際の姿勢と、書き手の資格についてである。とりわけ、哲学的および宗教的取り扱いの重視、そして哲学的および宗教的普遍性と科学的普遍性との違いを掴むことが読解のポイントとなる。ベンヤミン…

「雑誌『新しい天使』の予告」(2)

第3段落から第5段落までを読む。掲載される文章のジャンルが三つ示されている。「批評」と「創作」と「翻訳」。ベンヤミンの説明は極めてロジカルだ。既存の翻訳でかすんで見える部分、いくらかコントラストを上げてみた。***まず何よりも、批評。アクチ…

「雑誌『新しい天使』の予告」(1)

ヴァルター・ベンヤミンは、1921年、『新しい天使』という名前の雑誌を構想していた。この名前は、同年彼が手に入れたパウル・クレーの絵からとられている。結局、この雑誌は実現しなかったのだが、ベンヤミンは、短くも密度の濃い、かつ非常に示唆に富んだ…

それを「主語」と呼ぶのは自由――柳父章『近代日本語の思想』、金谷武洋『日本語に主語はいらない』、鴻巣友季子「朝吹真理子 アテンポラルな夢の世界」

文芸誌『群像』の三月号で、マイケル・エメリックという日英翻訳家と柴田元幸が対談をしている。一か所、ふつうに読めば、奇妙なやりとりがある。 エメリック (……)日本語には時制が無いと言われます。完了形が基本で過去形がないので、自由に「〜であった…

やはり「た」は「過去形」ではない――藤井貞和『日本語と時間』、熊倉千之『日本人の表現力と個性』、そしてトマス・ハリス『羊たちの沈黙』

今から十年以上前、妻の妊娠を機に会社を辞め、二人でフランスを一か月ほど旅行した。ニースを拠点にコートダジュールの観光名所をいくつか巡り、アルル、アヴィニョン、リヨンと北上し、最後の十日間ほど、パリで過ごした。一か月はあっという間だった。帰…

誤訳は何故なくならないのか――ポール・ド・マン、ジャック・デリダ、ヴァルター・ベンヤミン、山城むつみの交点

誤訳はなぜなくならないか。理由はいくつか考えられる。けれど、この問題を考える上で、まず除外しておかなければならないものをひとつ挙げておく。それは、「あらゆる翻訳は誤訳である」という考え方だ。この命題の根には、「翻訳とは、異なる言語に属する…

吉本隆明『言語にとって美とはなにか』について

吉本隆明の『言語にとって美とはなにか』は、若い頃なんとなく避けていたけれど、三十半ばを過ぎた頃、読んでみて、こんな面白い本はないというくらい引き込まれた。噛めば噛むほど味が出てくる本という気がする。 吉本隆明の文章は、独得の用語と体系のなか…

ベンヤミンの翻訳論については考えたくない

私は四十二歳。人生の折り返し地点を過ぎている。ここらで、ベンヤミンの翻訳論について、ちゃんと考えなおしておかないとダメなんじゃないか。このまま死んだらやばいんじゃないか。そういう気が、近頃している。もう十二月だ。去年から今年にかけて、ベン…

志賀直哉の日本語廃止論をめぐって

古本屋で雑誌『重力01』を見つけた。600円だった。すぐに買って読みはじめた。大杉重男「森有礼の弔鐘――『小説家の起源』補遣」に瞠目する。志賀直哉の「国語問題」に触れていたからである。「国語問題」は志賀直哉が1946年に雑誌『改造』に発表したエッセイ…

一九五九年型リアリズム――「語り得ぬもの」を語るやり方としての

佐々木敦『絶対安全文芸批評』に宮崎誉子の短編集『三日月』の書評があった。読んですぐ、宮崎作品の核心にとても近い場所に触れていると思った。佐々木は「記号的」という言葉を使っている。『三日月』に収められた「脱ニート」では、「靴下のことが色々書…

翻訳の成立に先立つ決定の過程について――加藤典洋、そしてクワインを手掛かりに

文芸評論家の加藤典洋がいま文芸誌「群像」に連載している「村上春樹の短編を英語で読む」は、そのタイトルから想像される内容に反し、英訳の出来が吟味される機会がじつは少ない。例外は第5回。この回で加藤氏は、村上春樹の最初期作品「ニューヨーク炭鉱の…

村上春樹の翻訳可能性

まえに宇野常寛が書いた前田塁『紙の本が亡びるとき?』の書評(群像2010年5月号)を読み、そこに、「『翻訳され得る文体/され得ない文体』の峻別こそが日本文学の課題であると示唆する」とあるのを見て、へえー、と思った。でも、これまで読まずにいた。た…

自動翻訳機が実現しない理由、エッセンスのナンセンス、物語に拮抗する文体――平野啓一郎×西垣通×前田塁「テクノロジーと文学の結節点」を読む

文學界2010年1月号の鼎談「テクノロジーと文学の結節点」(出席者は、平野啓一郎、西垣通、前田塁)を読んだ。おもしろかった。ここで取り上げたいのは「自動翻訳」をめぐる前田塁の発言。前田は二つの可能性を問う。1.「全自動翻訳機が機能する時代が来る…