いぬのせなか座の山本浩貴氏の9月3日のツイートを読んで

https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1168920007088201728 https://twitter.com/hiroki_yamamoto/status/1168929362797826050 まず思ったのは、「こう書いたら世界がこう見えている魂をつくることができる」というのは産出性/再現論の対立とは独立…

吉本隆明のフォルマリズムと自由

フォルマリズム的な「日常言語」と「詩的言語」の二項対立はきれいな二項対立になっていない。この二元論を通じて定義される「詩的言語」は端的な「詩的言語」ではなく、「詩的な日常言語」であるにすぎないのである。この事実はあまり意識されない。だから…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(7)

月報エッセイの内容は、そのほぼすべてが「こことよそ」に取り込まれている。フロイトの夢の話も別ではない。けれどエッセイを締めくくる、右に引いた段落の要諦と言ってもいいかもしれない、中段のよじれた文による記述は別かもしれない。「私はむしろ今の…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(6)

大晦日、(中略)私は夜七時、駅から御成通り商店街を抜けてバス通りに出た、(中略)道は商店の明かりはなく街灯だけだから深夜のように暗い、(中略)笹目の停留所を過ぎると私はここを大学五年の元日、夕方六時すぎに家から駅に向かって逆向きに歩いてい…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(5)

日の光の届かない、現世から切り離された穴底の、抽象空間のような舞台のような、そこには大晦日、夜、鎌倉のバス通りを駅から実家に向かって歩く六十歳の「私」の孤立した、鮮明な像があらわれている。この「私」は死んだ尾崎のお別れ会に出て以来、谷崎の…

幽体離脱とカフカ――保坂和志の認知モードについて

保坂和志の『未明の闘争』に語り手の「私」が自分のことをまるで他人みたいに突き放した文が出てくる。「ママの玲子さんが専務と芳美さんと私のところに挨拶に行った」というのがそれなのだが、渡部直己「今日の『純粋小説』」によれば、丹生谷貴志が書評で…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(4)

一九八二年九月十六日、レバノンのパレスチナ難民キャンプにキリスト教系の武装集団が侵入し、無差別の殺戮行為に手を染める。イスラエル軍の後ろ盾があったと言われているが、彼らは三昼夜にわたりキャンプの住民をひたすら残虐なやり方で殺し続けた。この…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(3)

作品はこの段落で閉じられている。ここに出てくる「死んだ尾崎」というのは話者の「私」が「二十代の前半に関わっていた映画の仲間」の一人で、かつて「横須賀の暴走族のアタマだった」と語られる人物だ。映画の撮影があった一九八〇年、何度か「私」と道で…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(2)

この作品は、話者の「私」が年の暮れ、「谷崎潤一郎全集の月報にエッセイを書いてほしいという依頼」を受けたという話で幕をあける。「エッセイの趣旨は作品論的なものでなく個人的な思い出のようなものということだったから『細雪』のことを書こうかと思っ…

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論

保坂和志の短編小説「こことよそ」は楕円形だ。独創的におかしな文が出てくる。保坂和志の作品に露骨におかしな文があらわれ始めたのが『未明の闘争』からだということをわたしたちは知っている。しかし、この長編に出てくる文のおかしさは、まだおとなしい…

中動態の新たな神秘化――國分功一郎『中動態の世界:意志と責任の考古学』

かつて印欧語には「中動態」と呼ばれる態が存在した。この態が能動態と対立していた。しかしそれは今はもう失われてしまった。代わりに受動態が能動態に対立している。エミール・バンヴェニストが「動詞の能動態と中動態」で示したこのような見立てを基本的…

写生の第三形式――貞久秀紀『雲の行方』

言語には存在と使用の二つの面があって、その二つの面のそれぞれにさらに二つの面がある。だから言語の存在、言語の使用というだけでは足りず、言語の言語的存在、言語の言語的使用といわなければならない。言語の非言語的存在とは言語を一般的な事物と同等…

DeepL Translatorはどうなのか

「グーグル翻訳より格段にいい」というふれこみのDeepL Translator。ちょっと試してみたけれど、どうも本当っぽい。去年グーグル翻訳が新しくなってすぐに試した英仏翻訳で不出来だった文が、だいぶまともなふうに訳された。 17) 原文:He was laughed at. G…

盗まれた身体――奥村悦三『古代日本語をよむ』

堀江敏幸「土左日記」現代語訳の面白み。「貫之の緒言」と「貫之の結言」、そして括弧を使って本文に組み込まれた沢山の自注。「十六歳の日記」みたいだ。でも実際の「土左日記」には緒言も結言も注記もない。だから「原文にない」、「創作だ」といいたくな…

ベンヤミン「雑誌『新しい天使』の予告」を読む

ヴァルター・ベンヤミンは、1921年、『新しい天使』という名前の雑誌を構想していた。この名前は、同年彼が手に入れたパウル・クレーの絵からとられている。結局、この雑誌は実現しなかったのだが、ベンヤミンは、短くも密度の濃い予告文を残している。ベン…

新しいグーグル翻訳と翻訳者の失業

仕事が一段落したので、話題の新Google翻訳を試してみる。まずは古典的な例文を投入。上が入力、下が出力(以下同様)。 1) He saw a woman in the garden with a telescope. 彼は望遠鏡で庭の女性を見た。 おー。 2) He saw a woman with a hammer. 彼はハ…

こねこ文、あるいはシニフィアンとシニフィエの結合不良

互盛央「蓮實重彦のイマージュ、反イマージュの蓮實重彦」を読む。工藤庸子編『論集 蓮實重彦』に収められた文章のひとつで、蓮實重彦「「魂」の唯物論的な擁護にむけて」を主題的にとりあげている。この蓮實の論考、90年代の初め5号まで刊行された雑誌、ル…

「AIが翻訳の不可能性に気付く日」へのトラックバックのご紹介(追記あり)

「AIが翻訳の不可能性に気付く日 - 翻訳論その他」という以前のエントリにトラックバックいただいたのでご紹介しておきます。どっちも面白い。 少し前の「ちゃんとした自動翻訳はやっぱり無理じゃね?」という懐疑論も面白かった。 (AIに何ができるか、何を…

内包と外延――写真と俳句のシステム論的素描

畠山直哉の写真集『気仙川』の「あとがきにかえて」に「絶対的な写真」という言葉が出てくる。写真は、第三者が「写真として」みれば「どうということもない」ものであっても、それを撮影した本人には、個人の記憶とのつながりにおいて、この上なく大切なも…

「こなれた日本語」の弊害(追記あり)

こなれた日本語。って言い方? ありますよね。翻訳文について言われるやつ。まあ、誉め言葉。の一種。なのかしらん? 「来年度の日本のGNP成長率は四%前後になります」 という発言に対して、 「Oh, it's too optimistic!」 という反応があった場合、田中さ…

AIが翻訳の不可能性に気付く日

中央公論4月号で人工知能研究者の松尾豊氏が「ほんやくコンニャク」は「夢物語ではない」と書いている。「研究自体は5年〜10年で一定のメドがつき、10年〜15年後には実用化できるかもしれない」。じつは今から10年前、リアルタイム自動翻訳は「あと5年で実現…

「移人称小説」と「いぬのせなか座」

「移人称小説」というレッテルがピンと来なくて。命名したのは渡部直己だが、次のように書いている。 ここにひとつ、昨今の小説風土の一部にかかってなかなか興味深い(中略)現象がある。/一種の「ブーム」のごとく、キャリアも実力も異にする現代作家たち…

「フランス語のウナギ文」再び

高田大介さんのブログ記事「うなぎ文の一般言語学」に触発された。以前書いた「フランス語のウナギ文」の続きを書くことにする。まずは念のためウナギ文の実例を挙げておこう。死後の世界で交わされたやりとりとして読んでもらいたい。 A:それで皆さんは何…

日本語は論理的ではないし、文法的でもない――森有正「現実嵌入」再考

1976年にパリで客死した森有正は哲学者であったが、自らの哲学についてはまとまった著作を残していない。完結していれば主著となったかもしれない『経験と思想』も尻切れとんぼだ。いくつか印象深い概念を提示し、繰り返し語っている。でも内容はどれも似た…

難解さとは別の仕方で

山崎ナオコーラの小説の、物語性の薄さ、弱さ、物足りなさ。とにかく、それが淡いことには定評がある。大きな事件が起こらない。時間は右から左に、きびきびと流れていく。なにも起こらないわけではない。もめごとやごたごたはある。けれど、こうした些細な…

日本の言語の起源の補綴

古事記の序の終わり近く、撰録方針について太安万侶の記すところ、「上古之時 言意並朴 敷文構句 於字即難」とある。「昔の言葉は、その形式と内容において、今よりもずっと素朴であった。そのような言葉を文章化するのは難しい」という意味に解される。であ…

日本語のための第三空間――主語論の余白に

日本語文法学会編『日本語文法事典』(2014年)では「主語」の項を3つ立てている。そのうちの1つに、「日本語に主語はないという主張は、主語を専ら統語上の概念だと決めてかかる観点に立つものである」(p.267)とあって、ちょっと考え込んでしまった。とい…

あまり魂が入つてゐないもの

年末から元日にかけて、保坂和志の『小説の誕生』を読んでいたのだが、小島信夫の「裸木」と梶井基次郎の「檸檬」の文章を比べていた。「裸木」は「檸檬」に似てないとある。でもそれをいうならむしろこうじゃなかろうか。「裸木」は「檸檬」にだけは似てな…

独我論批判――永井均とそれ以外

妻のジュード・ロウVHSコレクションに『AI』があって観た。ジュード・ロウ演じるジゴロ・ジョーはセックス・ロボットだ。動きが少々ぎこちないけれど、見た目は人間と変わらない。当然、心もあるように見える。けれど、殺人の濡れ衣を着せられていた彼がラス…

アントワーヌ・ベルマンの二つの著作と、ある新鮮なベンヤミン論

最近アントワーヌ・ベルマンが国際哲学コレージュで行ったセミナーの記録が相次いで日本語に翻訳された。『翻訳の時代』と『翻訳の倫理学』である。読んでみたら、どちらも相当に面白かった。以下その感想のようなもの。まずは『翻訳の倫理学――彼方のものを…