暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(6)

 

晦日、(中略)私は夜七時、駅から御成通り商店街を抜けてバス通りに出た、(中略)道は商店の明かりはなく街灯だけだから深夜のように暗い、(中略)笹目の停留所を過ぎると私はここを大学五年の元日、夕方六時すぎに家から駅に向かって逆向きに歩いていたのを思い出した、私はそのときまさに『異端者の悲しみ』を読んでいた、その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった。

太字で強調した言葉を読んで、そこまで分かりにくいとは、だれもあまり感じないだろう。この言表では、分かりにくいことが分かりにくいのである。動作主に注意して、段落内を先立つ箇所から読んでくると、この言表において「その記憶」を「すごくリアル」に感じているのは、「六十歳」の「私」であると思われる。そして、「逆向きに歩」いているのは、「大学五年」の「私」であると思われる。では、続く「六十歳のいまを思い出しているようだった」のところで、このように「思い出しているよう」であるのは、二人の「私」のうち、どちらか。

わたしたちが分からなくなるのは、ここで、だ。そしてこの箇所で分かりにくさは、遡行的に、言表の全体に波及していくようだ。

ここで、思い出すという心的作業は、「逆向きに歩きながら」行われているわけであるから、逆向きに歩いているのが「大学五年」の「私」であるとすれば、「思い出している」のもそれと同じ、「大学五年」の「私」なのではないか。そう考えるのが素直だ。でもこの解釈は、意外な不都合を呼びこんでくる。というのも、この解釈では、「大学五年」の「私」が「六十歳のいま」の「私」のことを「思い出している」ということになってしまう。つまり過去の自分が、その時点から見て未来にあたる現在の自分のことを想起していることになってしまう。これはおかしい。わたしたちには、「思い出す」という言葉の定義を変えない限り、未来のことを思い出すことができないからだ。それでは、ここで「思い出しているよう」であるのは、「大学五年」の「私」ではなく、もう一方の「私」、つまり「六十歳」の「私」である、そう考えればいいのか。そうかもしれない。じじつ「その記憶」を「すごくリアル」に感じているのが「六十歳」の「私」なのであるとすれば、文脈上こちらの読み方にも一定の確からしさを認めることができる。けれど、この読み方をしても、それに伴う現実的な不都合を排除することは、やはりできないようだ。「六十歳のいま」の自分が「六十歳のいま」の自分のことを「思い出している」という状況を成立させる可能性はきわめて低い。

つまり「その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった」の意味するところの解は、この言表の外部であるところの言語外現実に頼ることよっては、すんなりと導き出すことができない。見たように、二つある解釈のうち、どちらをとっても言語外現実の成り立ちに反することになってしまうからである。

ところで「思い出している」という表現は言い切りではない。助動詞「ようだ」を伴っている。いま、この「ようだ」を推定の意味にとっている。どうやら「六十歳のいまを思い出している」らしかった。そういう意味にとっているのである。しかしもちろん、この助動詞は喩の表現と見てもいいはずだ。その場合、意味はこうなるだろう。あたかも「六十歳のいまを思い出している」かのようだった。この喩の読み方に依拠すれば、言語外現実に反していることは解釈上、大きな問題となりえないのではないか。たしかにそうだ。しかし、これでも問題が消えうせるわけでないのは、先の場合とまったく同じだ。もし「思い出しているよう」であるのを「大学五年」の「私」とすれば、「その記憶」を「すごくリアル」に感じているのも、この「大学五年」の「私」ということになり、当初の解釈と齟齬を来たす。また、もし「思い出しているよう」であるのを「六十歳」の「私」とすれば、「逆向きに歩」いているのも、この「六十歳」の「私」ということになり、同じように当初の解釈と齟齬を来たす。つまり解は、文脈によっても導くことができない。どちらの解釈を選んでも、必ず言表内部のどこかに抵触してしまうからである。

この言表は、二つの解釈、二人の「私」のうち、どちらか一方が自己に対してすんなりと選ばれることに全身で抵抗している。そしてそのことを通じて、「六十歳」の「私」と「大学五年」の「私」、時を隔てた二つの存在者が区別できなくなるような現実を、その言語の体内に埋め込んでいる。そのような現実を、分かりにくく分かりにくいこの言表は、分けることができないというその異端的な分かりにくさにおいて、ひそかに体現しているのである。いったい作者はこの異様な現実の像、見慣れない、新しい現実の像を、どこから、どのようにつかみとってきたのだろうか。

このような問いを立てることに、どこまで、どのような意味があるのか、そのことさえ、いまのわたしたちにはもう、分からなくなっている。異様な現実をあらわす言語の背中に、それに相関した外部の実体を探ることは、すでに諦めている。言語の外部は、個々の文や、個々の文と作品の総体とが交わす交信の線が、網状に広がる構造が、事後的に、規約的に産み落とす虚の塊りだ。そういう立場にすでに立っているからである。それでも、谷崎潤一郎全集の月報に保坂和志が書いたエッセイ、「大晦日の異端者」の結びに次のような箇所のあることは、忘れずに指摘しておかなければならないことである。わたしたちのとる立場の揺らぐことがあるとすれば、それは、この箇所が作品の外部に存在していることによるほかないと思えるからである。

フロイトが「夢が願望充足であるとするなら、中年期以降になって若く貧しかった頃を夢に見るのはいかなる願望充足と考えればいいのか?」という問いを立てて、自分でそれに答えているが、私はむしろ今の自分の方こそ、考えのなかった二十代の自分が見ている夢かもしれない、いや、おまえはそうであることを望んでいるに違いない、あの年をまたがる、いつもよりずっと暗く閑散としたバス通りをあっちに向かって歩くうちにこっちに向かって歩いていたことに気づいていないのだ。

 

(続く)

暗いバス通り――保坂和志「こことよそ」論(5)

 

日の光の届かない、現世から切り離された穴底の、抽象空間のような舞台のような、そこには大晦日、夜、鎌倉のバス通りを駅から実家に向かって歩く六十歳の「私」の孤立した、鮮明な像があらわれている。この「私」は死んだ尾崎のお別れ会に出て以来、谷崎の『異端者の悲しみ』を読み続けている。大学に通い始めて五年目の「私」もまた、そのころ、そうしていた。「『異端者の悲しみ』を読んでいた」。大晦日の夜の、鎌倉のバス通りを孤立した像として歩く六十歳の「私」は、この符合に重ね、大学五年の自分が元日の、やはり夜、同じバス通りを逆向きに歩いていたことを「ありありと思い出す」。「こことよそ」の読者であるわたしたちは、これとほとんど同じ内容をあらわす無意志的想起の記述を、この箇所に至るまでにすでに二度、読んでいる。先におそるおそる披瀝した考えによれば、この作品でこのような反復には、話者の記憶のネジを巻きなおし、作者の思いに圧潰されそうな文のつらなりを前へ、前へと押し出していく推進の力を備給する、大切な役割が与えられているのであった。しかし三度目にあたる右の条りには、先立つ二度の記述には見られない、ある新しいエレメントが付けくわえられている。段落の終盤、「思い出した」、「読んでいた」と続くタ形終止の連鎖を超えて末尾にあらわれる、「その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった」という言表がそれである。この言表がその場に作り出す作品構造の破れ目に、わたしたちの目は吸い寄せられる。この言表は分かりにくい。この分かりにくさは、作中他の箇所において文のおかしさとして現出するそれとはまったくちがう種類のものであり異質だ。この異質さにおいてこの言表は、作品を構成する他の一切の部位から自己を分離し、突き放し、遠ざけているようだ。そこに破れ目が生じている。作品構造に破れ目を作り出すこの言表の呈する、その異質さについて考えなければならない。それはどのようなものか。それはひとことで言える。分かりにくいことの分かりにくさ。

というのも作中ここ以外の箇所に見られる文の分かりにくさは、分かりにくいとはいうけれど、ほんとうは分かりやすいものだった。そのことには二重の意味がふくまれている。第一にそれは、分かりにくいことが判明であるという意味において分かりやすいものだった。なんだか分かりにくい、どこかおかしいというのではなく、あからさまにおかしい、だれの目から見てもおかしい、そういうものだった。そして第二にそれらの文は、一定の手間ひまをかけることによって、その分かりにくさを相当程度、縮減できるという意味においても、やはり分かりやすいものだった。本質的に分かりにくいものではないということである。そこに書かれてあることを精密にたどり、精密に理解することはできないけれども、言語それ自体から目を逸らし、ぼんやり空を見上げているうち、綿雲状のセマンティクスが脳内にふわりと降りてくる、文の字義的な意味を確定することはできないけれども、状況や場面や知識や文脈、つまり文の外部を参酌し、推論を働かせることによって、意味の近似的な解を手にすることはできる、そういうものだった。たとえば冒頭に引用した「こことよそ」の一節は、次のように書き換えることで、たぶん近似的な解とすることができる。

蛯ガ沢は申し訳程度とはいえ昼はホテルのベッドメイキングとか清掃とかメンテナンス全般を請け負う会社の蛯ガ沢はたしかもう社長だったか、それともまだ専務だったか、はっきりしたことは分からないが、とにかく昼はその仕事に出る

削除した語句は見え消しにした。補った語句は太字であらわしている。元の文では「昼は」の出てくる位置が滅法おかしい。この書き換えが最良でないとしても、それはこの、おかしさの核心にあるものが伝われば十分だという判断だ。たぶん作者の偽装された無垢の意識の内部では、引用した箇所の言葉がひと塊りになって、無時間的な思いの一単位を形成している。それが日本語の文の自然な統辞構造を踏まえ、表出の自然な時間軸にあわせて整序されるよりも先に表出されている。この不自然さに作為的な努力の痕跡を見てとることが可能だ。わたしたちにはふつうこのようなことができない。このように思いの自然に無理して忠実であることが文の自然を捻じ曲げていると考えたとしても、もちろん、すでにいっておいたとおり、この無理を聞き入れようという強い意志が、作者の意識の部分か、作者の無意識の部分か、どこかにあるのだ。元の文では、こうした思いつきの「昼は」の位置が日本語の自然な文構造に抵触し、加えて「蛯ガ沢は」の重複が文に余計なねじれを作り出し、「昼は」の係り先を行方不明にしている。それを直した。それを直したと考えることがわたしたちには許されると思う。だから逆にいえば、分かりにくい分かりにくさとは、このような修正や書き換えが本質的に許されないものから滲み出す文の特質である。

つまり「その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった」という言表は、このような書き換えを許さない。この言表に備わる厳格な曖昧さが、それを許さないのだ。この曖昧さは、状況や場面や知識や文脈、つまり文の外部を動員することで、分かりやすく分かりにくい文のようには、晴らすことができない類のものである。厳格な曖昧さの厳格とは、そのような意味を持つものであり、そしてそのような意味を持つかぎりにおいて、この曖昧さは正統性を欠いている。文の正統的な曖昧さは、意味の解釈に対し、二つであれ、三つであれ、もっとであれ、複数の可能性を等分に用意する。それは、そのような形での意味の分析可能性を決して手放そうとしないから、解釈者は、いずれかひとつの解釈を選び切ることができない。正統的な曖昧さである多義性は、このような性状を持っている。でもいま注目している「こことよそ」の言表は、このような形で、分析可能なひとつならずの意味をその内部に併存させたものではない。つまり、ひとつの意味を選び切れない、というのではない。ひとつの意味も取り出すことができない。わたしたちには、異端的な、厳格な曖昧さを抱えたこの言表――「その記憶はすごくリアルで私は逆向きに歩きながら六十歳のいまを思い出しているようだった」――に含まれる「私」が、「大学五年」の「私」なのか、「六十歳」の「私」なのか、どうしても確定することができないのである。

 

(続く)

 

幽体離脱とカフカ――保坂和志の認知モードについて

保坂和志の『未明の闘争』に語り手の「私」が自分のことをまるで他人みたいに突き放した文が出てくる。「ママの玲子さんが専務と芳美さんと私のところに挨拶に行った」というのがそれなのだが、渡部直己「今日の『純粋小説』」によれば、丹生谷貴志が書評で「これを『私』の『幽体離脱』と評している」そうだ。ところで作家本人は――これもやはり渡部直己の指摘にあるけれど――『未明の闘争』の刊行にあわせて行われた磯崎憲一郎との対談(「小説はなぜおもしろいのか」)で、「記憶の中の『私』はかなり『彼』に近い」と語っている。「記憶の中の自分は大体三人称で出てきている。よっぽど正確な記憶の部分じゃないと、一人称では出てきていない」。さらに保坂氏は、若竹千佐子との対談(「人の心は一色ではない」)でも、「考えてみたら、自己イメージって幽体離脱的なもので、『俺』と言った時一人称だけど、人は必ず自己像を外からの目で見ている」と、まさに「幽体離脱」という言葉を使い、自己をめぐる想像の見えについて説明している。つまり保坂和志幽体離脱的な書き方は、その幽体離脱的な自己イメージに対応している。前者の対談で、磯崎憲一郎保坂和志の言葉に対し、「普通、そういうのは文章の異化効果と思われがちなんだけど、実はそっちのほうが現実に近い」と応じているけれど、この「現実」という言葉を借りていえば、保坂和志の書き方には――これまた渡部直己のいうとおり――「現実」的な根拠があるということになる。

たとえば「こことよそ」で描写される夢の情景には、「人は必ず自己像を外からの目で見ている」という幽体離脱的な視野の「現実」がだいぶ色濃く反映しているように思われる。《見られる私》が出てくるのだ。

夢は明るい広い長い校舎の廊下を内藤と長崎とコウ子さんがこっちに向かって弾むように歩いてくるのから始まった。三人が先頭で三人の後ろには映画の仲間がパレードのようにつづいている、私はそのパレードの一員でもあり、先頭の三人の一員でもあり、廊下のこっちからみんなが来るのを見ている十九歳でみんなの中の最年少でもあった、私はただこっち側から見ているのではなくこの光景を記録するために見ている、そして先頭の三人の一人でもある、先頭は内藤と長崎とコウ子さんと私の三人だ。

実際、保坂氏は、夢の想起をめぐる「現実」について、かつて次のとおり語ってもいた。 

夢を思い出そうとすれば、夢の中で自分は現実と同じように見て聞いて行動していたはずなのに、途端に〈私〉としての姿が与えられ、映画の一場面のようにして〈私〉は思い出す自分自身によって見られつづける。

保坂和志『世界を肯定する哲学』)

さて、じつはわたしは、自己イメージをめぐる保坂和志の言葉――「人は必ず自己像を外からの目で見ている」――を読んで、ちょっとびっくりしたのだが、それはなぜかといえば、自分についての記憶や想像において、そして夢を思い出す場合であっても、自分自身が客体として姿をあらわすことが、わたしの場合、皆無だからである。つまりわたしの想起や想像は常に一人称視点をとっている。《見られる私》は出てこない。自己像が見えたり見えなかったりは、人それぞれということか。自伝的記憶における視点のありようについては、本多啓『アフォーダンスの認知意味論』に、次のとおり、ニグロとナイサーの分類を紹介している箇所がある。

Nigro and Neisser(1983)はエピソード記憶における想起のモードに二種類あることを指摘している。想起の際、人は記憶のなかに自分自身の姿を見ることがある。これは、想起者としての現在の自分が観察者または第三者の視点から過去の自分を含むシーンを眺めたものである。このような想起のモードを「観察者の記憶(observer memory)」と呼ぶ。それに対して、その出来事を経験したときと同じ視座からシーンを想起する場合があり、これを「視野の記憶(field memory)」と呼ぶ。

(本多啓『アフォーダンスの認知意味論――生態心理学から見た文法現象』)

保坂和志エピソード記憶は「観察者の記憶」が大半を占めているのに対し、わたしの場合、ことごとく「視野の記憶」になっているということだ。どちらの想起モードがとられるかについては、森田健一「幼児期記憶とその連想記憶における想起視点」等を参照すると、体験された出来事の性質やその時期に応じた傾向性が見られるようだが、このあいだ読んだ濱田英人氏の論文「日英語話者の視点構図と事態内参与者の言語化/非言語化」には、日本語話者の場合、「視野の記憶」のほうが「優勢」とあった。日本語話者は「I認知モードによる事態把握が基本」だからというのが、その理由である。

この「I認知モード(Interactional mode of cognition)」というのは、中村芳久氏の提唱する概念で、認知主体が対象や環境に没入し、それと一体化するような態勢をとって行う事態把握のことをいう。「私たち認知主体」が「ヒトとしての身体を有する」という事実、そして、「私たち認知主体は、なんらかの対象を観ているのではなく、そのような対象とのインタラクションを通して認知像を形成している」(「認知モードの射程」、坪本篤朗・和田尚明・ 早瀬尚子編『「内」と「外」の言語学』所収)という事実に立脚し、もっぱら「観る・観られ関係」に基づくラネカーの視点構図(標準的視点構図と自己中心的視点構図)に欠けている「身体的インタラクション」の側面を認知の構図にはっきりと取り込んでいるところに、この概念の肝がある。

そしてもう一点、特記しておきたいのは、この主観的な認知モードの構図が、いわゆる独我論の構図に酷似しているという事実である(『アフォーダンスの認知意味論』に「認知言語学が独在論的であるという批判は、必ずしも目新しいものではない」という指摘もあるけれど)。中村氏によれば、「私たちが外界に存在すると思っているもの」はすべて「実際は認知の場の中の存在であり、認知像でしかない」(同前)。また、「いわゆる世界は、認知主体の外にあるようでもあり、認知主体の内部にあるようでもある」ともいわれ、こうした認知の成り立ちが「主客未分」のインタラクションと名指されている(同)。中村氏は、このIモードこそが「私たちの認識の本質により忠実」(同)であるとしているけれど、これを読んで、わたしなど、どうしても永井均の言葉を思い出してしまう。「まったく虚心坦懐に、事態をあるがままに捉えることができるならば、独我論ないしはそれに類する世界の捉えかたは、端的な事実そのものの素直な受容であって、哲学者の作り出した屁理屈でも深遠な形而上学でもない」(永井均「独在性と他者」)。

さらに中村氏は、「原初的」とも形容されるこの認知モードに加え、そこから「移行」した、もうひとつの認知モードについても述べている。「認知の本質がIモード、あるいはそれに近いものであるにしても、Iモードによって私たちが何らかの外界とインタラクトしながら構築している認知像を、客観的存在として信じこむ性向が私たちにはある」(中村前掲)。構築された認知像にすぎないものを客観的存在とみなすこうした認知モードは「Dモード(Displaced mode of cognition)」と呼ばれる。こちらのモードでは、「認知主体としての私たちが、何らかの対象とインタラクトしながら対象を捉えていること(認知像を構築していること)を忘れて、認知の場(中略)の外に出て(displaced)、認知像を客観的事実として眺めている」(同)。この「信じ込む」だとか「忘れて」だとかいう言い回しも、なんだか面白い。

中村論文では、これら二つの認知モードが日英両語の表現形式に対照的に反映していると主張されている。具体的には、日本語はIモードが強く反映した「Iモード型言語」であり、英語はDモードが強く反映した「Dモード型言語」であるという。ここで反映というのは、たとえば英語話者が窓から外を眺めて「I see a mountain.」と発話するような状況で、日本語話者が「山が見える。」といい、「私」を言語化しない傾向にあるのは、山を見ている「私」が視野に入ってこないIモード認知の反映であり、逆に英語話者が「I」を言語化しているのは、Dモードのメタ認知が反映していると考えるものである。

で、濱田英人氏の論文に話を戻せば、濱田氏は、日本語では、事態をありのままに把握するIモード認知が、現在の出来事のみならず、過去の事態把握にもそのまま適用されることを文例を挙げて確認している。そして、そのことを踏まえて、日本語話者では、メタ認知的な「観察者の記憶」が主とならず、客体的な自己像の現れる余地のないIモード的な見えに対応する「視野の記憶」が「優勢」になるというのである(なお、濱田氏は、日本語話者においては、「私」が言語化されないことに加え、話し手と聞き手による「共同注意」が成立している対象事物も言語化されないことにも注目している)。

先ほど参照した森田健一氏の論文「幼児期記憶とその連想記憶における想起視点」に記された調査結果を見ると、実際には日本語話者であっても「観察者の記憶」を持つ場合が少なくないことがわかる。ただしフロイトがいうように、幼児期の記憶が「観察者の記憶」であるのは、それがありのままの記憶ではなく、「なんらかの加工を受けたことの証拠とみなすことができるかもしれない」(「隠蔽記憶について」)。また、森田氏が同論文で考察するとおり、「幼児期の出来事はもはや"自分の体験した出来事"として当時のまま想起されることは難しく、それゆえ断片的に記憶しているイメージを、家族からの情報や写真を手がかりに膨らませて作り上げられた(すなわち"再構成された")からだ、という解釈も出来るだろう」。

幼児期の記憶において後者の可能性のありえることは、保坂和志も意識していて、『世界を肯定する哲学』の中で、「〈記憶〉によって自分のアイデンティティが保証される」という考え方に対し、「それは本当だろうか」と疑問を投げかけている。「〈エピソード記憶〉にしても、幼年期のものとなると親や親戚から聞かされたエピソードによって構成されていることが多い」。そして、この種の――「厄介なことに」――伝聞に基づいていながらそのことが意識されにくい記憶を「伝聞記憶」と呼び、「私は毎日庭に出ていって池の鯉を手摑みしていた」と言語化できる記憶について、こういっている。

伝聞記憶の場合、私には自分が池まで歩いていく映像は見えているのに、池で泳いでいる鯉の映像の方は見えていない。これは逆でなければおかしい。私に見えているのは、池の鯉の方で自分の姿であるはずはない。伝聞記憶では、記憶の中の映像は語り手[=母親(引用者註)]の視点によって構成されていて、私自身の目が見ていたはずのものは欠落している。

保坂和志『世界を肯定する哲学』)

ところが保坂氏は「もう一つ厄介なこと」があるという。どういうことかといえば、

実際の記憶の方でもほとんどの場合、自分の姿が第三者からの視点のようにして構成されていることだ(ただし実際の記憶の場合には、それと同時に自分自身の目が実際に見ていたものの方も残っている)。

(同前)

整理すると、保坂和志の場合、「伝聞記憶」はすっかり観察者の記憶としてあるが、「実際の記憶」も純粋な視野の記憶とならず、観察者の記憶の骨格と、遺存した視野の記憶との二重写しになることが多い。そういうのである。そしてそういわれてみれば、先に引用した「こことよそ」の夢の情景も、Dモード的な、まじりけなしの観察者の記憶となっておらず、Iモード的な視野の記憶の残像が、そこかしこ高度に溶け込んでいるようだ。たとえば「こっちに向かって(中略)歩いてくる」等の「こっち」には、身体的インタラクションを伴ったIモード的な事態把握が明瞭な形で反映している。でもとりわけ注目すべきは、最後に出てくる「先頭は内藤と長崎とコウ子さんと私の三人だ」という奇態な表現だ。末尾に記された人数がふつうに「四人」であれば文句なく、まじりけなしのDモードといえる。でも「三人」だ。これは《見られる私》が「私」として言語化された直後、人数を数える段になり、この「私」が《見る私》として迅速に視野の外に引っ込んだからに違いない。この文があらわしているのは、IモードとDモード、二つの認知像の混淆したようすである。情景の中に入りきってもいないし、そこから抜けきってもない、作中の、夢の「私」のありようは、保坂和志により想起された記憶の「私」の現実を忠実になぞっている。そう思われる。

保坂和志の記憶は、磯崎憲一郎との対談で語られるとおり、よほどのことがないかぎり、純粋に自己の視点から見られた「視野の記憶」という形をとらない。これだけでも視野の記憶オンリーのわたしには興味深いが、『世界を肯定する哲学』ではその先に、もっと興味深いことが書いてある。

もし純粋な自分の記憶というものにこだわるのなら、すべてが自分の目で見た視野ということになって、(中略)そこには自分自身の姿は自分の視野に入ってくる手や足の一部分ぐらいしか残らないことになるかもしれないが、そういう映像は記憶として残しておいてもナンセンスだし効率が悪い。

(同前、強調は原文では傍点)

「効率が悪い」というのは措くとして、こんなふうに保坂氏が、視野の記憶に「ナンセンス」とレッテルを貼っていることは、いろいろなことを考えさせる。ひとつはこういうことである。

この世界には「意識の超難問」と呼ばれるものがあって、それは、「なぜ私はほかでもないこの私なのか?」というような《私が私であること》をめぐる問いのことなのだが、この問いは、この世界のだれにとっても等しく真面目な問いになりえるわけではない。「もし自分がブッシュ大統領であったら」というような反実仮想出生の想定に意味があると考える、そのような感性を持った人間にとってしか、正当な問いとして成立しない。「ほかでもない」という気分は、「ほかでもありえたはずなのに」という気分を前提とするからである。以前書いた記事でも引用したように、渡辺恒夫は、反実仮想出生を想定することに意味がないと感じる人と、意味があると感じる人とでは、「想像力の働かせ方に違いがあるのではないか」といっている。

前者[=意味がないと感じる人]は、「私」を対象化し、霊魂のような「モノ」としてブッシュ大統領の身体に移入することで、反実仮想出生想定を行う。後者[=意味があると感じる人]は、「私」が渡辺恒夫でなくジョージ・ブッシュである一点を除けば寸分違わぬ世界を思い描くことで、反実仮想出生想定を行う。前者が自己を対象化するのに対し、後者は世界の方を対象化する。

(渡辺恒夫『〈私の死〉の謎』)

つまり、反実仮想出生に意味がないと感じる人は、Dモード的な観察者の立場で事態を想像するのに対し、意味があると感じる人は、Iモード的な主観的視野のもとでそれを想像するのではないかということである。観察者の記憶が記憶想起の主調をなし、視野の記憶による見えをナンセンスと言い切る保坂和志は、反実仮想出生についてどう思うだろう。やはりナンセンスと考えるだろうか?

視野の記憶をナンセンスという言葉を読んで、もうひとつ考えるのは、独我論に対して保坂和志が示す、あの軽蔑的な態度のことである。保坂氏の書くものでは、独我論的思考に向けて、一貫して「中学生みたい」(『小説、世界の奏でる音楽』)だとか、「幼稚にも程がある」(「鉄の胡蝶は夢と歳月に記憶は彫るか」)だとか、悪しざまな言葉が浴びせられている。こうした独我論嫌悪と、「視野の記憶」に対するネガティブな評価には、つながりがあるのではないか。

というのも、すでにいったように、視野の記憶の見えに対応するIモードの認知構図は、永井均の言葉でいう「独我論ないしはそれに類する世界の捉えかた」にそっくりなのである。保坂和志が視野の記憶をナンセンスと退けるのは、独我論的思考を小馬鹿にするその態度と整合している。保坂氏はたぶん、ある種の思考がとるIモード的な、主客未分の態勢が気に入らないのだ。

保坂和志がよく槍玉に上げるのは「自分が死んだら世界もなくなる」という考え方である。厳密にいえば保坂氏は、本来性質の異なる「世界は私の作り出したもの」(私>世界)タイプの独我論と、「世界と私は密着している」(私=世界)タイプの独我論とを一緒くたに扱っているのだが、「私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける」(『世界を肯定する哲学』、強調は原文)ということを「実感するために小説を書いていく」(同)という保坂氏にとっては、「私」が「世界」より大きかったり、「私」が「世界」と等号で結ばれたりする関係は、どちらも同じ資格で否定の対象だ。ラッセルの世界五分前仮説が『小説、世界の奏でる音楽』で「馬鹿馬鹿しい」と一蹴されるのも同じ。この仮説では、「自分が生まれる前からこの世界があったということに確実性を与えられない」し、「自分が死んだ後もこの世界がありつづけることにも確実性を与えられない」(強調は原文では傍点)からである。「哲学だけでなく芸術を含めて何か考えたり表現したりすることにとって必要なことは、自分の確実性を検証したりそれに根拠を与えたりすること以上に、この世界が確かにあると実感することであり、この世界が自分が生まれる前からあり、自分が死んだ後もありつづけることを実感することだ」。こうした信条を抱く保坂氏にとって望ましい「世界」と「私」の関係は、《世界>私》という形をとる。

注意したいのは、保坂氏が独我論的な思考を否定するのは、それが観念論だからではないということである。そのことは、保坂氏が荘子の「胡蝶の夢」に魅かれていることからも明らかだ。「いまここにいる自分という存在は、他の存在(中略)が夢に見ていることにすぎないではないか、という思い」について、「ラッセルの"世界五分前仮説"とは逆向きだ。読んだときの気持ちも息苦しさとは遠く離れて、胸が空洞になって風が吹きすぎていくようだ」(『小説、世界の奏でる音楽』)と書いている。ということは逆に、保坂氏は、エルンスト・マッハの有名な自画像のようなIモードの視野に「息苦しさ」をおぼえるはずである。自己という堅牢なフレームにはめ込まれ、閉じ込められ、身動きがとれなくなっているような気分になってしまうのだ、きっと。で、こういうふうに感じる保坂氏であるとすれば、いま生きている自分が本当は観念的存在であること、自己の存在の足場が揺らぐことは、むしろ願ってもないことだろう。保坂氏にとっては、これもまた「そっちのほうが現実に近い」の領野に置かれてしかるべきものなのである。たとえば『〈私〉という演算』に含まれる同名の一篇に、「『今こうしている自分がすべて過去のある時点の自分が想像している世界の中で生きているに過ぎない』という想像が作り出す不思議さというかある種の不安定さのことを、『リアリティ』と解釈することもできる」という一文がある。この一文を受け、この一篇では、ふつう「確かさ」の意味あいで使われる「リアリティ」――たとえば「今こうして生きているということ」に伴うそれ――という言葉を、「不確かさ」の意味あいで使ってもいい言葉として扱っている。保坂和志が理想とする「現実」像は、だからこう描くことができる。確実性をもって存在する、揺るぎない基盤としての「世界」と、そうした堅牢な基盤、枠組みから離脱した、幽体のように不確かな「私」。

もちろん保坂氏は、こうしたDモード的な世界像・自己像を、その生のすべての局面において活性化させているわけではない*1。例をあげていえば、『「三十歳までなんか生きるな」と思っていた』という本。この本に「自分が生まれていない可能性」*2について考えるところがあるけれど、最終的にこの問題それ自体を非本質的であるとして棄却する際、保坂氏が援用する理由は、こうである。「(この問題は)いま生きている自分にとって、この生の外に立つことが絶対に不可能だということがすべての思考の前提でなければならないのに、自分が生きている状態をパッケージにして、その外に立つという誤りを犯してしまっている」。つまりここで、Iモード的な《いまここ》の確かな生の名の下に、Dモード的な俯瞰の像が否定されているのである。

再三引用している『世界を肯定する哲学』にも、「私」と「世界」が密着しているという意識を作り出す、「私」が存在していることの自明性、そしてその「私」の視野に収まる形で「世界」が存在していることの自明性について語る、次のようなくだりが見える。

「私」はあまりに明らかに存在している。いまこうしてこれを書いてる私にいろいろなものが見えていること――つまり(中略)私の前に視界があるという事実――が、いちいち言語によって確認する必要がないのと同じように、私はあまりに明らかに存在している。

そして同時に、私の前に視界があることによって世界も存在している。「私」も「私の視界」も「世界」も「私の肉体」も、どれが先ということでなく、それらはいつも揃って、渾然一体となって、言語に先立って、あまりに明らかに存在している。

保坂和志『世界を肯定する哲学』、強調引用者)

ただし保坂氏は、この本で「リアリティ」と対置されるこの「自明性」について、引用部のあと、疑いの目を向けている*3。それでも、この本で保坂氏がカフカを評価するのは、カフカが「俯瞰という視覚イメージをいっさい使わなかった」からだということは、ぜひいっておきたいことである。「この、誰もが無意識のうちにやってしまっている、垂れ流し的な〈自己像〉形成に行き着く操作の筋道を絶った」という点にカフカの現代性があるというのである。保坂氏は、「三人称であるにもかかわらず徹底して主人公グレーゴル・ザムザの目によって実際に見えるものに限定している『変身』において、ザムザは、自分の姿の全体を見ることはできない」といい、「カフカにとって『世界』は絶対に俯瞰することができない」といい、「しかし本当は、カフカだけでなく、誰にとっても『世界』とは俯瞰することができない」といっている。つまり、現実世界のIモード的な成り立ちを承認している。カフカは、このような現実世界の成り立ちに忠実に書いた。そのことを保坂和志は評価する。

引用が続くけれど、『試行錯誤に漂う』に収められた「意識と一人称」という文章にも、こういう指摘がある。「生きている私の意識は一人称ではなかった」。

意識は歩いているとき、「私は歩いている」と考えているのではなく、「人がきた」と思ったり、「車がくる」と思ったり「狭い道なのにスピード出し過ぎ」と思ったり、「この辺にこんな人いたっけ?」と他にも見覚えがない人がいっぱいいるのに特定の誰かのことをそう思ったり、「脚が長い」「残念、胸が小さい」「この二の腕いいな」「あ、猫だ、ペチャに似てる」「このカラス大胆だな」「ここの花は(妻に)教えなくちゃ」と思ったりしているそこに「私は」という主語はない

保坂和志『試行錯誤に漂う』、強調引用者)

このように保坂和志が「生きている私の意識」について、またカフカの書き方について指摘する特徴は、本多啓や池上嘉彦や森田良行や安西徹雄、そしてこのブログで何度か取り上げたこともある熊倉千之らが、これまで日本語の表現について指摘してきた特徴――状況没入性、状況密着性、臨場性、現場性、体験性、あるいは「私」性や「いま・ここ」性、ようするに身体的インタラクションを伴った参照点型の非有界的認知、すなわちIモードの認知を反映した言語表現の特徴と同じだ。保坂和志は、カフカの書き方のうちに日本語のIモード性を再発見しているのだ。

日本語はIモード型言語である。冒頭引用した「ママの玲子さんが専務と芳美さんと私のところに挨拶に行った」という文を読んで「体がクニャッとなる」(「小説はなぜおもしろいのか」)のは、保坂和志の記憶のDモード的な自己像を反映したこの文が、日本語に古くから備わったIモード的な身体性に、思い切りぶつかるからである。

保坂和志が『未明の闘争』に仕込んだ認知上の変則は、でも、この面での抵触にとどまらない。というよりもじつは、こうした文レベルにおけるDモードの反映は、この作品で、かなり例外的といっていいのである。むしろこの作品では、日本語のIモード性が一種極限まで突き詰められている。そしてその突き詰めにおいてこそ、読み手の身体性に強く働きかけてくる。具体的には題目の係助詞「は」が濫用されている。ただの「は」でない。『未明の闘争』でユニークに用いられる「は」は、「は」であるのに、Iモード認知の参照点を反映する目印としての機能を、正しく果たしていない。網羅的に挙げることはしないけれど、たとえば作中「しかしそれは現実のジョンと重なり合うわけではないのは、八十何歳の人がそろそろ寿命だ」という文を読んで、読み手は、「は」の導きに従っていては、狙われた事態の中心にうまく着地できない。だからどうしても無理な姿勢になる。保坂和志との対談で磯崎憲一郎のいう「ガクッとくる感じ」はそのせいだ。『未明の闘争』の読者の身体は、こうした無理な使い方に起因する脱臼、捻挫、肉離れにより満身創痍だ。ズタボロだ。『未明の闘争』以後、保坂和志を読むことの、ここに紛れもない、リアリズムではない、現実がある。 

 

※関連するエントリ:

 

*1:保坂和志は自身の「現実」を截然と二つに分けている。Iモードに対応する《現前の現実》とDモードに対応する《想像の現実》である。これは《世界と密着した「私」の現実》と《世界を離脱した「私」の現実》といいかえることもできる。また、保坂氏は「世界」の永続性をアプリオリな前提としているので、《「私」が死なない現実》と《「私」が死ぬ現実》といいかえることもできる。

*2:「自分が生まれていない可能性」について問うことは、自分が別の誰かとして生まれていた可能性を想定することと同じではない。三浦俊彦は、『多宇宙と輪廻転生』等の著書で、前者の可能性をめぐる問い(「私は存在しないこともありえたのに、なぜ存在してしまったのか」)は問うに値する正しい問いだが、後者の可能性をめぐる問いはナンセンスな問いだとしている。永井均も、〈私〉がそもそも存在しないこともできたはずなのに事実として存在していることを「奇跡性」と呼び、〈私〉が別の人間に実現することだってありえたはずなのに事実としてそうなっていないことを「偶然性」と呼んで、両者を区別している。

*3:『世界を肯定する哲学』の「リアリティ」――「私」と「世界」のズレ、「私の死」の可能性、「世界」の存在をめぐる感触のようなもの――は、『〈私〉という演算』で「不確かさ」に置換可能といわれる「リアリティ」に対応し、「自明性」は、「確かさ」に置換可能な「リアリティ」に対応する(ような気がするけれど、断定はできない)。